[番外編]Yours lovingly

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[番外編]Yours lovingly

 10年前。  両親の仕事の都合で引っ越してきた家の隣には、都内にはあるまじき馬鹿でかい屋敷が建っていた。  明治か大正か、そのあたりに建てられたであろう古臭い貫禄を持つその屋敷には、それこそ江戸時代の老 中のような貫禄を持った老人が一人と、仕事で滅多に帰ってこない夫婦と、そのせいで老人相手に遊ぶしか ない幼い少女が一人住んでいた。  ある日庭先でサッカーボールを蹴って遊んでいた俺を偶然見つけた老人が、木の柵ごしにこち らに声をかけた。  ―――こっちに来て遊ばんか。  誘われて上がった屋敷には、だだっ広い畳の上で大の字になって昼寝をする少女が一人。  ―――この子の遊び相手になってやってくれんか?  そんな老人の計らいを眠る少女が知るはずもなく、起き掛けに少女が初めて俺に発した言葉と言えば、  ―――きゃあぁ!  この小娘を一体どうやって懐柔しようか。  全身で拒否された俺は、幼いながらに反骨精神剥き出しで計画を頭に巡らせた。  8年前。  まだまだ小さい、世の中の理すらもほとんど理解していないであろう少女が初めて俺の前で泣いた。  雨の降る夕方だった。  授業参観があったのだという。その日は教室授業だけでなく、給食も母親と子供と1セットになっ て摂り、更には5時間目の授業の体育も親子ペアのダンスだったのだという。その参観に、少女の母 親は急な仕事で突然来られなくなったという。それだけ言われれば、少女がどんな思いで今日一日を 過ごしたのか推して測れた。  ―――いいの、おかあさん、忙しいんだもん。知ってるもん、ひなが一番。だからいいんだもん。  いつもよりも力のこもらない声で、そう言った。自分に言い聞かせているようだった。  ―――みんなのおかあさんは、仕事なんてしてないんだもん。だから忙しくないんだもん。  棒切れのように細っこい腕で顔を隠した。  泣いてるのか?と、思わず訊いてしまった。小さくても少女は女だった。そんなこと訊かないで とばかりに、涙に濡れた瞳で俺を睨んだ。  抱き締めずにはいられなかった。  1年前。  出会って9年目にして、胸奥にいつのまにか居座っていた思いにやっと気付いた。  俺には当時、恋人がいた。  中学校の後半から大学時代にかけて、親が聞いたら卒倒しそうな女付き合いを繰り返していた俺が、 やっと巡り合った本物の相手だった。将来を、一緒に見つめてみようと思える人だった。口約束だけで なく、誓いとして指輪を贈った。両親に会いたいという恋人を、家に連れてきた日だった。  ―――…こんにちは。  友達と遊んだ帰りだったのか。夕日が落ちた藍色の空の下、屋敷の前の街灯に照らされた少女は、未 だ制服のままだった。  車のドアにキーを差し込んでいた俺に気付いて駆け寄りかけた少女は、助手席のドアの前に佇む女 性に気付いて棒立ちになった。そして、すっかり夜だというのに、こんにちはと言った。  こんにちは、と笑って言い返した恋人の婚約指輪が、街灯に光った。その輝きとは比べ物にならない 弱弱しさで、少女の目元が光った気がした。  ―――綺麗なひとだね。  その言葉を発するまでにどれだけの思いを巡らせたのか想像しきれないほどに、少女は複雑な顔を して笑った。  街灯に照らされたダイヤモンドよりも、綺麗だと思った。  そして1ヶ月前。  まだまだ重なるはずのなかった二つの人生が、突然重なった。  少女の、一言によって。 *** 「天宮先生、今日の夜の飲みには参加できるんでしたっけ?」  放課後、HRも終えてぞろぞろと戻ってきた教師達と入れ替わりに教官室へと向かおうとした俺は、後ろ から声をかけられて振り向いた。  