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ひなの不安そうな、それでいて不安を隠そうとしている顔を見ていると、どうにかして言葉でひなを安心させてやろうと試みる のだけど、ひなを好きだと思う気持ちは、どうしても言葉には出来ない。
例えば、優しいところ、とか、笑顔が可愛いところ、とか、一緒にいて落ち着く、とか。全て当てはまる事だけど、完全に的は得 ていない。それに、そんな有り触れた言葉では、ひなの不安を取り除けないことも知っている。俺たちは有り触れたカップルではな いのだから。だからといってこのまま何も言わずに、ひなに永遠を誓わせるわけにはいかないと思う。
どうすればいいのか。ひなに気持ちを疑われたまま、式を挙げるわけにはいかない。
そう思っていたのに、ひなの白いウェディングドレス姿を見た瞬間、思考回路がどこかへと飛んで行ってしまった。
白いシフォンを何枚も重ねたドレスの裾には、細やかなレースをあしらっていて、角度を変えると丈が微妙に違うことが分かる 。身長に違和感を覚えるのは、ヒールのある靴を履いているせいだろう。デコルテラインが最も綺麗に見えるようにデザインされ たドレスの胸元に、白いパールのネックレス。白バラとデルフィニウムのブーケを持って、全身鏡の前でぼんやりしているのは、 ―――今日俺の妻になる、ひな。
「どう、晃平くん。ちょっとは見違えたかしら」
控え室に入ったものの、一言も発せずにいた俺に、ひなの母親の志緒さんが嬉しそうに声をかけてくる。それで、ひなはようや く俺に気付いてこちらを向いた。くるっ、と、そんな効果音が似合いそうな振り向き方に、ああ、いつものひなだ、と妙な感慨を 覚えた。
「―――ちょっとどころか。一瞬誰だかわからなかったですよ」
巧い褒め言葉が出てこない。
もっと何かあるだろう。気の利いたセリフ一つ言えない自分がもどかしい。
「晃平くんこそ、ますます男前になっちゃって。どこの俳優さんかしらと思っちゃったわ、ねぇひな」
志緒さんの振りに、ひなが戸惑ったように瞳を揺らしながら、小さく頷く。
反応の薄い娘を見て、志緒さんは肩をすくめて見せた。
俺とひなの電撃結婚において、志緒さんは数少ない賛成派だ。明確な反対派がいるわけではないが、それでもこのことに対し素 直に喜んでくれる親族というのは、志緒さんとひなの祖父、千造氏くらいのものだ。
志緒さんは有名女性雑誌の編集をしていて、日々取材や打ち合わせに奔走している。もともと子育てをしながらできる仕事ではな い。それをわかっていて、志緒さんは昔から子育てではなく仕事を選んできた。出張を繰り返している父も、電話や手紙を寄越すこ とこそあれ、直接ひなと思い出作りをしたこともない。ひなが小さい頃から一人ぼっちだったのはそのせいだ。
それでもスレずに真っ直ぐ育ってくれた娘の我侭を、聞いてやれないはずがない。寂しい思いをさせ続けてきた娘への、罪滅ぼ しもあるかもしれない。愛してないから傍にいてやれなかったわけではないのだ、ということは、ひながそれほど母に対して蟠り を感じているようには見えないことからわかる。あるいは、それだけひなの人間性が深いということかもしれない。
「式は11時からだったわね。もう少し時間があるから、二人でゆっくりしてなさい」
そう言って俺とひなを見比べると、嬉しそうに出て行ってしまう。
バラの香りが微かに漂う控え室に、白く正装した俺たちだけが残された。
微妙な沈黙。
「…ドレス、苦しくない?」
ひなが座るイスのそばに、付き添い人用かの丸い回転イスがある。そこに座った。
式を挙げると決めたはいいものの、プロポーズから挙式までの期間が短すぎた。教会を探すのだけでも手間取ってしまった のだが、志緒さんが以前仕事で世話になったブライダルサロンの店長に頼んだところ、快く貸してくれたのだった。
「ううん。ただ、重い」
「そうか? 見た目、軽そうに見えるけど。どこかに飛んでいきそう」
何気なく、ひながかぶるベールに手を添える。そのまま頬に指を触れさせ、キスしたい衝動に駆られた。
「そんなわけないよ。―――コウ…晃平こそ、別人みたい」
呼び捨てにするのにかなり時間がかかった。何を言うのかと思えば、と思って苦笑した。
「…もう一回言って」
「え?」
「名前」
途端に、ひなの顔が赤くなる。チークを入れたピンクの頬がますます濃い色に染まり、それは耳まで伝わっていく。
「―――な、なんで」
「聴きたいから」
「っ、いっつも呼んでるじゃない、名前なんてっ」
「そうか? 俺まだ、2回しか聴いたことない」
「2回も聴いてるじゃないっ。それに…、これからは毎日、…呼ぶわけだし」
胸元まで赤くなっている。申し訳ないくらいに赤面したひなを見て、逆に顔が緩んでしまった。
「毎日。―――毎日、なぁ」
しみじみ繰り返すと、ひなはとうとう唸り、仕舞いには俺の腕を一発叩いてきた。
「なんで殴るんだよ。幸せを噛み締めてるのに」
ひなはまだ知らないだろう。
俺が、身も心もだらしなく緩んでしまうのは、たった一人ひなの前でだけだということを。
自分が今、誰の前でもしたことがない笑顔を浮かべているのがわかる。
たったそれだけなのだ。
俺がひなを、どうしても傍に置いておきたくて、どうしても他の男のものになってほしくなかった理由なんて。
愛してるとか好きだとか、そんな感情はいつだって後からついてくる付属品に過ぎない。
ただ、俺の傍で笑うひなを。ひなの傍で安らぐ俺を。求めることはそれだけだ。
「…―――幸せ、って、…今感じる?」
ひなの呟きに我に返った。
口元を引き締め、ひなを改めて見つめ返すと、慌てて手を横に振った。
「あっ、そ、そんな、別に深い意味じゃなくて!」
「深い意味じゃなくて、何?」
「…深い意味じゃなくて…、―――ただ、そんな事で晃平は幸せを感じてくれるんだ、って思って」
その一言が、ひなが抱えている複雑な気持ちを全て言い表しているような気がした。だから俺も、言葉を注意深く選んで、ゆ っくりと答えた。
「感じるよ。些細な事だってひなは思うかもしれないけど、俺だって案外単純に出来てるんだよ。ひなより8年長く生きてようと 、幸せを感じる基準まで高くなるわけじゃない。…それに、好きな人に名前を呼んでもらう事は、女だけが夢見るものじゃないん だよ?」
ぽとり、とブーケが足元に落ちた。それを拾い上げてひなの両手に握らせる。そのままその手を包み込んだ。
「わかる? 俺が緊張して、興奮して、手に汗をかいてるの」
ひなの瞳が大きく揺れたかと思うと、やけにくっきりと俺の顔が映り込んだ。
「…晃平」
「うん。もっと呼んで。俺も呼び返すから。そこから始めて行こう?」
包み込んでいた両手が震えた。声にせずにひなはこくりと頷いた。その拍子に、ぽたぽたっと涙の雫が膝に落ちる。
「…あたしきっと今、世界一の幸せ者だよ」
今だけでなくこの先もずっと、そうであってほしいと思った。
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