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ずっとあなたに近付きたかった。
SIDE:ひな
4ヶ月も一緒に住んでいれば、お互いのプライベートな姿だって目撃してしまうことはある。
セミヌードだって何度も見た。
そもそも晃平は、男なんだから自分の裸に対して見られて恥ずかしいなんて思わないのだ。
だけど。
今のあたしにそれはタブーだった。
目が合った途端、あたしはカゴに置こうとした着替えをばさりと落とした。
温かい湯気がバスルームからふわりふわりと漂い、脱衣所も白くしていく。ドアに手をかけてこちらを見ている晃平 は、当然ながらにオールヌード。
「……ボディーソープ…替えあったかな」
晃平は、自分が全裸だということは気にならないようで、あたしに気付いて驚いただけであった。
「…あ、えっと…うん。―――ちょっと待って」
震える声で短く答え、あたしは洗面台の下から替えの袋を取り出した。
ドアを開けて待っていた晃平に、袋ごと渡す。
「ありがと」
笑顔の晃平に、あたしはうん、と言うのがやっとだった。それから何事もなかったかのように、晃平はバスルームに 戻り、あたしはぼんやりしたまま脱衣所を出た。
<びっ…くりしたぁ~~~>
脱衣所のドアにもたれかかり、そのまま座り込む。
体の中がやけにうるさくて胸を押さえると、心臓発作でも起こしそうなほど早く鼓動しているのがわかった。
<見、…ちゃった>
晃平の、体。
終始目を逸らしていたはずなのに、目の前に殊更クリアに蘇る晃平の肢体。
全身濡れて、なめらかな筋肉の隆起を更に綺麗に見せていた。
水の溜まりそうな鎖骨。お湯の滴る髪。初めて見る、男の人の―――
驚いたのは、晃平が見とれるほど綺麗にバランスの取れたプロポーションだったこと。
そりゃ、あれだけ長身で、かっこ悪い角度なんてない人だから、きっとそうなんだろうとは思ってたけど、でも実際に 見ると、本当に見とれてしまった。
あの腕に抱かれるって、どんな気分なんだろう。
<………え?>
自分で考えたことに、後から我に返る。
そして、腫れてしまったかと思うほど顔が熱くなった。
<~~~もう、だから…っ>
あたしにあんなもの見せないでほしい。
腕に抱かれるとは、抱き締めてもらうってことじゃない。今あたしが思った『腕に抱かれる』は、つまり。
「………変態、あたし」
晃平とは、まだそこまでの関係に至っていない。結婚してもう4ヶ月になるけど、初夜と呼べるものもあったにも関 わらず、あたしと晃平はまだそういうことになっていなかった。
―――いいか晃平。絶対にひなを今まで付き合ってきた女と同じように扱うなよ。
結婚式の夕方。
屋敷の離れで話をしているおじいちゃんと晃平を見た。
―――ひなが何も言わなければ、ひなが高校卒業するまで待つくらいの覚悟でいろ。いいな。
それが何について言っているのかなんて、考えなくてもわかった。
二人の緊迫した雰囲気に入っていけなくて、ただ、本家の影から二人の様子を見るしかなかった。
いつだって優しく笑っているおじいちゃんが、その時だけは晃平を敵のような鋭い眼差しで見つめていた。
だけど晃平も、見たことがないほど真剣な表情でおじいちゃんと対峙していたのだ。
―――もちろんですよ。俺は、ひなの気持ちを最優先します。
はっきりと。
清々しいほどに決意の固さを感じる口調だった。
―――安心して下さい。俺は、ひなを一生大切にします。
涙が出るほど嬉しかった言葉。
それからしばらくその言葉を思い出すだけで、あたしは胸がいっぱいになれた。
でもあたしは、欲深い人間だから。それだけじゃ足りなくなってしまった。
晃平が、吐息が触れるほど近くで毎日眠っている。彼の寝顔を見つめていたくて、夜遅くまでおきていたこともある。寝たふ りをして、晃平の腕に自分の腕を絡めてみたりもした。それだけで、満足だったのに。
<なんで人間って、際限がないんだろう>
これ以上、彼に何をして欲しいんだろうあたしは。
「ごめんなさい!」
お風呂から上がってきた晃平が、タオルで髪を拭きながらリビングにやってきた。
リビングには、さっき焦がして失敗してしまったシチューの臭いが漂っている。
「…ひな」
「なんかぼーっとしちゃってたら、あっという間に焦げちゃって…」
水分のほとんどなくなったビーフシチューは、とてもじゃないけどメインとして食べられる状態ではない。夕食は、他にサ ラダしか用意していない。
<あたし何やってんだろ…>
時計はもう8時を回っている。これから新しく何か作ろうとしても、また食べるのが遅くなるだけだ。
晃平は、きっと疲れているだろうに。
「ほんとにごめん…何か他に作るね」
あたしが謝るのを、晃平は黙って見ている。何も言わないので、あたしはそのままキッチンに入った。
呆れているのかもしれない。それとも、怒っているのかも。
鍋を焦がして食べられなくするなんて、相当ぼんやりしていないとできない。それに最近寝坊が多い。せっかく一人前に 見てもらえ始めたと思ったのに、これでは逆戻りかもしれない。
<ばかだあたし…>
「食べれるだろ、これ。新しく何か作らなくてもいいよ」
あたしの隣りに並んだ晃平が、鍋の中を見て言った。
「―――え? だ…って、ほとんど焦げちゃってるし…」
「でも全く食べられないわけじゃないだろ。サラダもあるし。これ食べよう」
な、と、晃平はあたしを見て、にこりと笑う。
こういう時、晃平が物凄く遠い存在に思える。
<…そうやって、また甘やかすし>