入れたての麦茶を片手に、こちらを向いていたのは藤堂千夏。現国の教師だった。俺より4つ年上で、 だが教職歴はまだ2年。大学を出てからしばらく予備校の講師を務めていたという。私立校の教師と予備 校の講師。天秤にかければ後者の方がおいしいように思えなくもないのだが。 「今日はちょっと無理ですね。定例飲み会のことでしょう?」  そう答えて、俺は広げかけていたファイルを閉じる。 「若い先生がちっとも集まらないって、高須賀先生が言ってましたよ。緊急の用事じゃないのなら、顔見せ くらいでもいいから参加しませんか」  高須賀…言われて思い出すのは、顔つきから髪型から口調から全てが神経質そうに見える、中年の おばさんの顔だ。  言わずもがなだが、俺はあの教師のことが好きじゃない。 「もしかして藤堂先生、高須賀先生に脅迫されたんですか」  職員室であるにもかかわらず、物騒なことを口走る俺に、藤堂先生がひやりとしたような顔をする。  だが俺の言葉は、ざわついている職員室の誰にも聞かれた様子はない。勿論、そうだとわかっていて言っ たのだが。 「―――明日は土曜日だし、家族もいないんだから困る人はいないでしょうって」 「失礼なこと言いますね」 「天宮先生」  嗜めるように名前を呼ばれ、俺は苦笑した。 「私一人じゃ無理ですよ。それとも、今日はデートでも?」  もしやこっちの質問が本当の目的ではないのか、と一瞬疑いたくなるような意味深な視線が送られる。が、顔には出さずに気付かない振りをする。 「デートの予定はありませんけど。明日が長い一日になりそうだから、今日は大人しく帰って休みます」 「長い一日?」  聞き返されて、俺はまた苦笑する。 「―――多分、ですけど」  本当に明日、俺は結婚するんだろうか。  挙式は既に明日と迫っている今日になっても、俺は何度となく自分の胸に問いかけていた。  5限の授業に、ひなの教室に行った。普通に期末テストの範囲を発表し、それに合わせた範囲の授業内 容を進め、何事もなかったかのように教室を出てきた。至っていつも通りの授業風景が、そこには広がっ ていた。  授業中、二度、ひなと目が合った。普段なら目が合うどころか顔さえまともに見ないのだが、今日に 限ってはそうはいかなかった。  ―――お前は、どういう心境で今そこにいる?  その問いが、終始頭にこびりついて離れなかった。  目が合う度に教科書もチョークも放り投げて、ひなの両肩を掴み、どうなんだ、と問いかけたいと本 気で思った。  ―――お前は、明日、本当に俺の妻になってくれるのか?  ノートに黒板の字を写すために俯いた時、横から髪が流れてひなの顔を隠す。それを何気なく掻き揚 げたその左手の薬指に。俺と同じ指輪を。  <……女々しい>  公衆の面前で、結婚宣言をすれば気がおさまるのか。少しは実感が湧くのか。  今の俺とひなを結び付けているものは、全て口先ばかりで、確固たる事実は何一つない。 「あ、天宮先生、さようならー」  廊下を歩きがけ、正面から歩いてくる生徒に声をかけられる。  ぼんやりしたまま顔を上げた俺は、挨拶をしてきたらしい生徒を見止め、次にその隣りにいた人物に気 付いて思わず挨拶を返し忘れた。 「? 先生?」  きょとん、とした女生徒の声に、我に返る。 「―――寄り道するなよ」 「あ、なによ~寄り道なんてしませんよ、あんな膨大なテスト範囲聞かされて、暢気に遊んでら れないって」  どうだか、と笑って返し、二人とすれ違う。ふくれっ面の女生徒の隣りを歩くひなは、最後まで無言だった。  <…爆弾を抱えているのは、あいつも同じか>  だけど、あの日以来、心の底からのひなの笑顔を、俺は見ていない気がする。
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