90人が本棚に入れています
本棚に追加
1-7 きみの手のひらにキス
夕ご飯の支度がほぼ整った頃、晃平は帰ってくる。
付け合せのお皿をテーブルに置きに行くと、ネクタイを緩めながら晃平がダイニングに入ってきた。
白いボタンダウンのシャツの袖のボタンを外しながら、晃平が微笑した。
「ただいま」
「おかえり。ごはん炊けてるよ」
こと、とお皿を並べ終わると、晃平が後ろから抱き締めてきた。
晃平はタバコを吸わない。だからいつも、晃平自身の匂いが体を包む。
こんなスキンシップは前からあったことなのに、あたしはいちいち律儀に心拍を乱してしまう。
体を少し後ろによじると、晃平のキスが落ちてきた。
おじいちゃんの家に迎えに来てもらった日以来、前にも増して、くっついてる時間が長くなったと思う。
それは単純に物凄く嬉しいことなんだけど。
<…言いにくくなってるのも、たしか>
「ごはんよりひなを食べたいなァ」
「…っ、バカッ! さっさと服着替えてきなよっ」
どこの三流ドラマのセリフだと思うような言葉。恥ずかしさと動揺でつっけんどんに言ってしまった。
冗談だよ、と晃平は苦笑しながら寝室に入っていく。
ドアの向こうに晃平が消えると、あたしはへなへな、と近くのイスに座り込んだ。
<ど…どうやって言おう…>
今日こそは、と思うのに、あの晃平の穏やかな笑顔を前にしたら口が開けなくなる。
そして照れたせいにして、スネた振りをして晃平の腕から逃れる。
そんな感じで、あれから3日も経ってしまった。そろそろ生理が終わっていると、晃平も思うだろう。
だけどこんな状態で晃平とそんなことができるわけがない。
<本当に…してるのかな…>
無意識にお腹を触っていた自分に驚いて、手を引っ込める。意識をお腹に集中してみても、何もいるように思えない。そこに、もう一つの命があるかもしれないなんて…。
怖い、という気持ちがじわじわと心の奥から湧き出てくる。恐怖と、不安。
嬉しいと思う気持ちは、確かにあるのだけどそれ以外の感情が強すぎて、それらに流されそうになる。
日を追えば追うほど、その不安は焦りも伴って大きくなっていく。
なのにあとちょっとのところで打ち明けられない自分。晃平にはまだ、そんなあたしを気付かれたくない。
「失礼します」
翌日の昼休み。
あたしは昼ごはんも食べずに保健室に行った。
一人でお弁当を食べていた女の先生が、あたしに気付いて席を立った。
「あら、どうしたの? 珍しい患者さんだわ」
ドアのそばにぼーっと突っ立ったままのあたしの顔を、先生は不思議そうに見つめてきた。
「実はちょっと…胃が痛くて、気持ち悪くて…」
今朝起きたら、胃痛と軽い吐き気で食欲も元気もわかなかった。胃薬を飲んできたのだが、ちょっとよくなったくらいだった。とてもじゃないが、お昼ご飯とか食べられる気分じゃなかった。
「胃が痛いの? ストレスかしらね。熱は?」
保健の先生は、30歳になったばかりのとても気さくなお姉さんだ。赤木先生といって、感性がこの学校で一番生徒と近いと思う。だって普通に生徒たちの性についての相談とかも乗ったりする人だから。
「熱はないんです。…多分、ストレス」
保健室使用者のカルテに、自分の名前を書きながらぼんやりと答える。胃が痛いから、声にも力が入らなかった。そのせいか先生にかなり重症にとられてしまった。
「お薬だそうか。胃薬。それ飲んで、ちょっと横になっとく?」
「あ、…はい」
明らかにサボりでやってくる生徒には、容赦なく手厳しいのを知っているから、あたしは先生の優しさについ、ぽろりと悩みを口に出してしまっていた。
「…妊娠したかもしれないって相談、受けたことありますか…?」
先生が、カルテに何かを書き込んでいた手を止めて、あたしを見た。
その大きな目がじぃっとこちらを見ているのに気付いて、あたしは我に返った。
「―――あ!? …い、いえっ、あの…」
先生の目は、もう全てを知っているかのように静かだった。そんな先生を見ていたらあれこれ言い訳するのが無意味なように思えて、あたしはため息をついた。
