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2-1 永遠の愛-eternal love-
人間に生まれてよかったと思うこと。
愛しているという感情を持てること。
幸せを幸せだと感じられること。
誰かを幸せにしたいと思えること。
そして、晃平に出会えたこと。
「ひな、牛乳頂戴」
食器棚から自分のグラス取り出しながら、晃平が背中を向けたまま言う。
あたしはその広い背中をゆったりと包んだシャツを見ながら、うん、と返事をした。
今日は晃平は、薄い水色の無地のYシャツに黄色のネクタイを締めている。そのネクタイは実は、こないだの晃平の26歳の誕生日にあたしがプレゼントしたものだった。晃平がそれをつけるのはまだ2回目。後から思ったけど、自分があげたプレゼントをつけている男の人を見るのって、かなり恥ずかしい。晃平が目の前に立つたび、目を逸らしたくなる。
<うー…。別のプレゼントにすればよかったかな>
「なーにしてるの?」
冷蔵庫から牛乳パックを取り出して突っ立っていたあたしの肩に、晃平が腰をかがめて顎を乗せてきた。
「ひゃっ、な、何でもないよ。はい、牛乳」
慌てて後ろを振り向き、パックを晃平に差し出した。
「眠いの? ぼんやりしちゃって」
オムレツ焦げてるし、といらない一言を付け加え、テーブルの上のお皿を見る晃平。ムカッとしながらも、パックを晃平のお腹に押し付けるように渡して、眠くない、と答えた。オムレツに失敗するのはいつものことだった。
「じゃあね、あたしもう行くよ」
晃平は毎日学校まで車で通う。家から歩いて7、8分ほどのバス停からバスに乗るあたしと違って、朝はあたしより少しゆっくりできるのだ。
自分の食器を片付けて手を拭いていたあたしの背後に、また人の気配。振り向くとやや高い位置からキスが落ちてきた。ふわりと牛乳の匂いがするキス。
「ひな、今日は髪下ろして行きな」
「へ? なんで?」
つい素直に聞き返すと、晃平は口元に意味深な微笑を浮かべていた。
「戸田たちにつっこまれても知らないよ?」
そう言って、とんとん、と自分の耳の下あたりを指で叩く。あたしはハッとなって自分の首筋を押さえた。寝癖をごまかすためにラフにまとめていただけのあたしに、そんなまじまじと朝から自分の首もとチェックなどする余裕はない。
「っ、な、~~~バカッ! なんで付けるのっ!?」
今日から授業日だっていうのに、なんでそんな後ろめたいモノを早々に付けてくれるのか。
必死で晃平を睨みつけるも、動揺と照れが入っているのでは晃平もあっさりと受け流してしまう。くすくす、と至って爽やかに笑いながら、イスに座って長い脚を組んだ。
「行ってらっしゃい、ひなお嬢様」
有無を言わせぬ完璧な笑顔。
<こっ…この男…!>
絶対昨日の夜、故意につけたとしか思えない。新学期早々晃平の悪戯にひっかかってしまったことを物凄い勢いで後悔しながら、あたしはカバンを引っ掴むと玄関へ走った。
「だぁ~いきなり進路希望聞かれんのぉ~?」
あたしの後ろの席の井上梨紗子が、担任が教室から出て行った途端机に突っ伏してあたしの背中を突いた。
昭和風のごついメガネをかけた3年D組担任は、HRで散々クラスメイトを脅して、挙句進路希望調査なる忌まわしい紙きれを残していった。梨紗子が手に握る調査書は、あたしの机の上にも当然置かれている。
「ひな、どうすんの? これ」
「う~ん…どうしよう」
だるそうに席を立ち、各々部活に向かい始める生徒がすぐ横を素通りしていく。それに混ざって戸田美波があたしたちの席にやってきた。
「ちょっとぉ、なんなのあの担任。何もあそこまで脅さなくてもいいじゃんねぇ」
「絶対サドだよ田代。さっき教室出てく時勝ち誇ったような微笑浮かべてたもん。あーゆーのが学級崩壊を招くのよ。あー不安。この1年物凄い不安」
梨紗子の余りにもの言いように、あたしは思わず苦笑してしまった。
「まぁまぁ。適当にやっとけばいいんじゃない? 別に東大行けって言ってるわけじゃないんだし」
