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1-5 気付かないフリ
晃平はいつも寝る時、ベッドに寝転ぶとまずあたしにキスしてくれる。
そのあと時々腕枕をする。
寝付くのはいつもあたしが先だけど、先に起きるのもあたし。
朝起きた時、晃平は必ずあたしの方を向いて眠っている。それが、無意識の事とはいえすごく嬉しい。
あたしが必ず晃平の方を向いて寝ているということは、寝相の問題から不可能なのだが。
…今朝は、起きた時晃平に背を向けて寝ていた。
「…今何時…?」
遮光カーテンでも、隙間からこぼれる朝日で、部屋は結構明るい。
寝起きの晃平が、あたしの腰に腕を回したまま、かすれた声で呟いた。身動きをしたあたしにつられて、目が覚めたらしい。
「…7時前。まだ寝てていいよ。起こしにくるから」
言いながら体を起こしたあたしを、晃平は目を閉じたまま引き寄せた。
力任せに引き寄せられて、あっという間にキスされた。あたしがしなければ、晃平がしてくるいつものキス。いつも通りな晃平が、今はつらい。
「…もう。朝ごはん作るから、早く放して」
どうして起きたら必ずキスをするなんて習慣、作っちゃったんだろう?
このキスがまた幸せな習慣に戻る朝が、来るのだろうか。
<…やっぱり、おかしい>
昨日芽生えた疑問は、次の日になってどんどん確実性を増してきた。
休み時間、学校のトイレになかば立てこもり、お腹を押さえてあたしはうずくまる。
生理が遅れている。
それも、予定日から5日も。
いつもきっちり来ていたというわけでもないけど、こんな一週間近くも遅れたことはない。それに生理前はいつも軽い頭痛と腹痛があるのに、その気配もない。
原因は…考えなくてもわかる。
<…あれ、かな…>
放課後の教官室での出来事。ちょうど一ヶ月前くらいだった。
まさか最後までするとは思わなくて、晃平もさすがに途中で遠慮したのに、我慢できなかったあたしがその先まで求めた。
体の奥で感じた熱さに、何もかもどうでもよくなって後のことなど考えていなかった。
後でこういう展開が待っていることも、わかりきっていたのに。
「~~~~」
思わず頭を抱え込んでしまった。
<なんでつけずにしちゃったんだろ…>
その前の夜のセックスも怪しい。あの無茶苦茶な“賭け”―――どちらが先にダウンするか―――の時も、後半は疲労と妙な痺れでつけたかつけてないか確認する余裕もなかった。もはや負けた方が学校に指輪をつけていくだのということも、ほとんど忘れていた。
「…う~~~~」
ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき混ぜた。
なんで今。いや今じゃなかったらいいわけでもないのだが。
「ひなぁ? あんたそこにいんの? 保健室行ったんじゃなかったの?」
いきなりドアの向こうから、さやかの声が聞こえた。
「…ううん、大丈夫だし」
「ホントにー? 来たときから顔色よくなかったじゃん。しかも唸ってるし」
「…。唸ったのには意味はないの。ていうか元気だし」
「そう? じゃあただの“大”ですか。美波達には黙っといてあげるー」
あははと笑いながら、さやかがトイレを出て行った。
<いや、違うんだけど…っ!>
慌ててトイレを出ると、教室に戻るさやかを追いかけた。
「なんかさ。ボーッとしてない?」
お昼休み、学食で食後の紅茶(といってもペットボトル)を飲んでいると、ふいに美波が言った。
「あー。たしかに。朝はてっきり便通が悪いのかと思ってたけど、そうじゃないみたいだし…」
と、さやかが相槌を打つ。それに美波が目を丸くした。
「はぁ!? あんた誰のこと言ってんの? あたしは天宮先生のことを言ってるんだよ? 誰よ、便通が悪いの」
「あ、天宮先生か。あたしはひなのことかと思って。トイレで唸ってたし」
「ちが、だから便通が悪いとかそんなんじゃないからっ!」
