1-4 長い夜

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1-4 長い夜

 髪の毛を、優しく梳かれる感触。  何度かゆっくり梳いては、そっと手のひらを頭を包み込むように添える。そしてまたゆっくり梳く。  ―――気持ちいい。  あたしは髪を触られるのが好きだ。自分も心を裸に出来る気がするし、してくれる人の優しさが伝わってくるから。それが、晃平なら尚更。  目が覚めたとき、必ず彼が隣にいる。  そういう日常が当たり前にあることを、毎朝幸せに思う。 「…おはよ」  窓のカーテンから差し込む陽光も背負って、晃平の微笑はまぶしすぎる。 「…はよ」 「昨日ちょっと疲れさせすぎた? 珍しく寝相がよかったよ」  さわやかな朝をさっそくぶち壊す言葉に、あたしはしばし沈黙。まぁ、二人して服を何も着てない姿では、さわやかかどうかも怪しいのだが。 「…ん、だいぶ」  イヤミも込めて返すと、小さな笑い声とともに、キスが落とされる。おはようの、キス。  反射的に片手を晃平の首に回してしまう。もうちょっとだけ、とねだると、ねだった倍を返されて少し困った。 「…っ、ん、も、…いい」  もういいの? と、ふっと唇を離した晃平が囁く。  <…うう。そういういらない質問するから>  もういいの?なんて聞かれて、うん、と答えられたためしがない。晃平の“もういいの?”は、あたしにとっての“ほしいんだろ?”と同じ。晃平がほしくない時なんて、ないから。  黙りこんで、晃平の二の腕を掌でなぞる。程よく筋肉のついた、なめらかな腕。それだけで、晃平はあたしの考えていることがわかる。 「そういう誘い方、どこで覚えたのかな? ひなチャン」  ばさり、とシーツを剥ぎ取られて、朝日の差し込む部屋で裸を晒される。でもそこまで恥ずかしくてうずくまりたくなるわけでもない。晃平も、あたしと同じ、裸だから。 「べ、べつにっ。ささ誘うとかそんなんじゃないもん」 「どもってるよ。思いっきり」 「いいの! …―――ん、っ」  晃平の唇が、するするとあたしの体を滑り降りて、あたしの弱いところに一つ一つ、甘い疼きを与えていく。  時々何を思ったのか、かわいいなどと囁かれる。  あたしはそれが何よりも恥ずかしい。顔を背けると、今度は耳たぶを甘噛みされた。  …天宮家の日曜の朝は、こうして過ぎていく。 「~~~だから今日はお昼から出かけるって、昨日言ってたでしょっ」  リビングの時計は、もう2時を指している。  あたしは野菜ピラフとフルーツの皿を、ぶつくさ言いながらテーブルに置いた。新聞を読んでいた晃平が、何食わぬ顔して適当に切られたオレンジを一かけらほおばる。 「別に遠出するわけじゃないんだし。ペットショップだろ? …なんか行くだけ無駄なような気が…」 「あーっ! 実はそれが本音だったのね! あたしを疲れさせて行く気を失わせようと…っ!」  <こいつ、やっぱり確信犯!>  晃平の作戦(というより罠)は、着実に昨日の夜から張り巡らされていたというわけだ。 「だめだよ、行くって言ったら行くんだからっ。ほら、早く食べてさっさと用意してっ」  はいはい、と適当に流されて、あたしは晃平を睨んだ。晃平は、ヘビに睨まれたカエルよろしく肩をすくめてスプーンを取った。  今日は久しぶりの何もない休日。最近は晃平が学校の仕事が忙しくて、夕方頃まで机に向かったりという日が多かったのだ。  ―――猫飼いたい!  何したい?と聞かれて、あたしはとっさにそう答えていた。  ―――…それ、とてもじゃないけど一日でできるアソビじゃないよ?  晃平は大層呆れ顔で、そう呟いたのだった。  <だって。なにか二人で育ててみたいって…思ったんだもん>  こんなことを思う自分は、おかしいのだろうか?  <…絶対、かわいがると思うのにな>  最近自分がしたいと思うことがどこかズレてるような気がする。 「あ、晃平。見てみて、子犬ちゃんがいっぱい~!」 「…。さっきまであれだけ騒いでおいて、また犬?」  ペットショップで思う存分子犬やら子猫やらを堪能した帰りに立ち寄った公園では、ペット仲間らしき奥様たちが、自慢の愛犬を間に立ち話をしていた。 「いいなぁ。あたしも公園散歩したいなぁ」 「猫がいいのか犬がいいのか、どっちなんだよ」 「そういうところは晃平も無粋だよね。なんで小動物のかわいさがわからないのかなぁ」  足取りの重い晃平の袖をひっぱり、噴水のそばのベンチに座らせる。 少し遠くに、色んな犬を連れた奥様たちがいる。ヨークシャテリア。ミニチュアダックスフント。ロングコートチワワ。シーズー。あたしが知っているのは、その犬たちの中ではこのくらい。 