1-6 たとえばこんな愛し方

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1-6 たとえばこんな愛し方

「…ひな? どうした、連絡も無しに来るとは珍しいな。晃平と喧嘩でもしたか?」  お風呂に入ったばかりらしいおじいちゃんが、寝巻き姿で出迎えてくれた。  おじいちゃんの懐かしい匂いと暖かい体温が、張り詰めていた涙腺を刺激する。  どうやってここまで辿り着いたのか、自分でもわからなかった。  思考回路はまず、働いてなかった。地面を両足で踏んでいるという感覚もなかった。ふわふわした気分と体で、街の喧騒も聞こえなくなったまま、おじいちゃんの屋敷に来ていた。さすがにあちこちふらふらしたらしく、最後に腕時計を見た時から3時間が経っていた。 「…どうした? 本当に喧嘩したのか」  しわの多い掌で、黙り込むあたしの頭を撫でた。ロマンスグレーのおじいちゃんの瞳。心配そうに見つめられて、あたしはとうとう耐えられなくなって泣き出した。  声に出して泣いたのは、久しぶりだった。  お手伝いさんが驚いて様子を見に来ても、あたしは止められなかった。そんなあたしを、おじいちゃんはぎゅっと抱き締めて、何も言わずに泣き止むのを待ってくれた。  おじいちゃんの腕の中は不思議だ。  何も言わなくても、あたしのすべてを無条件で肯定してくれている気がする。  小さい頃はあたしが悪いことをしてても、おじいちゃんなら世界中から守ってくれそうな気がした。すべての悲しいことから遠ざけてくれる、一番安心できる場所なんだと信じて疑わなかった。  いったいいつから?  あたしはおじいちゃん以上に、安心する腕を見つけてしまった。  だけど、違うのかもしれない。違って欲しくないと思うのに。 「…そろそろ、わけを聞かしてもらおうか?」  再び冷静さが戻ってきたのを見計らい、おじいちゃんが優しく問いかける。  体を離すと、涙でぐしゃぐしゃに濡れた頬やまつげを、しわくちゃの指でなぞられた。晃平の指は、もっと細くて筋張っている。いつでも晃平のことを考えている自分が、また悲しくなった。 「…。なんで晃平は、あたしと結婚したのかな…?」  震える声で呟いたあたしに、おじいちゃんが驚いたように目をしばたたかせる。 「なんで晃平は…―――嘘つくんだろ…っ」  言っててまた、涙が出てきた。今まで我慢してたんだろうなと、どこか心の冷たいところで思った。だって涙は止まらない。悲しくて悔しくて不安で不安で、いてもたってもいられない。  会いに行かないでよ。  そんな人のところになんて行く必要ないよ。  あたしが今、隣りにいるのに。  どうして嘘ついてまで会いに行くの?  おじいちゃんは、それ以上何も問わなかった。  泣き止んでもぼんやりしたままのあたしをしばらく見つめていたが、ふと立ち上がって部屋を出て行ってしまった。一人にしてくれるんだろうと思った。そのまま、ソファに寝転んだ。  <…帰りたくない…>  今日は泊まろうと、目を閉じながら思った時だ。 「ひな」  心臓が止まるかと思った。  目を開けて、部屋の入り口の方を見た。ドアノブに手をかけて、今一番会いたくなかった人がそこに立っていた。 「―――晃平…」  晃平は、学校で見たのと同じスーツ姿。あたしが泣いているのに気づいて目を見開いた。 「…帰ろう。突然押しかけたら迷惑だろ、おじいちゃんに」  だけど、あたしが泣いてる理由には少しも触れずに言った。それが、あたしの短くなった気に障った。 「―――いや。晃平一人で帰ったら?」  後から来たおじいちゃんが、心配そうに晃平の後ろからこちらを見ている。 「…ひな」  困らせるな、というニュアンスがその二文字に含まれていた。 「あたしは帰らない。…とうぶん帰らないっ」  言ってて、どんどん自分が嫌いになった。  迎えに来てくれた晃平に対して、あたしはこんな子供みたいな駄々をこねて困らせている。