[番外編]Yours lovingly

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 黒板にチョークで長い英文を連ねつつ、教科書片手にその英文の説明を入れる教師を見ながら、あた しは思う。  大人って器用だ。  喋りながら文字を書くことが出来る。それも、全く違う文章を。その方が効率いいだけなのかもし れないけど、一度に一つのことしか出来ないあたしには、それがちょっとした神業のように見える。  そしてそういう事が出来る大人は、きっと簡単に自分の本音を隠すことが出来るのだろうと思う。  例えば、突然この教室の中の生徒の誰かが立ち上がって、『明日の予定はなんですか?』って訊いたっ て、顔色一つ変えずに、『テスト問題作りです』なんて冗談交じりに答えるに違いない。  そう、例え、この目の前の教師に明日結婚するという予定があったとしても。 「―――be afraid of ~ingとbe afraid to~では訳が微妙に違ってくるので注意して。上の~ingの方 は『~するのではないかと恐れている』になるけど、下の例文のto~の方だと『怖くて~できない』とい う風になる。ひっかけ問題には多いから気をつけるように」  そんなことを言いながら、同じような、でも意味は微妙に違うという英文をすらすらと黒板に書いていく。  <…『怖くて』…、―――怖くて、訊けないよ>  本当に明日、結婚するんですか?―――なんて。  一様にノートを取っている生徒の中で、あたし一人が手を休めていたらしい。  教室内をぼんやりと見渡していた教師と、ばっちり目が合ってしまった。綺麗な左右対称のアーモ ンド形の瞳が、あたしの視線を捕らえる。一瞬息の仕方を忘れた。  何かリアクションを起こされる前に、慌てて目を逸らす。逸らしてから、自分のした事に後悔した。  不安で不安で、口から手が出そうになるくらい彼に触れたいという思いが、黙々と板書する生徒達の頭上 を漂った。  ―――一緒に暮らそうか。  彼は、あたしにそう言ってキスをした。  呆然とするあたしを見て、更に言葉を忘れるような微笑を浮かべてこうも言った。  ―――ひなが好きだよ。  何をどう、整理したらいいのかわからなかった。  あたしと彼は、まだ何一つとして始まっていないはずだった。  彼にはあたしが十年頑張っても手の届かないような綺麗な婚約者がいた。その人に会ったのは一年も 前で、しかしそれ以来その人を見ることはなかった。だけど何の問題もないように見えた。彼は彼女に 出会う為に生まれてきたんだろうと思えたし、彼女にとっても逆のことが言えたから。  心底、本当に目の前が真っ暗になるくらい悔しいと思ったけど、認めざるを得なかった。だってあ たしはただの幼なじみで、8つも年下の中学生で、義務教育真っ只中で、化粧だってお洒落だって知 らない子供だった。彼が選んだ人を、否定する権利はどこにもない。  やっと、彼と自分の距離に納得ができたばかりだったのに。彼の一言が、あたしがついさっきま で固めていた価値観を、積み木を崩すようにバラバラにしてしまった。  ―――“コウ兄ちゃん”て呼ぶの、やめな?  最早彼と自分の距離が、どれだけ離れていて、どれだけ近いのか、全くわからなくなっていた。  ―――だ、だって、  何がだってなのかわからなかったけど、とりあえず反論していた。  ―――これからは、“晃平”って呼んで。  晃平、と。心の中で呟いただけで顔が熱くなった。  いったい、どこの世界に夫の名前を呼んだだけで赤面する妻がいるだろうか?  無理。絶対無理だ。あたしと彼が、―――結婚、だなんて。  いつまで見続けるだろうと思っていた白昼夢は、とうとう覚めないまま、今に至る。 *** 「お帰り、ひな」  夕方、帰ってきて何も言わずに家に上がったあたしの気配に気付いたのか、縁側の方からおじいちゃんがにこにこ した顔をして出迎えてくれた。夕方の5時と言っても、7月中旬だ。まだまだ太陽は高い位置で熱を 放射している。 「ただいま」  それだけ言って自室へと入りかけると、後ろからおじいちゃんが心配そうに声をかけた。 「…―――ひな」  何かを含むような声色に、あたしは後ろを振り返る。おじいちゃんは灰色の涼しそうな作務衣姿 で、眩しそうにあたしを見つめていた。 