「みんなマンションとかに住んでるのかな。小型犬ばっかり」 「あー。そりゃそうだろ。まぁ一戸建てでも小型犬がいいって。世話が簡単だし」 「小型犬だからって世話がかからないってわけじゃないよ。あたしは小型犬じゃないと、扱いきれないってのはあるけど…」  ああ、犬に踏まれるからね、と真顔で言われてキレた。本当に、晃平は興味ないものに対してはいっそすがすがしいほど、態度が冷たい。 「少なくとも高校卒業してからにして。今何か飼うとか無理だから」 「…。お給料少ないの?」 「何か言ったかな、鮎川くん」 「いーえ。…ねぇ、ちょっと触らせてもらってきてもいいかな?」 「はぁ!? あの集団に? お前、勇気あるなぁ」  晃平の返事もそこそこに、あたしは浮き足だってその奥様たちのところへ歩いていった。普段、あたしはこういう初対面の人にこんなに強気に出れない。だけどその人たちはかわいい犬というオプションをつけている。それだけで、遠慮だとか恥ずかしさだとかはナリを潜める。  案の定その奥様たちは快く愛犬を触らせてくれた。むしろもっと触って、という勢い。  <そりゃこれだけかわいければなぁ>  愛らしいクリクリの黒目で見つめられては、もう。 「あーかわいいよぉ~~~」  人様の犬だとわかっていながら、飼い主の前で抱きしめてしまった。 「あ、…ご、ごめんなさい」  我に返ってチワワを体から離しながら、その飼い主の奥様に謝った。 「いいのよ、犬は触られるの大好きだから」  にっこりと微笑む。こういう愛情たっぷりの飼い主のもとで育つ犬は、幸せだろう。 「あたしも飼いたいなぁ…」 「いいわよ、犬って。ほんとに癒されるもの。私はこの子を飼いだして生活が変わったわ」 「…癒し」 「そう。子供も出世しちゃったら暇でね。この子は、さしずめ小さな3女ってところかしら」  飼い犬のことを“この子”と言うあたり、溺愛してるんだろうなぁとは思うけど。  <…子供>  あたしはそれで気付いた。晃平と何かを育ててみたいと思った理由。  <…あたし晃平の子供がほしいの!?>  かかかぁ、と顔が火照っていくのがわかる。たちまち赤面してしまったあたしを、奥様たちがおかしそうに覗き込んできた。 「あら? どうしたの、顔が赤いわよ?」 「えっ? あ、いや、…なんでもないです。―――ありがとう、また来ますね」  強引に挨拶してあたしはそそくさと立ち去った。  <晃平の…子供。あたしと、晃平の>  もちろん今の自分では子供が子供を産むのと同じだ。  だけど、晃平との子供が欲しいと思っていることは事実で。  <うわぁ、…絶対悟られたくないなぁ…>  好きだと告白するより恥ずかしい。晃平にバレたらきっと、恥ずかしさに蹲るどころの騒ぎじゃない。  頭を振って考えを散らしながら晃平のいるベンチに戻ると、晃平の隣に人が座っていた。 「えっ………」  思わず立ち止まってしまった。  萩原、千智。  先週レストランで会った、晃平の昔の彼女が今、晃平の隣に座っていた。  <…なんで? 偶然?>  この辺にはぽつぽつと小さなオフィスビルが建っている。だけどまさか、そんな。  あたしの立ち尽くす位置は、晃平たちの視界には入らないらしい。噴水を背に座る二人の、ちょうど死角。  <…いや。もう遠慮なんかしないんだから>  晃平の口から、萩原さんにはあたしと晃平の本当の関係について話してある。何も怖がる必要はない。  そう思って近寄って声をかけようとした時だ。 「里桜を覚えてる?」  終始うつむき気味だった晃平が、その時初めて萩原さんを振り向いた。 「覚えてないわけないわよねぇ。晃平が一番長く付き合った恋人だもの。…しかも結婚の約束までした」  <…………>  結婚の約束。それってつまり、プロポーズをしたということ。  <そんな人…いたんだ>  目の前が、真っ暗になった。頭の後ろのあたりがスーッと冷たくなっていく。  あたしの他に。あたしの知らない女の人に。あたしより先に。  <そんな………>  いや、いや、いや。そんなのうそだ。そんなの、認めない。  二人の会話は―――というより萩原さんの話は、あたしに気付くことなく続いていく。 「まったく。どうしてあの子なの? 晃平、目がおかしくなっちゃったんじゃないの。どう見たって里桜の方が格上じゃない?」  あの日萩原さんは、あたしと会話しながらそんなことを思っていたのだ。  晃平の昔の恋人と比較しながら。 「…ひなの良さを、昔の女にわかってもらおうなんて思わないよ」 「それ開き直り? そりゃ高校生の男の子から見たらかわいいんでしょうよ。でも晃平、あなたいくつよ。あたしショックだったわ。