「…生理が、来ないんです」
先生がペンを置いて、小さく聞いてくる。
「何日来てないの?」
「…9、日。くらいです。3日くらい遅れることはあったんですけど、1週間も遅れることはなくて…」
「鮎川さんは、妊娠したかもしれないって思うような、心当たりがあるの?」
ストレートにきかれて一瞬詰まったが、無言で頷いた。
「…そう。…―――9日、ねぇ。…一概にはなんとも言えないけれど…してない、とも言い切れないわね」
「…………」
「一度検査薬で検査してみたらどう? 9日も経ってるんだったら、多分ちゃんとした結果が出ると思うわ。陰性だったら、あとは生理がくるのを待てばいいだけのことだし、それでもまだ不安なんだったら、病院に行くとか…。こればっかりは、気休めを言ったってどうにもならないことだからね」
「…はい…」
あまりに元気のないあたしの反応に、先生が苦笑した。
「そりゃ怖いわよねぇ。まだ高校生なのに妊娠したかもしれないなんて…」
「…………」
「相手の男性が、鮎川さんのことを傷つけるような男じゃないことを祈るばかりだわ」
膝の上に置いた手が震えていることに、先生が気付いた。その手をとって、強く握り締めてくれた。
「女の子はこういう経験をたいてい一回は経験するのよね。初めてセックスをした時はよくあるのよ、生理が遅れるってことが。あとは避妊せずにしてしまった時とか。でも案外、単に遅れてただけっていうのが大半よ。2週間も生理が来なかった人でも妊娠してなかったんだから、9日くらいまだまだ余裕よ」
気楽に構えてなさい、と先生。
素直には頷けなかったが、微笑だけで応えた。
「鮎川さん、彼氏いたのねぇ。噂ではいないってきいてたのに…」
「………へっ!?」
先生の独り言を、あたしは危うく聞き流すところだった。
「う、うう噂ってどんな噂流されてるんですか!?」
「え? あ、ああ。別に変な噂じゃないわよ。たまにね、サボりにここにくる男子が話してるの。鮎川いいよなぁかわいいよなぁって。なんでフリーなんだろうなぁってもう、恋愛相談室よ」
絶句してしまった。
そんな噂が存在してたなんて、気配すら気付かなかった。
「でも見るたびに綺麗になってるから、恋はしてるのかもなって。…当たってたみたいね」
思わぬところから思わぬ話を聞いてしまった。
知らない間にそういう目で誰かに見られていたんだと思うと、嬉しいとか通り越してもう恥ずかしい。
「照れない照れない。ひなちゃん、密かに人気なのよ~? もうちょっと、自覚したほうがいいわよ?」
「じ、自覚って言われても…あたし別に、普通の子じゃないですか…っ」
「そうね、自分じゃなかなかわからないもんね、自分の魅力って。…綺麗になれるってことは、きっと大切にしてもらってるんだろうし、鮎川さん自身も、その彼のことを大好きなんでしょう?」
「…。大好きというか…、自分にとっては、なくてはならない人、だとは思います」
「なくては、ならない人」
「あの人がいない生活は、きっと考えられないくらい」
先生が、微笑を消して驚いた顔であたしを見つめた。
「…なんちゃって」
真面目に答えてしまったのが恥ずかしくて、ぺろ、と舌を出してみた。先生はそれにもまたあっけに取られたようで、しまいにはくすくすと笑い始めた。
<…もう、言葉だけじゃ足りないんだよ…>
どんな言葉を尽くしても、あたしは彼のことを語り尽くせないし、あたしを大切に思ってくれる彼の気持ちも誰にも説明しきれることなんてできない。
<…今日、言おう>
ふと、窓の外を見つめて思った。
赤木先生にもらった胃薬と、相談に乗ってもらって気が軽くなったのとで、体調はだいぶよくなった。
それからその足で、薬局で検査薬を勇気を振り絞って買って帰った。
<晃平が帰ってくる前に試してみよう>
そう思って、とりあえずカバンから出して生理用品を閉まってあるところに移動させようとした時だった。
「なあに、それ?」
カバンの中をごそごそと整理していたあたしの背中に、晃平の低い声。
「こ、…晃、平」
まだ帰ってくる時間じゃなかったはずだ。