「そういえばひな、今日肌の調子あんまりよくないね? 出てないのは確かと見た」
じろじろと人の顔を見ておいて、美波はきっぱりと断言する。
「いや…別に便通は普通だからさ…」
「そうなの? でもいっつもひなって、ツヤツヤしてるしさ。まるであっちの快感に満ち足りてるみたいな」
ぶっ、とあたしはお茶を噴き出した。
「あは、ひなってば純情~♪ そんなわけないじゃんねぇ、男っ気の全くない乙女が」
「…………」
さやかが勘違いしてくれて助かったが、その言葉が何も引っ掛からないわけでもなかった。
「じゃあ生理前か。つらいねぇ。―――ところで天宮先生よ」
「ああ、そうそう。あたしも思った、なんか心ここにあらずって感じ…。授業も独り言っぽかったしね」
さやか達は天宮先生のファンだ。この二人と一緒にいると、必ず前の授業での先生についてを話し合う。それをあたしはいつも、落ち込んだり罪悪感にとらわれたりしながら、黙って聞いている。
「奥さんと喧嘩でもしたのかなぁ。だったら嬉しいんだけどなぁ」
「でもそんなことであそこまでぼんやりするかな。―――まさか、離婚の危機!?」
キャーッと盛り上がる二人を横目に、あたしはまたため息。
―――晃平の子供よ。
萩原さんの、あの言葉が耳をついて離れない。子供。こども。
晃平が今日、終始ぼんやりしている理由なんて、あたしには容易に想像できる。萩原さんの言ってたことに決まっている。自分に子供がいるかもしれない。昔、結婚の約束をしたことのある恋人との子供が。
<あたしには、言ってくれないんだろうか…>
晃平一人で抱えて、どうするつもりなんだろう。忘れて、これから生きていくつもりなのか。
本当に?
<あ~~~もうっ!>
晃平に言いたいことはそれだけじゃなくなってるのに。
<…離婚の、危機…>
事と場合によっては、ありえない話ではない。
途端に、ぼんやりと考えたことなのに想像以上のリアルさが襲ってきて、あたしは肩を抱いた。
ゾッ、とした。
<…まさか、ないよね? そんなこと>
きっと晃平は話してくれる。
あたしが聞けば、ちゃんと答えてくれるだろう。そういう、仲だから。
でももし子供が本当にいて、認知もして…育てると、言い出したら?
<―――まさか>
自分で問いかけて、ありえないと打ち消す。そうでもしないとやってられなかった。
どくん、どくん、と動機がおかしい。
<…遊びで付き合った恋人じゃないんだよ。結婚を約束した人。…その人との子供が生まれてもいいと、思った人との子供…>
あたしがいても、本当に子供がいたら。子供に会ったら。
きっと認知したいと言うだろう。自分の子供だ、いらないなんていう父親はいない。晃平なら、なおさら。
<あたしをおいて…、いなくなっちゃうかもしれない…?>
あたしのお腹に、赤ちゃんがいても…?
晃平が、ぼんやりと夜のニュース番組を見ている。
ソファに脚を上げて、キャスターのコメントを聞いているのかいないのか。
学校から帰ってきて、シャツも着替えずに夕食を食べ、あたしが食器を洗う間、ずっとそうやってぼんやりしていた。はずされたネクタイが、だらしなくソファの背もたれにかかっていた。
「…晃平?」
あたしにとって重苦しくて仕方がない沈黙も、晃平にはわからないらしい。
呼ばれて、こちらを向く。
思い切って聞いてみることにした。
「…晃平さ、なにか悩み事でもあるの?」
「―――悩み事?」
きょとんとして返される。
「…だから…。…さやか達がさ、今日ずっとぼーっとしてたって、ぼやいてたから」
昨日萩原さんと一緒にいるところを見た、と言おうとした時だった。
「気のせいだろ? 別に悩み事なんてないよ」
…嘘を、つかれた。
綺麗に流されて、あたしはもう昨日のことを言う気にはならなかった。
素直になろうとしてるのは、あたしだけ?
生理がこないんだよ。もう5日も。明日もきそうにないよ。ねぇ、どうする?