里桜だったから見守っていられたのに、久しぶりに再会した天下無敵の色男は、8つも年下の高校生と禁断の道をまっしぐら」 「禁断じゃない。遊びじゃないからそれ相応の責任は示してるつもりだ」 「だから結婚? …早まったわよ。絶対。遊びに飽きた男は育てたがるって言うけど、まさにそれよ。育てて楽しんでるだけなのよ。愛してるんじゃないわ、自分好みの女に育てて楽しんでるだけよ。自分の思い通りにならなかったら、あとは捨てるだけ」 「それ以上言ったらお前でも容赦しないぞ」  晃平の静かな声色に、萩原さんは一瞬たじろいだが、それでも引かない。 「…―――そう。でもあとひとつだけ言わせてもらうわ」  聞きたくもない、という風なため息が、晃平の口からこぼれるのがわかった。  晃平の機嫌は、今最高潮に悪い。 「こないだのアレ、わざとでしょう」 「…。何の話だ?」 「とぼけないでよ。見せ付けてくれちゃって…気でも狂ったのかと思ったわよ」  あたしは、立ちすくんだままだ。  <…なんのことだろ…>  先程のショックが大きすぎて、まともな思考回路が戻ってこない。 「あたしがいるの気付いてて、そうしたんでしょ。お陰でちょっかい出そうって気は、全く殺がれちゃったけどね」 「それはなにより」 「…忘れてた。もう一個」 「…今度はなんだ」 「里桜。…今子供いるのよ」  ザァァ、と噴水の吹き上げる音が、耳を打つ。 「晃平の子供よ」  聞き間違いかと思った。 「じょうだん…、だろ」 「―――冗談かどうかは、自分で確かめに行ったら?」  結局、萩原さんがそのベンチから離れなかったので、晃平のそばには戻れなかった。  砂場で遊ぶ子供達に混ざって、無心でぼんやりしていた。いつまで経っても戻ってこないあたしを心配して、晃平が探しに来るまで、あたしはそのままだった。 「まだ遊び足りないって?」  あたしを見つけ、安堵したような微笑を向ける晃平。  それを見て、胸がズキッとした。  なんにもなかったかのような、顔。オトナの仮面で、全てを完全に隠してしまえる彼。 「…帰ろう。それともちょっと早いけど、どこか食べて帰る?」  あたしの手を引いて、晃平は公園を歩き出す。他人の手のような、違和感。 「…つかれた」 「え? …お前はしゃぎすぎなんだって。普段しないようなことするから。じゃあ帰ろうか」  晃平は、帰り道も、家に帰ってからも、萩原さんに会ったことなどなかったかのように振舞った。  それが、あたしを不安にさせているとも思わないで。  <…わかってる、晃平はあたしに心配させまいとして黙ってるんだ>  わかってるけど、…わかってはいるけど…。  いつもの優しさが、素直に受け入れられない。  あたしを触る指が、抱きしめる腕が、名前を呼ぶ唇が、見つめる瞳が。  もう“誰かのお父さんのもの”だったなんて。  間違いであって欲しい。子供がいたなんて。いやそれ以前にあたしには認めがたい事実があった。  <…里桜さんて…だれ…?>  晃平の心の中には、まだその女の人はいるのだろうか。あたしよりも先に、結婚を決意した女の人。そんなに昔の話じゃないだろう。大学時代のことなら、つい2、3年前のことだ。  なんらかのことがあって、別れて、そしてすぐあたしと結婚。  ―――一緒に暮らそうか。  どうして? なんでそんな人がいたのに、あたしなんかにそんなことが言えたのだろう。  あの言葉は、やっぱり純粋なプロポーズじゃなかったのだろうか。  考えたくないけど、おじいちゃんの期待に応えたかったから。だから。いや、そんなこと考えたくない。一番考えたくない。  <もうわかんないよ―――…>  晃平が、はしゃぎすぎて疲れたと勘違いしてくれたのは、好都合だった。  こんなぐしゃぐしゃな自分の心のうちを、晃平にだけは知られたくない。晃平がお風呂に入っている間に、早々に寝ることにした。明日からまた学校だ。寝ないと。だけど寝られるわけがないことは明らかだった。  波乱は、萩原さんが持って来るんだと思っていた。昔の彼女という、存在が。  だけど違った。全然違うところからやってきた。  蹲り、声にならない声で唸る。今すぐにでも叫びだしたい。  <嫌だよ…っ>  考えれば考えるほど頭が冴えてくる。このままじゃ、じっともしていられない。あたしはベッドを出てトイレに行った。別に用を足したいわけじゃない。ただなんとなくだ。  <…あれ…?>  あたしはトイレの隅にある小さいゴミ入れを見て、はた、とした。  最後に生理来たの、いつだっけ?  …波乱は、もっと別の場所からもやってきた。
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