あと1時間はいつも遅いのに。
<なんでよりによって今日、こんなに早いのよ…っ?>
カバンに手を入れたまま、どう答えようか考えていると、ひょい、と晃平がテーブルの上の検査薬をとった。
「えー…と。あの…」
咄嗟に、怒られると思った。こんなに重大なことを話さずにまだ隠そうとしていることを。
だが意外にも晃平は、冷静だった。
検査薬を手に持ったまま、あたしの前に近寄ってくる。
「今日。授業中もぼんやりしてたし…朝も体調悪そうだったから、早めに帰ってきた」
あたしは間の悪さに自己嫌悪した。
「…ごめんなさい」
「…嘘ついてた?」
「…………」
「生理中って、嘘ついてたんだ?」
晃平の声は、本当に怒っている風でも、驚いている風でもない。
「…何日遅れてるの?」
「…。9、日。くらい」
9日、と呟いて、晃平はしばらく黙り込んだ。何か言おうとして口を開きかけるが、どれも外に出てくることはなく、ひっこんでしまう。そして、ゆっくりと視線を上げて、あたしを見つめた。
「なんとなく、気には留めてたんだ。…教官室で、かなり無茶したし…」
やっぱり晃平も、あの時のことは少なからずひっかかっていたんだ。
「それに、前の晩もムチャクチャしたでしょ? …それも、気になってたの」
「いや、前の晩ひなはだいぶ朦朧としてたけど、一度も付け忘れたことはなかったよ」
さらりと言われて、あたしは余計に胸が熱くなってしまった。
「…晃平…」
「だからその次の日のセックスは、気に留めないわけにはいかないだろう。だけど、生理がきたんだって思ってたから言わなかっただけで…」
「…………」
「やっぱり、来てないんだな」
「…でも、まだわからないから」
「…ひなはさ、妊娠してて俺が困ることを心配してるの? 今の時点で産めない状況を心配してるの?」
妊娠してたら…産めない、とは咄嗟に思っていた。産んだところで、今の自分がちゃんと育てられる自信は正直、ほとんどない。そんな気力も体力も今の自分にあるように思えない。いつかは、とは思うけれど。
この前、二人で何かを育ててみたいのは晃平との子供がほしかったからだと思ったけど、でもペットと赤ちゃんは全然違う。わけが違う。そういう軽い感覚でしか考えてなかった自分が、すごく子供だ、と思った。
それにそんな自分が子供を産んだところで、晃平に今の倍以上の負担がかかることもわかっている。あたしは、普通の妻じゃないし、年頃でもないし、まだただの女子高生だ。
でも産めないからと言って、おろしたいと思ってるわけじゃない。
晃平の子供なんだから、おろすなんて思うわけがない。
思いっきり逡巡しまくっているあたしを見て、晃平がぽつりと言った。
「俺は心配というより、期待をしてしまってるんだけど」
「期待…?」
「あのさ、俺はひなの体を最優先にしたいと思うから、これは強制じゃない。だけど俺は。…もし、ひながその気なら産んで欲しい」
気を抜いたら、足の力が抜けてその場に座り込んでしまいそうな気がした。
「生理がこないから考えてたことじゃないんだ。…もう、だいぶ前から考えてた。ただ、ひなの人生をそういうことでめちゃくちゃにしたくないから、ちゃんと高校卒業して、行きたいなら大学にも行って、…って思ってた。だからもしかしたら妊娠してるかもしれないって言われたら、心配よりも、期待してしまう」
「…………」
「ごめんな。勝手な男で」
困ったように笑う晃平を見て、あたしはふるふると首を横に振った。何度も。
勝手じゃない。勝手なのは、自分の方だった。
晃平はあたしのことを第一に考えていてくれたのに、あたしはただ目先の不安だけに囚われて。そういう自分を、晃平に知られたくなくて黙っていた。
「もしな、ひなが不安で不安でしょうがないっていうなら、それは受け入れるよ。ひなが本当にほしいって思わないと、体も赤ちゃんも余計に心配なだけだから。無理だけはしてほしくない。だけど」
そこで言葉を切られて、あたしは顔を上げて晃平を見た。
「俺はひなとの赤ちゃんを抱いてみたいって、思ってるから」
「―――」