あたしはあなたに、近付きたいのに。
「…ごめんね。半人前の妻で」
情けなくて、晃平の顔が見れなかった。
「ひなさぁ、―――何でも一人で頑張らなくてもいいんだよ?」
鍋の蓋を閉めて、晃平があたしに向き直る。
「失敗だってすればいい。俺はそんなことでひなに呆れたりしないよ。だってそれ以上にひなが頑張ってるのを見てるか らさ。…本当に、頑張ってるだろ? 失敗したって、そういう一生懸命なひなが俺は嬉しいから」
あたしの手からレタスをまな板に置かせると、晃平が両手を握ってきた。
水に濡れて冷たかったあたしの手には、晃平の大きな手がとても暖かく感じた。
「当たり前にこなそうとしなくていいよ。俺は、ひなのしてくれることを、当たり前に思ったことはないから。全部感謝 してる。だから、ちょっとくらい俺に頼ってもいいよ?」
「………。違うの。…あたしは―――」
晃平に似合う妻に、早くなりたいから。
そう言おうとした口を、突然降りてきた影が塞いだ。
それが晃平の唇だとは、キスが終わってからでないとわからなかった。
「俺が、ひなに頼られたいんだよ。一緒にご飯とか作りたいし、一緒に布団も干したい。風呂掃除だって毎回俺でもいいよ 。ひなの力になりたい。…俺も、お前に何かをしてやりたい」
堪えきれなくなって、あたしは首を横に振った。
―――違う、そんなことじゃない。
あたしが失敗をしてしまったのは、晃平が思うほどいい理由じゃない。だから、そんな言葉をかけてもらう立場ではないのだ。
「…ひな?」
ひたすら首を横に振るあたしを不思議そうに晃平が見下ろす。
情けなくて恥ずかしくて、勢いに任せて失敗した本当の理由を口走りそうになって、慌てて口を噤む。
「…なに? 言いたいことがあるなら言って」
頬を優しく包む手が切なくて、恋しくて、あたしは首を振るのが精一杯だった。
すると、晃平は額や頬や鼻の先に、キスを落としていく。
「…ひな。―――俺はそんなに、頼りない男?」
妻の失敗を受け入れられないほど。
少しだけ落胆を含んだ、声色。
あたしはハッとして晃平を見上げる。間近で、吸い込まれそうなこげ茶の瞳とぶつかった。
「違う、晃平は…」
「じゃあ言って? 何が違うのか」
それは。…言ってしまったら、晃平はどんな顔をする?
「…呆れたりしない…?」
おそるおそる問うと、晃平はふわりと笑い返した。
胸がすくような、あたしの大好きな微笑。
「…さっきこ、…晃平の…。………」
やっぱり最後までは言えなかった。だけど、晃平には通じたらしい。
「…それで?」
穏やか過ぎる問いかけに、あたしは立っていられないほどの羞恥を感じて蹲りたくなる。
「…ご、…ごめんほんとに…」
どういう反応をされるのか想像もつかなくて、あたしはひたすら下を向いていた。
だから、今晃平がどんな顔をしているのか全くわからなかった。
「…ひな、俺にしてほしいことある?」
静かな声で、優しく聞かれる。
「………」
してほしいことならたくさんある。
口に出しては、言えないことばかりだけど。
「…ひーなちゃん」
こつ、と額を合わせられる。さっきから握られている手は、すっかり晃平の熱で温かくなっている。いや、自分が発し ている熱のせいかもしれない。
晃平は、何を言いたいの? あたしに、何を言わせたいの?
あたしが思っていることと、同じことを考えているの?
「…晃平が、したいことを、されたいって、思ってる」
あたしの回りくどい逃げのような答えに、晃平はふっ、と笑った。
「…なんだろう。…これかな」
そう呟いて、キスをする。最初は触れるだけの。二度目は唇を啄ばまれる。薄く開いた唇の隙間から、晃平の舌が滑り込 んできた。その感触に、思わず体が震える。
「ん………っ」
奥まで忍び込んでくる舌に、口を大きく開かなければならなかった。こんなところから晃平を受け入れている。心臓は 今にも止まりそうなほど五月蝿く暴れまわって、でも決して嫌じゃない。
全然、嫌じゃない。
腕が自然と晃平の背中に回った。それを合図に、晃平があたしの腰をしなるほど強く抱き締めた。
「…抱いてもいい?」
一瞬、晃平の声じゃないように聞こえた。そのくらい、今まで聞いたことがないほど色っぽい声だった。
びく、と体のどこかが震える。
晃平はあたしの返事を待つ前に、あたしの体を抱き上げた。
「ごめん。返事待てないわ」
軽々とお姫様抱っこをして、晃平は寝室へと歩いていく。
「ちょ、ちょっと待っ…あたし、お風呂まだ…」
「うん。いいよ」
「え、よ、よくないよ、晃平だけお風呂入って」
「うん。いいの。後で入ればいいから」
後って、と、そこまで言ってあたしはまた絶句してしまった。もう、絶対病気だと言われても否定しようがないくらい 顔が熱い。俯くあたしの耳に、晃平が低く囁いた。
「お願いだから一秒でも早くひなを頂戴?」
腰が、砕けたと思う。抱っこされててよかったと思った。
どういう反応をしたらいいのかわからなくて、あたしはおそるおそる、晃平の首に手を回した。
「…好き、晃平」
ゆらゆらと、体全体が浮いたような感覚に目を閉じたあたしの額に、唇が押し当てられる。
「それ、明日の朝も言って」
それからおはようのキスをしよう。明日も。明後日も。これから先ずっと。
それだけで世界は違って見えるだろう。
欲深くていやしくてどうしようもないけど、それだけで幸せになれる単純な人間だから。
「…うん」
明日はきっと、今日以上にあなたが好き。
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