「大丈夫、じゃよ」  おじいちゃんは、ここ最近のあたしの情緒不安定を一番理解してくれていた。言葉にして相談したこ とはないけど、顔色や口調だけで、あたしが何を考えているのかわかってくれる。あたしが発している サインに、おじいちゃんも言葉もなくサインを返してくれる。仕事で週3日しか家に帰ってこないお母 さんには、決してできないこと。  だけど、今だけはおじいちゃんの思いやりも、少しもあたしを安心させてくれない。 「…―――疲れたみたい。ちょっと、昼寝する」  マリッジ・ブルー。そんな言葉が頭に浮かぶ。  だけど、違うと思う。そんな大層なものにかかるほど、あたしは今の状況を受け入れきれていない。  自分の部屋には上がらずに、制服のまま縁側の隅に行き、すとんと座る。  涼しげな石灯籠や松の木が絶妙な配置で置かれている庭を見ていても、体まで涼しくなるわけはない。 かすかに吹いていた風も止むと、むせ返るような暑さを感じて息が止まる。  座っているのも億劫になってきて、そのままごろりと板張りの床の上に横になった。  <どうして素直に喜べないんだろう>  ずっとずっとずっと、憧れ、慕ってきた、大好きな人に求婚されたのに。  <…好きって、言われたのに>  蕩けるような、今まで見たこともないような微笑を浮かべて。ひなが好きだ、って。  信じていないのか。実は明日の朝になって、実は嘘でした、なんてオチがあるかもしれないなんて、 本気で疑っているのか。そう考えて、直後に打ち消した。晃平がそんなひどい嘘をつくわけがない。  晃平のことは信じている。後悔もしていない。―――ただ。  <実感が湧かない…>  あたしのどこが、彼にとって必要だと思えたんだろう?  好きだって言うなら、それを証明してほしい。  口先だけじゃ夢を見ているのと同じだ。  <………我侭>  夢を現実と認められるようになるまで、あたしは晃平とどういう顔をして会えばいいんだろう。  不意に背後に人の気配を感じて、自分がいつの間にか眠っていたことに気付いた。  気がつけば瞼の裏が暗い。じっとしているだけで汗ばむような気温も、幾分か下がってきて いるようだった。  伸びをしてから起き上がろうとしたけど、近付いてきた気配がおじいちゃんではないことに気付い て動作を止める。 「………ひな」  晃平だった。  あたしは動作だけでなく、呼吸まで止めそうになってしまった。  起き上がるタイミングを計るうちに、晃平は横たわったあたしの横に腰を下ろしてきて、ますますタイ ミングを失っていく。  しばらく寝ているあたしを上から窺っているようだったけど、本当に眠っていると納得したのか、少し小 さくため息をついた。 「―――夕ご飯、出来たってよ」  小さな、おそらくあたしが本当に眠っていたら気付かないくらいの囁き。  今起きたばかりを装って目を開けようか、と思った矢先。  何かが唇に触れた。  その時不自然に息を吸ったことを、晃平は気付いていたかもしれない。だけど気付かない振りをする つもりなのか、何も言わずに何かを唇に滑らせ続ける。感触から、指先だとわかった。 「……ひな」  もう一度名前を呼ぶ。だけどそれはもう、名前を呼んでいるだとかそういう次元ではなくて。 「…ひぃな」  心臓が存在を主張する。どくどくと、目にもわかるくらいに大きく鼓動している。  晃平の声は今まで聴いた中のどれよりも慈しみ―――そう、慈愛に満ち、そして切なく掠れていた。  何度も優しく唇をなぞられ、そのうちその指先は頬に滑り、耳元へと移動していく。耳に触れられ た途端に、そこからゾクゾクッと鳥肌が立った。目を開けずにはいられなかった。  ぱっちりと目を開けたあたしの視界に、薄暗い闇の中であたしを見つめる晃平の顔が入ってくる。 「…。―――ご飯が出来たから呼びに来た。こんなところでうたた寝したら風邪引くぞ」 「―――あ、うん。…ありがとう」  棒読みの返答に、晃平が小さく苦笑したけど、それ以上何も言わずに立ち上がった。まだ座ったま まのあたしの頭を手のひらでぽんぽんと叩き、 「明日、寝坊するなよ」  まるで遠足気分の軽い口調だった。だけどあたしは気付きかけている。  晃平の優しい微笑の奥に隠されている、本当の、真摯な思いに。
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