ふら、とよろめいたあたしを、晃平が両腕で抱き締めてくれた。
―――あたしとの赤ちゃんを抱いてみたい。
こないだから晃平は、眩暈がするほどの言葉をこんなにもたくさんくれる。
これ以上の幸せはないと思うのに、思うからこそ怖いほど幸せで。
<…どうしてこんな人が、あたしなんかを愛してくれるんだろう…>
どれだけ想い返しても、足りない気がする。もっともっと、彼のことを幸せにしてあげたい。
涙が出てきた。
思い切り晃平にしがみつくと、なだめるように髪を優しく梳いてくれた。
「…晃平の指って、不思議」
「…俺の、指?」
「うん。…いつもね、晃平の指に触られると、そこから溶けていきそうになるの。不思議なくらい、…うまく言葉では言いあらわせられないんだけど、なんとなく、どうしてかわかった」
髪を梳かれたり、頬を優しく包み込まれたり。指を指と絡ませたり。
そういう触れ合いが、あたしは何よりも好きだ。愛すべき時間だと、思う。
「晃平の指からはね、きっと愛が発射されてるんだよね」
あたしの髪を梳く手が、ぴたり、と止まった。
「口よりも、目よりも。指先からの愛が一番ありのままに伝わってくる気がするの」
「…ひな」
「あたしも、この優しい手に、その…あたし達の赤ちゃんを…」
その後がなかなか出てこない。
自分が言ってることが相当恥ずかしいと思ったら、それ以上はもう恥ずかしくて言葉にならなかった。
それに気付いたのか、晃平の口元に笑みが上った。
「…ありがと。ひな」
その笑顔が、嬉しくて。胸が締め付けられて。
あたしは晃平の手を両手で取ると、手のひらにキスをした。
「普通、男が女にするもんだろ? しかも手のひらじゃなくて、手の甲」
「ううん。手のひらが、いいの」
今までもこれから先も、あたしの気持ちを受け止めてくれる、大好きな手のひらだから。
「市販の検査薬じゃなくて、ちゃんと病院に行こう。俺もついていくから」
「…うん。ありがとう…」
もうこの手は、一生手放せない。そう思いながら、呟いた。
晃平は何を思ったのか、いきなりあたしを抱き上げると寝室に連れて行った。
「えっ?! ちょっと…い、今は…っ」
ベッドに横にされながら、いつも以上に心臓がうるさいのに余計に慌てた。
「わかってる。ただ、俺がひなに触れたいだけだから。最後まではしないよ」
「晃、平…」
指で、あたしの体に触れ始める。愛撫、というより、グルーミングのような。制服のブラウスのボタンを外し、ブラジャーの上から手のひらでラインをなぞる。
その間も砂糖みたいな甘いキスは、とめどなくて。
<…初めて、見た…>
こんな穏やかな晃平は。
全てを彼に預けてもいいんだと、彼の指先が、唇が語っている。
本当に晃平は首筋や胸元に唇や指で触れるだけで、下半身には一切触れようとしなかった。それは、いい。いいのだけど、…こんな時でも我が儘になってしまう自分は、いったいどうしたらいいのだろう。
「…ん、こう…へ…っ」
キスを受け止めながら、両手で晃平の右手を自分の下半身に移動させた。
「…触っても、いいの?」
まるで子守唄でも歌うかのような口調で囁かれる。その甘い声は、鼓膜から全身へとさざ波を呼び起こして、最後、最も触れて欲しいところへと刺激として伝わった。
する、とショーツを下にずらされる。空気に触れたそこがひやりとするのは、すでに濡れて手に負えなくなっているから。多分、今までで一番興奮していると思う。自分でもわかる。
こんな穏やかな愛撫で、ここまで乱れてしまう自分の体が心底恥ずかしい。
晃平は指で触れなかった。脚を割り開くと、顔を直接そこへと移動させ、舌を差し入れてきた。
「あ、あ…っ! は、…ん…んっ」
羞恥とかそういう感情は、濡れた音を聞いているうちに麻痺してきた。
もう、ずるずるだった。舐めても溢れているのは、晃平の舌の動きでわかった。
「っあ、…あっ、…~~~晃平…っ」
足りない。と、ぐらんぐらんの思考回路が訴える。
駄目だ、と思っても欲しがるのは止められなくて。多分、あたしよりも晃平の方がよくわかっているかもしれない。知らないうちに哀願するような声を出していたあたしは、目の前に晃平がかぶさってきて我に返った。