こんなの夫婦の会話じゃない。男と女の会話じゃない。ただの年の離れたお兄ちゃんと子供だ。  突然、晃平が傍まで近寄ってきた。  びくっと体を震わせたあたしは、晃平があたしの足元に跪いたのに更に驚いた。 「…萩原から連絡があった。ひなに会ったって。どうしてお前がここに来てるのか、理由はわかってるから」  だから? だからなんだって言うんだろう。あたしがききたいのはそこじゃない。  <…どうしてそんなに落ち着いていられるの?>  どうして平然とあたしを見つめられるのだろう。そんなに真っ直ぐに。  駄々をこねている自分が、ますます嫌いになってくる。後ろめたくなって目を膝に落とした。 「俺は、ひなを泣かせるためにここに迎えに来たんじゃないよ」  濡れた目元を拭った手を取られ、膝の上でその大きな手に包まれる。 「…………」 「ひな。…お前がそんなんじゃ、俺が今どれだけ説明したって信じないだろう? ちゃんと、冷静な頭で判断してくれよ。俺は、お前を泣かせるような目的で会いに行ったんじゃない」  また、体が揺れた。とっさに、握られている手を引っ込めようとした。  だけどそれを晃平は許さなかった。請うように目を合わすと、また真っ直ぐな瞳に囚われてしまった。 「…でもどんな理由でも、内緒で会いに行くってことがひなを泣かせるんだよな。それは悪かった。全てが終わってから、ちゃんと話すつもりだった」 「…っ、言いたくないんならいいよ。あたしには関係ないって思ったから、言わなかったんでしょ」  ここまできても、まだ拗ねてしまう。  言ったそばから後悔して、あたしは唇を噛み締めた。  おじいちゃんが遠慮して部屋から出て行こうとする。それに気づいた晃平が声をかけた。 「…じゃが、晃平―――…」 「いいんです。聞いていてほしいことですから」  晃平はそう言って、一度目を閉じて深呼吸した。 「俺にはひなと結婚する前、結婚を約束した人がいる」  心が、螺旋のように捩れた感じがする。  萩原さんとの会話で聞いた事なのに、それは全然違う内容にすら聞こえた。  おじいちゃんも絶句した。 「…でも振られたんだ。理由もなく突然」  晃平はそれから、淡々と語りだした。  あたしのことを傷つけないように、わざとそうしてくれたんだと思う。淡々と話すくせに、あたしの両手を握る手には力がこもっていたから。 「―――ひな、俺はな。その彼女に会いに行ったんじゃないよ。行ったけど…それは再会したとは言わない。だって彼女はもう、この世の人じゃないんだから」 「…え?」  ぽかんとしたあたしを見て、晃平が少し苦笑する。 「萩原に久しぶりに彼女の話をされて…。いきなり“子供がいる”って言われて。それを俺の子供だって言うんだ。もちろん、別れてから1年。ひなと結婚する前もしてからも、彼女に会いに行ったことなんかないよ。それは違うとわかってた。でも会いに行ったのは、お礼を言いたかったから」 「……お礼」 「最初から話すな。―――俺は振られた時、気付かれたんだと思ったんだよ。俺が、ひなに惹かれてたって」 「―――!」 「実際結婚を決めたものの、俺の中でひなの存在は無視できなくなってて。話は実際口だけで前に進まなかった。…そうこうしているうちにうやむやになって、…挙句振られた。理由は言われなかったけど、それが理由なんだと思ってた。他に考えられないから」  あたしは息をするのも忘れるくらい、驚いた。  まさか、そんな。―――別れた原因に、あたしが関係しているだなんて。  晃平はあたしの動揺に気付いてはいるものの、話し続ける。 「ひなと結婚した後、しばらくして共通の知人から聞いたんだ。彼女は…その時病気だったって。詳しい病名まではわからない。だけど、あと数年しか生きられないっていう状況、だったらしい」  だから自分と別れたんだ、と言って、晃平は目を伏せた。  <…病、気……> 「…今はそばにいれても、あと数年経ったら一人にしてしまう。