言えやしない。
嘘をついた晃平には。
何でも話さないと駄目なわけじゃない。あたしが下手に聞いてしまったからいけないんだ。
だけど何かを抱えてるんだって気付いてるのに、必要としてもらえないなんて。
支えにもなれないなんて。
呆然と突っ立ったままのあたしに気付いて、晃平が近づいてきた。
顔を上げていつもの表情を作れないあたしの顎を片手で掬う。流れるような仕草でキスが落ちてきた。
「…どうしたの?」
そんなうわべだけの態度しか見てないの? 晃平は。
「…なんでもない」
逆らえない自分が、流されているだけのようですごく不本意だった。
「お風呂入る? …ひな、今生理だっけ」
ぎくりとした。
一緒に住んでいる深い関係ならば、当然生理の周期だってわかる。
「………うん」
あたしも、嘘をついた。
心臓が、嫌な音を立てて軋んだ。それが痛くて少し顔をしかめた。
あたしの髪に口を埋めたままの晃平には、それすらも気付けなかった。
<ねぇ。…気付かないフリって、こんなに大変なんだね>
子供とその女の人のことを考えて、そばにいる妻の異変にも気付いてくれないの?
次の日、元気のないあたしを心配して、さやか達がカラオケに連れて行ってくれた。
でも二人とも彼氏持ちだ。彼氏が部活終わって連絡をもらうと、1時間ほどしたらお開きになった。
やけに夕焼けの赤い、帰り道。
<…帰りたくないな>
今朝、コーヒーを飲んでいた晃平が言った。
―――今日ちょっと知り合いのところに寄るから、遅くなる。
不安そうな顔をしたのに、晃平が気付いて苦笑した。
―――大丈夫、今日中には帰ってくるから。
安心して待ってて。と、晃平は言ったが。
<どこに行くの?>
あたしの予感が当たっていなければいいのに。さっきから目の前をちらついて離れない人がいる。
<萩原さん…と、一緒じゃないよね?>
マンションの前に、誰かが立っている。黒のパンツスーツを着た、姿勢のいい女の人。
あたしに気付くと、片手を挙げた。どきっとした。
「―――こんにちは、ひなちゃん」
萩原さんだった。
「こん…にちは」
「学校帰り? 家に帰ったら奥様なのねぇ。楽しそうで羨ましい」
この人の“羨ましい”は、ちっとも羨ましいように聞こえない。返す言葉も見つからなくて、あたしは微妙な笑顔を浮かべて沈黙した。
「晃平待ってるんだけど、まだ学校にいるのかしら?」
「…え? …今日、会う約束でもしてたんですか?」
「あ、ううん。約束してたわけじゃないけど、ちょっと気になってね」
「…。なにが…ですか?」
嫌な汗が出てきた。萩原さんは、終始顔に笑みを貼り付けている。
「あら…。聞いてないの? もしかして。…ちょっと失敗したかしら」
「…………」
「とある人に会いたいから、住所教えてって言われてね。どうせならあたしも付いていくって言ったんだけど、その様子じゃ一人で行ったみたいねぇ」
なに、この状況。なんなのだ、これは。
<誰が、誰に会いに行く?>
嫌な予感は、見事に的中した。しかも、一番当たってほしくない予感が。
「大丈夫よ、ひなちゃん。晃平が言わないって事は、大した事じゃないってことなんだから」
慰めながら、萩原さんは明らかに勝ち誇った表情を浮かべている。
「…じゃああたし、行くわね。晃平も戻ってくるの遅くなりそうだし」
またね、と言って萩原さんは歩いて行く。あたしはその姿が角を曲がって消えるまで、一歩も動けなかった。
晃平が、里桜さんに会いに行った。昔結婚を約束していた女の人に。
子供に会いたくて? 彼女に会いたくて? あたしには、内緒で?
そして帰ってきたら、また何もなかったかのように振舞うのだろうか。
あたしが何も知らないのを利用して。自分ひとりで片付けて、あるいは、…嘘をつき続けて?
やっと足が動くようになると、もう辺りは薄暗くなっていた。
ただ、自分たちのマンションには帰る気になれなかった。
足は勝手に、暗くなり始めた街へと向けて歩き出していた。
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