[番外編]Yours lovingly

5/5

83人が本棚に入れています
本棚に追加
/31ページ
「―――あれ? ひな、帰ってたのか」  本家の座敷で開かれている祝宴は、日が落ちかけても相変わらずお開きになる気配がない。あたしはやっぱり屋敷には上がらず 、庭先の石の腰掛けに座り込んで、夕日を眺めていた。  大人たちの相手をするのが億劫なわけではないし、疲れたわけでもない。  ただ、さっき聞いてしまった晃平の言葉を、一人でもっと味わっていたかった。  ぼんやりと脳裏に晃平の顔を思い浮かべ、一番かっこいいと思う表情をさせ、さっき聞いた言葉を重ねる。ほぼ夢の 連続再生だ。そんなところへ晃平本人がやってきたのだから、飛び上がらずにはいられない。 「―――こっ、晃平」  頬杖が顎から外れて格好悪く姿勢を崩してしまった。取り繕うように立ち上がったけど、晃平はしっかり気付いていて、クス クスと笑っている。 「うん。だいぶ馴染んできたな。まだ少し動悸がうるさくなるけど」  それはあたしの動悸が?と一瞬考え、そのすぐ後に晃平の動悸の話だ、と気付いた。それはそれで、あたしにとっては冗 談のように聞こえる。  だって、学校では誰も近づけないほどの憧れの的である天宮先生が、こんなあたしに名前を呼ばれただけでどきどきする、な んて言ってるんだから。 「信じてないな」  また見抜かれた。顔に出ているのかもしれなくて、あたしは両手で頬を押さえた。熱があるみたいに熱かった。 「これなら信じられる?」  近寄ってきた晃平が、あたしの右手を取って自分の左胸に当てさせる。白いYシャツ1枚を隔てて、晃平の温かい胸板がどくどく と速い脈を打っていた。 「今日から俺は、幼なじみの8歳年上のお兄ちゃんじゃないから。好きな女に名前を呼ばれて動悸を狂わせてるただの男だから」  胸板にあてがうために掴んでいた手は、いつの間にかあたしの胸の前で優しく包み込まれていた。 「間違ってもそこは忘れるなよ?」  そう言って、楽しそうに微笑む。この笑顔がたとえニセモノだったとしても、信じたことに後悔はしないだろうと思える ほど、それは綺麗な微笑だった。  言わずにはいられない思いが、唐突に喉元までこみ上げてくる。 「―――あたしね、」  晃平の手をゆっくりと離して、一歩下がり、晃平と真正面から向き合う。  立ち上がると、靴擦れをした踵がヒリヒリと痛んだ。今日一日、慣れないヒールのある靴を履いていたせいだ。それであたしは 更に近所を散歩なんてしてしまった。  そう、今のあたしに、こんな高いヒールは似合わない。  話をしかけて黙っているあたしが突然その場で靴を脱ぎ始めたので、晃平がぽかんとした。  両手でヒールのパンプスを持ち、再び晃平と向き直る。いつもの、学校ですれ違う二人の身長差に戻って、ようやく自分らし さと余裕を取り戻した感じがした。 「晃平ならもう知ってると思うけど、あたしは器用でも、ましてや完璧でもない。こんなヒールを一日履いてただけでギブアップ するような、とてもじゃないけど「大人の女」には程遠い子供だよ。きっとあたしが自覚するより、晃平の方が思い知ってること かもしれない。―――でもね」  地面にぺったりと足の裏をつけているせいで、少なくとも自分の体は支えられている。こんなヒールの高い靴を履いていては、き っと言えない言葉だった。 「必要だと、思ってもらえるような女になるから。一緒にいてよかったって、思ってもらえるように。今はまだ不器用で子供 で面倒くさくて、回りくどいかもしれない。でも、晃平があたしを選んで…―――他の誰でもない、あたしを選んでくれたこ と、絶対後悔させないから」  晃平の瞳が、目に見えて揺れた。それは、本当に驚いたという表情だった。 「だから、今は、待っていて欲しいの。出来るだけ早く、晃平に近づけるように頑張るから。だから」  目の前に広がっていたオレンジの風景が、一瞬にして塞がれた。  庭や空や屋敷をオレンジに染めていた夕日を遮るようにして、晃平があたしを頭ごと抱きすくめていたのだった。 「―――晃平」 「ごめん。続きがあるなら、このまま言って。―――どうしても抱き締めずにいられなくなった」  言いながら背中を全て包み込むように、あたしの体を深く胸の奥へと押し付ける。  心臓が今すぐ止まってもおかしくないほど暴れまわっていた。 「…もう、ない」  頭の中が真っ白だ。  もとから何を言おうとしているか、頭の中でちゃんと組み立てずに喋っていた。ただ、言葉は支離滅裂でも、言いたい言葉を 支離滅裂にしただけで、言いたくないことを言ってたわけじゃないことは確かだ。 「もっと言ってよ」  子供みたいに要求されて、あたしは思わず笑ってしまった。小さな不安が、するっと風に流されていくみたいに、心の 中から消えていく。 「…―――晃平が、好き」  耳元に触れていた晃平の吐息が、一瞬途切れた。 「好き。…大好き。―――ずっとずっと好きだった」  言ってて、涙が溢れてきた。何年も、何千回も何万回も、我慢してきた言葉だった。  