それがわかってたから突然別れようなんて言ったんだって。…後で気付いた」  その事実を知って、あたしは果てしない気持ちになった。  あと少ししたら自分はいなくなるから、悲しませないために好きな人の前から去るということ。  自分は悲しんでも、好きな人には孤独な思いをさせたくないから。  いつでもそばにいたいと思っている自分には、到底できない愛し方だと思った。 「…嬉しかった、その思いやりは。すごく愛してよかったと思ったよ。―――でも寂しい愛し方だよな」  晃平の微笑に、かすかに翳りが見える。 「別れ話をされた時、ひなの存在にさえ気付いていなければ引き止めたかもしれない。そしたら、その後も続いていたかもしれない。彼女が、死ぬまで。でも俺は、そうじゃなかった」 「………」 「あっさり引き下がった俺に、傷ついたろうと思う。後から知った俺も、やるせなくてしょうがなかったよ。彼女はそれからしばらくして結婚したよ。他の男と。死ぬとわかってても、そばにいたいと思える男ができたんだ」 「…子供は、その人との子供…?」 「そうだよ。生まれてまだ7ヶ月。俺との子供なわけがないだろう?」  そう言って、晃平はあたしを安心させるように笑った。  <晃平の…子供じゃなかった…>  体から力が抜けていく。…よかった。  <よかった――――…>  「子供が生まれてなかったら、お礼を言いに行く気にはならなかったかもしれない。ずっと彼女を傷つけたままの男として、会いに行く権利はないと思ってたから。彼女を傷つけて、俺一人、幸せになって。だから、その人の子供が欲しいと思えるほど、全てが過去として割り切れるようになったと思ったから、お礼を言いに行こうと思ったんだ」 「…………」 「ありがとう、って。俺は自分の愛する人と今幸せだから、って」  放心してしまった。  晃平は今、愛する人と幸せだから。  あたしと一緒にいて、幸せだから、と。  さっきまで悲しくて溢れていた涙が、また溢れてくる。今度は、眩暈がするほど幸せだということに。  晃平が微笑みながら、あたしの目元に指で触れた。  長くて細い指。繊細だけど力強い、あたしの大好きな指。 「俺はそういう愛し方はしない。自分の手で、好きな人を幸せにしてやりたいと思うから」  おじいちゃんが、黙ったまま部屋から出て行く。  ぱたん、とドアが穏やかな音を立てて閉まった。晃平はもう、止めなかった。 「ひなのことを好きになってから、…そう思うようになったんだ」  晃平の指に、涙の水滴がついた。 「…あたし……?」 「そう。―――ひな、頑張ってるだろう? 一緒に住むようになって、それがますます見えてきた」  あたしは晃平の言っていることがいまいち理解できなくて、首を軽くかしげた。  そんなあたしに、晃平は更に優しい微笑を向けてくれる。 「知ってるよ? 俺に気付かれないようにしてるつもりかもしれないけど。たとえば、自分の部屋で熱心に料理の本を読んで研究してることとか」 「あっ……!」  あたしの動揺に、晃平がにやり、と笑う。 「他にもあるよ。本当は朝弱いのに、毎朝俺より早く起きて朝食作ってくれてることとか。仕事持ち帰ったりすると、かまってほしいの我慢して黙ってコーヒー持ってきてくれることとか。―――お風呂で密かに体操してるのも、本当は知ってる」  かかかぁ、と自分の顔が真っ赤になっていくのがわかる。  気付かれてた。全部、見抜かれてた。  <は…っ恥ずかしい…!!>  穴があったら入りたいとは、まさにこのこと。他の誰にバレてもいいから、この人にだけは知られたくないことをこんなにもたくさん知っている。気付かれている。  カチンコチン硬くなっているあたしの首筋に、晃平が両手を添える。人差し指で、するりと指輪を通したネックレスを服の上に出した。銀色のシンプルなリング。晃平の左の薬指に光る指輪と同じ、指輪。 「自分の手で、俺を幸せにしたいって思うから、頑張れるんだろう? 