「…ひな…、おまえ、…」
晃平が何か言いたそうな顔をしているが、それがどうしてかまで頭が回らない。
「…ん…? なに…?」
ちょっとの間考えるように固まっていたが、やがて人差し指を唾液で濡らすと、ゆっくりとそこへ入れてきた。
「…っ、あ」
陶酔していた意識が、自分の体に挿入された指の感触に引き戻されていく。
いつもと違う、違和感。
<…あれ…?>
物凄い異物感だった。晃平の指じゃないみたいな感じ。意識がハッキリとした。
晃平も指を入れただけで、何もしようとしなかった。あたしの反応がおかしいのを最初から気付いていたようだった。乱れていた息が整うと、晃平はそのまま指をゆっくりと抜いた。
「…晃平…」
サイドボードのティッシュで濡れた指を拭いた晃平が、そのティッシュを見てしばらく固まった。
「…―――晃平…?」
「…ひな…血」
出てる、と掠れた声で呟いた。
「…えっ?」
「なんかおかしかったんだろ? 入れた時。…もしかして、中に傷ができて…」
晃平が小さな声で呟きながら、どんどん青ざめていくのがわかった。それを見ていて、あたしは違う理由を思いついて、どんどん青ざめた。
「いや、…傷とかじゃ…ないと思う」
言いながら、下腹部に意識を集中した。鈍痛が、じわじわと響くような、響かないような。
「生理…きたかも」
「…え?」
呆然とする晃平のそばをすり抜けて、あたしはトイレに駆け込んだ。
間違いない。
改めてトイレで確認して、そう思った。
あたしは便座に座り込みながら、明日あたり普通に生理痛がきそうな鈍痛に、お腹を押さえた。
「う………っ」
<ど…っ、どうしよぉぉぉっっ!!>
できるなら朝までこの場所に引篭もっていたい気分だ。
あれだけ晃平に心配させて、期待させて、…実はやっぱり妊娠してなかった。
あれだけ、晃平を振り回しておいて、こんな結末。
<あ~~~どうしよ~~~!!!>
だけど、ここで悶えたって、逃げ場はない。
あたしは意味もなくトイレの水を何度となく流して気持ちを落ち着かせてから、トイレを出た。
トイレから出ると、晃平はベッドに座り込んで呆然としたままだった。
困った風なあたしに気付いて、晃平もまた、困った風に髪をかく。
「…。ま、そんな上手くはいかないってことか」
しょんぼりした声だった。それは、晃平とは思えないほど覇気のない、弱弱しい声。
<どうしよう…>
すっごく嬉しいなんて思ってしまっては、駄目だろうか。
妊娠したんじゃないとわかって、しょんぼりする晃平。あたしとの子供を、こんなにも期待していた晃平。
知らず知らずのうちに口元がニヤけていたのか、晃平が不満そうな目つきで睨んできた。
「…。お前、なに嬉しがってるの?」
「えっ? あ、ごめん…っだって、…だって…」
思った以上に怒っているようだったので、あたしは慌てて晃平に近寄った。
そしてもう一度ごめんと謝ろうとして、不意打ちで抱き締められた。
「…冗談だよ。…ひなとの子供が前より欲しくはなったけど、それ以上にひなを大事にしてやりたいって、改めて思った」
「…晃平」
ぎゅっ、と抱きすくめられて、そのままどこかへ飛んでいけそうな気がした。
<ああ…もう…>
なんで、この人は。
「…ありがとう。それと…、…ごめんね―――…?」
おそるおそる、顔を上げて晃平を見ると、ふっと微笑が晃平の口元に上った。
まるで、しょうがないな、と言われているような笑顔。
「…ご飯、一緒に食べようか」
そう言って、ぽんぽん、と頭を手のひらで叩いた。
あたしは素直に、こくりと頷いた。
ベッドから立ち上がり、部屋を出て行く晃平の背中を見つめながら、あたしはまた涙が出そうになった。
<…本当に、ありがとう>
こんな毎日が、これからもずっと続いて欲しいと思う。
もっともっと、あなたを安らかにしてあげられる人間に、なるから。
そうやっていつも、一緒に何かをしようって、言ってほしい。
そんなことを思いながら、目尻にこぼれた涙を拭った。
最初のコメントを投稿しよう!