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小高い丘の上に立っているその教会は、全てが小作りなわりに天井がやたらと高い。空に突き抜けそうなほど縦長なス テンドグラスに朝日が透過して、教会の中を極彩色に染めている。
天井が高いせいか、小さな物音もドームのようになった天井へと昇り、何かのさざめきのように再び耳に降りてくる。 パイプオルガンの音色が、ひっそりとした空気に馴染む。鳴っているのか空耳なのかもわからないほど控えめに。
老年の牧師が聖書を片手に誓いの言葉を読み上げる。
ベールの向こうにいるイギリス人の牧師は、あたしの耳にも聞き取りやすいようにゆっくり喋ってくれた。
あたしが少し震えながらはめてあげた指輪をつけた手で、晃平がベールをゆっくりとめくる。
終始俯き加減だったあたしは、その時初めて晃平を見るために顔を上げた。
―――ここから始めていこう。
ふいに、さっきの晃平の言葉を思い出した。
今の晃平はあたしを見つめて、木漏れ日のような穏やかな微笑を浮かべている。まるで、大丈夫、俺がいるから安心 して、って言われているようだった。
それに従って素直に肩や腕の力を抜く。というより、勝手に抜けていく。ふわふわと、極彩色の光に包まれ たまま、晃平と一緒にどこかへ飛んで行けそうな気がするくらいに。
気付くっていうことは、信じていくっていうことなのかもしれない。
今あたしの目の前には、晃平の気持ちを隠してしまう壁がない。ありのままの裸の晃平が立っている。だからあたし も、裸になっていいのだと。裸になって、晃平を信じても。
そこに愛する人がいて、微笑んでくれている。だからあたしは信じていく。
目を閉じると、唇に晃平の唇が触れた。
緊張のせいでかさついたあたしの唇に、しっとりと柔らかい晃平の唇が重なる。こういう場所だからということを意 識して言えば、まるで天国の感触だった。未知の柔らかさに、不安を覚えるどころか幸せを感じてしまう。眩暈さえ起 こしそうなほど。
それがあたしと晃平の、ファーストキスだった。
お互いの両親と従兄弟くらいしか集まらなかった結婚式に、当然披露宴はおろかブーケトスすらもなく、式が終わると そのまま教会で一時解散となった。着替えの付き添いのためにお母さんが控え室まで着いてきてくれたけど、あとの皆は 屋敷に帰り、ささやかな祝宴の準備をする予定らしい。
「―――お母さん…。泣きすぎだよ…」
控え室に戻ってからもずっとハンカチで目元を拭いているお母さんに、あたしはとうとうため息をついてしまっ た。式の、それも誓いの言葉のあたりから洟をすする音が聞こえ始め、誰かが泣いてるとだけ思っていたのだけど 、全てが終わってふと後ろを振り返ると、実は泣いていたのはお母さんだった。
それも、だいぶぐちゃぐちゃに。
「うるさいわね。しょうがないじゃない、色々と複雑なのよお母さんは」
猫かわいがりしてくれているおじいちゃんでさえ目を赤くする程度だったのに、お母さんの泣きようと言ったらまる で少女のようだ。でも、お母さんがこうだから、あたしはお母さんのことを嫌いになれない。仕事仕事でかまってくれ なくても。
「お父さんもしばらく話しかけない方がいいわよ。ひなの顔見ただけで泣くだろうから」
そういえば、式が終わって気がついたらお父さんの姿は既になかった。お母さんの言葉が冗談に聞こえなくて、 代わりに涙が出てきた。
結婚をした、という実感は全くといっていいほど湧いていないけど、お母さん達がこうして涙を見せると、意識とは 別のところで実感しているように、勝手に涙が出てくる。ついに泣いてしまったあたしに、お母さんが苦笑しながら頭 を撫でてくれた。
「子供不孝なお母さんでごめんね。―――でも、ひながいい旦那様を見つけてくれてよかった」
「……おかあさん」
「きっとね。晃平くんは、待ってくれるから。お母さんはそれを確信してるから。だから二倍に嬉しいの。ひなが一人 で幸せを見つけてくれたことと、その幸せがちゃんと、地に足をつけた確かなものだってことと」
思わず、晃平がはめてくれた指輪に触れた。
シンプルなデザインで、シンプルだけどきらきらと光を反射する指輪。あたしはこれを、きっとこれから何度も触るだろうと思う。
それこそ、病める時も健やかなる時も。
「―――手放さないように、しっかりと掴んでおくのよ」
指輪に触れているあたしの手を上から包み込み、お母さんは強い瞳で頷いた。
***
ささやかな祝宴、というのは実際のところ、親戚が集まって二人を中心にご馳走を食べたり、お酒を酌み交わしたりするだけ の、正月やお盆にある飲み会と変わらない宴だった。
晃平のお父さんとおじいちゃんがお酒を片手に、ますます近くなりますなぁ、なんてことを穏やかに言いながら笑っている 。あたしのお父さんは相変わらず無口に、お母さんに酌をしてもらいながらお酒を飲んでいる。
いつも通りなのは、かえってすごく落ち着いていいのだけど。
だけど、今日の夜、あたしは一体どうなるのだ?