俺はそれがすごく嬉しい。…死ぬほど、嬉しいんだよ」  あたしは言葉を発するのも忘れて、晃平の言うことが体中に染み込んでいくのを感じていた。 「ひな。俺はお前を、全力で幸せにする。だからお前の手で俺を幸せにしてくれ」  そう言って、あたしの指輪にキスをする。 「他の誰かじゃだめなんだ。ひなでないと。ひながいることが、俺にとっての人生だから」  言葉に、ならなかった。  あたしは溢れる涙をどうすることもできずに、ただ夢中で晃平を抱き締めた。  半ば飛びつかれた晃平は、不意打ちのことに体の重心を傾かせてしまい、そのまま床に尻餅をついた。 「…っ…―――うん……幸せにする、よ」  さっき泣いていたのも手伝って、今度はしゃっくりが出始めた。不器用に答えたあたしに、晃平の苦笑する気配。ぽんぽん、とあたしの背中を叩き、抱き締め返してくれる。 「………こんなこと、もう言わないぞ?」 「………うん…もう、…十分だよ…」  もうこれで、明日地球が終わってもいいくらい。 「あらそう? ―――健気だな。もっと言ってほしいとか言わないの?」 「…。だって、もう言わないん、でしょ?」 「もっと言って、って言われたら考える」  晃平の暢気な物言いに、あたしは思わず笑ってしまった。 「じゃあ、…もっと言って?」  あたしが笑ったのに気付いて、晃平が体を少し離させる。間近に目が合ったかと思うと、優しくキスされた。啄ばむようなキスが、何度も落ちてくる。 「…晃平」  一向に続きを言おうとしないので、促すように呼びかけると、晃平はキスをやめてこう言った。 「やーめた」 「…………はぁ!?」  子供のような気まぐれな口調に、あたしは唖然。  目の前の晃平は、また何かを企んでいるような目つきで笑っている。 「やっぱりやめた。―――これ以上言い続けたら、ここでひなのこと押し倒しそうだから」 「なっ…! ば、ばかっ!!」  一度はひいた熱が、また瞬時に頬に集まってくる。 「ばかって…。ボンネットの上でもしたのに、こんなところですら照れるの? ここにはおじいちゃんがいるから、って意味で言ったのに」 「! もう、そういうこと平気で言わないでよっ、あたしは別に同意なんかしてないんだからねっ!?」 「ああそう。じゃあもう誘わない」  見え透いた嘘を、けろりと言い放つ晃平。  <………この男は…っ>  思わずこぶしが震えたが、なんとか思いとどまった。  たしかに車のボンネットでというのは、もう二度となくていい。だけど、…だけど。  あたしはそこまで考えて、もう一つの重大な問題を思い出した。  <…そうだよ、こんなこと思ってる場合じゃない…>  …生理が、きてないということ。  <…どうしよう、言わなきゃ…>  でも、という思いがあたしの中にはある。  <もう少ししたら、くるかもしれない>  変に心配させて、困らせるよりはもうちょっと気長に待ってみても。単に遅れていることだってありうる。  そんなことをあたしが考えているとも知らず、晃平はあたしの背中を支え、脚を掬って抱き上げた。 「ひゃぁっ! …な、なに!?」 「なに考え込んでるの? …大丈夫だよ、続きは5年後に言ってあげる」 「……5年後?」 「そう。あと5年は今の言葉で満足してなさい」  お姫様抱っこをしたまま、晃平は部屋を出た。向かいの和室にいたおじいちゃんが、あたし達を見て唖然とする。 「それでは千造さん。色々とご迷惑をおかけしました」 「おぁ? あ、ああ…。ま、まぁ、仲直りして何よりじゃが…」  見せ付けられたおじいちゃんは、返事を返すので精一杯。孫のあたしは、顔を逸らすので精一杯。 「また改めて伺います。おやすみなさい」  そして、ぽかんとしたままのおじいちゃんに極上の笑みを浮かべて返すと、あたしを車の中へと連れ去った。
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