初めて晃平が、あたしだけのお兄ちゃんではないことを知らされた時。晃平が永遠に知らない女の人のものになって しまうかもしれないと思った時。それだけじゃない。学校で授業を受けている時、挨拶を交わした時、笑顔を見た時、 晃平について想う時。  言ってはならない言葉なんだと思ってた。  あたしはそんなことを言える立場じゃないんだとずっと思ってきた。  心の中でだって、ずっと我慢してた。呟けば、思いは募るだけだと本能で気付いていたから。  不安がなかなか立ち去ってくれないのは、そんな自分が、夢見心地な自分を叱咤するからだ。  だけどもう、そんな我慢をしなくてもいい。怯えなくてもいい。  これからは、素直に、晃平に気持ちを伝えてもいいのだ。 「―――大好きなの。本当に、晃平だけが、…ずっと、前から」  晃平に直接振動が伝わる、と思っても、泣くことを止められなかった。  どうして泣いているのか、少し混乱して麻痺しかかっている頭では、まともな答えは出せなかった。悲しいわけで もないのに。だけど人は自分が抱える想いを許容しきれなくなった時、言葉に出来ずに泣いてしまうのだと思った。  伝えれば伝えるほど、気持ちは急速に募っていく。際限がなくて怖くなるほど。 「…ひな」  掠れた声が、不意に耳に届いた。  泣きすぎて恥も躊躇いも忘れ去ってしまっていたあたしは、名前を呼ばれて条件反射で顔を上げた。晃平の瞳を 視界に捕らえた瞬間、唇に晃平のそれが落ちてきた。  窒息してしまいそうに晃平が強く、あたしの体を抱き締める。痛いくらいにそれを感じて眩暈がする。もっと強く掻き 抱いてもかまわないと思う。  散々好きだと繰り返して、ちょっとだけ満足した後、体を晃平に預けたまま呟いた。  ありがとう、と。 ***  ベッドの足元に落ちていた、凝った装丁のアルバムを拾い上げる。  白バラのブーケと青いリボンのレリーフになっている表紙に、英語で誓いの言葉が印字されていた。指でなぞっていると、後 ろから晃平が手元を覗き込むようにして、あたしの肩に顎を乗せた。 「何見てるの」  寝起きらしく、いつもより抑揚のない掠れた声。 「―――これ。今日…って言っても、もう昨日か。アルバム出したっきり、その存在忘れてたでしょ」  今日は―――詳しくは日付が変わったので昨日だけど、あたしと晃平の、1回目の結婚記念日だった。 「忘れてたわけじゃないけど…。思い出よりも今の方がいいなって思っただけで」  そう言いながら、まだ寝ぼけているのか、晃平の手があたしの体の線をゆっくりとなぞり始める。そういう意思があるの かないのか、イマイチ判断しかねる触り方。だけどこうして体に触れられるととても落ち着くのは事実。 「あれから1年も経ったなんて信じられない」  背中を後ろの晃平に預けると、直に晃平の肌温度が伝わってくる。 「…そうだな」 「―――ちょっと、晃平? 寝惚けてるの?」 「いや? おきてるよ」  答える声はどこもかしこも緩みまくっている。聞いているこちらが眠くなってきそうなほど、穏やかな声。  どうせ今の晃平につっかかったところでまともな会話が成立するとは思えない。あたしはそれ以上食い下がることはやめて、 結婚式のアルバムを閉じて、晃平の方に体を向けた。 「…あたし、少しは晃平に近付けたかな」  再びベッドに寝転んでしまった晃平の胸の上に頬を載せ、現実と夢の間を行ったり来たりしている晃平には聞こえないように呟く。  もう1年も経ったと思うけど、実際はまだ1年しか経っていないのだ。  答えが返ってこないあたり、きっと聞こえていないのだろうと安心していたのに、不意に晃平の腕が顎に伸び、上を向かせ られる。そのままキスされた。  唇を離して何かを言おうとしたあたしに、その隙すら与えないとばかりに体を覆い被せてくる。 「―――もっと近くに来てくれるの?」  晃平の言外に言わんとするところに気付いて、あたしは2割呆れ、8割どきどきした。 「…もっと近くに行きたい」  そしてずっと近くにいたい。どんな時でも。  一生、…永遠に。 I, Bride, take you Groom, to be my husband, to have and to hold from this day forward, for better or for worse, for richer, for poorer, in sickness and in health, to love and to cherish; and I promise to be faithful to you until death parts us.” (“新婦となる私は、新郎となるあなたを夫とし、良いときも悪いときも、富めるときも貧しきときも、病める ときも健やかなるときも、死がふたりを分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います。”)
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

83人が本棚に入れています
本棚に追加