いわゆる、『初夜』―――と呼ばれる今夜。
この宴が何時に終わるのかはわからないけれど、とりあえず今日からあたしは、晃平と同じマンションで暮らすことに なっている。今年の春に引っ越したばかりの新築1LDKで、新居同然だと言わんばかりにあたしはそこへ引っ越すこと になってしまったのだ。
唖然とするあたしをおいて、晃平とお母さんはさっさと決めてしまった。
<―――だからって晃平本人に聞けるわけないし>
隣りで、あたしとは反対の隣に座っている年上の従兄弟という人と話をしている晃平の手元を見る。
長い指と、綺麗な手の甲。男らしくて、でもどこか繊細な印象も受ける手。この手に女として触れられたことなんて、プロポーズの 時と、さっきの式の最中くらいだ。
<…ど、…どうしよう…>
お酒も飲んでいないのに動悸が激しい。全身が心臓になってしまったかのように、あちこちが脈打っている。
「―――どうかした? ひな」
こちらの異変に気付いた晃平が、突然あたしの顔を覗き込んできた。
「え!? あ、いや、なななんでもない。―――ちょっと疲れちゃったのかな。少し外歩いてくるね」
「大丈夫か? 付いていこうか」
「いや、一人で平気! ありがと、晃平は皆と食べてて」
そそくさと立ち上がると、あたしはおじいちゃん達に気付かれないよう、こっそりと屋敷の外に出た。
それからふらふらと、なんとか晃平の前では落ち着いた態度でいなければ、と妙な義務感に囚われながら、近所を歩き回 った。真夏の夕方前は一番過ごしにくい。むしむしと空気が湿気を帯びて密度を増し、再び家に着く頃には本当に疲れ果て てしまっていた。
屋敷の本家に入ろうとして、ふと、西の離れに動く人影に気付いた。晃平の背中だった。
<―――? なんであんなところに…>
気になって、本家には上がらずに離れの方へと歩いていく。本家の角を曲がろうとして、思わぬ厳しい声色に足を止めた。
「いいか晃平。絶対にひなを今まで付き合ってきた女と同じように扱うなよ」
おじいちゃんの声だった。
こっそりと陰から窺うと、晃平の目の前に、厳しい顔つきをしたおじいちゃんが仁王立ちしていた。
「ひなが何も言わなければ、ひなが高校卒業するまで待つくらいの覚悟でいろ。いいな」
いつもはのほほんと、仙人のような穏やかさで笑っているおじいちゃんが、別人のように晃平を睨みつける。晃平を、 晃平と思っていないかのような、むしろ敵対心でも抱いているかのような剣幕。
どうしてそんな顔をしているんだろうと考えかけて、今二人が何の話をしているのか唐突に気付いた。
「もちろんですよ。俺は、ひなの気持ちを最優先します」
反対に、晃平の声は至って涼やかだった。だけど、ハッとするほど意志の強さを感じた。
「安心して下さい。俺は、ひなを一生大切にします」
録音して、何度も繰り返し聞きたい言葉。今のあたしに、そんなことを思ってくれる人が本当に存在するなんて、本気で信 じられなかった。
夢を見ているのではないか。
だけど、夢なら一生覚めないでほしい。
そのためなら、あたしはどんな努力だってしようと思った。
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