「似たようなもんだよぉ、もうあーゆーお堅い頑固オヤジには絶対進路相談なんかしたくない」
梨紗子はきっぱりと言い張り、腕組みまでして頷く。
「あ、でもうちらラッキーだよ。副担任、なんたって天宮先生なんだから♪」
美波が上ずった声で梨紗子に耳打ちすると、梨紗子は小声でキャーッと悲鳴を上げた。
「そうだったー! うちら副担任、爽やかセクシー超男前のあの先生だったわねー」
思わずぎくりと視線を泳がせたが、梨紗子と美波は気付いていない。
「そうそう、爽やか。今日黄色のネクタイしてたでしょー、もうあんなに爽やかにかっこよく似合う男いないよね。天宮先生、この春は爽やか路線でいくのかな」
冬のシック路線も良かったけどねぇ、という梨紗子の相槌に、美波が大きく頷いた。あたしはまたしても口を挟めぬまま、二人のやりとりを見るばかり。
「あーまた始まったよ、ひなの男無関心病」
ただ黙って聞いていただけなのに、突然美波が横目であたしを見てくる。
「へ? あ、あたし無関心ってわけじゃないよ」
「えっ、ひなって男嫌い?」
梨紗子は今年初めてあたしと同じクラスになったばかりだ。またしても美波に余計なことを言われて、あたしは首を振った。
「違うよ、全然そんなことないって」
「どうかなーついに2年の間も彼氏できなかったしねぇ。天宮先生も別にどうでもいいって言うし」
「どうでもいいなんて言ってないよ! か、かっこいいな、とは思うけど…」
<ああ、あたし何言ってんだろ…>
自分の夫に。かっこいいだなんて感想言ってる自分。
「ほんとなのそれ? どうも嘘っぽいんだよねぇ…」
疑いの眼で見つめられ、ついぎくりとした。美波は去年一年仲良くしてきてあたしの性格を熟知している。面倒見のいいお姉さん体質で、なにかと世話を焼いてくれる。そしてそれだけ、あたしのことを見ているということで。
<…でも、だったら>
美波には打ち明けたい、と思う。信用してるし、美波に言って後悔はしないと思うから。
<機会を見て、言おう>
これだけ騒がれる手前、かなり勇気がいるけれど。
「とりあえず進路だよねぇ。ああ第一志望どこにしよ」
「美波は小田桐家でいいんじゃん?」
「永久就職! できるわけないって。あいつにそんな甲斐性ないもん」
「ひなは? 大学行くの?」
「あたし、は…うーん…今は特に行きたいとこはないかなぁ」
「ひなにも『永久就職?』なんて冗談言いたいわぁ」
「へっ、だ、だだ誰によ!」
「知らないわよぉ、だから早く彼氏作ってあたしにからかわせてってこと」
「あ、なんだ」
「ん? なにその反応。―――さてはひな、好きな人でもできた!?」
冗談にしても凄い勢いの二人に詰め寄られて、耳を塞いで小さくなった矢先。
「鮎川、ついに春が来たか」
すぐそばの窓から、天宮先生が窓枠に肘をついてこちらを覗き込んでいた。
「あっ………ま宮先生」
さっきまでハイテンションで大声だった梨紗子と美波が、先生の登場によって固まってしまっている。あたしも突然のことに絶句した。
「いいねぇ春は。恋の季節だよな。―――なぁ、鮎川?」
にっこりと笑顔を浮かべて、先生はあたしに話しかけてくる。裏で何を考えているのかわからない笑顔に、あたしはたじたじだ。
「は、…はぁ」
「せ、先生、なんでこんなとこに…」
「ん? 別に通りがかっただけ」
あっさりと答える先生の笑顔は、さっきから1ミリも崩れない。いったい何が言いたかったんだろうと冷や汗をかいているあたしをよそに、先生は、
「いい恋しろよ」
と、妙な捨てゼリフを残して歩いていってしまった。脱力するあたしの隣りで、梨紗子が感嘆のため息をこぼしている。
「はぁ~…かっこいい…」
新学期も、天宮先生は絶好調のようだ。
窓枠から三人で顔を突き出しながら、颯爽と歩いていく先生の後姿を見送った。
帰りがけ、渋谷で遊ぶという梨紗子や美波と別れて、あたしは帰り道にあるスーパーに寄った。夕方のこの時間は主婦が本当に多い。特に30代から40代、つまりあたしのお母さんと同世代くらいのおばさんたち。カートを押しながら野菜や魚を真剣に選んでいるその姿に、お母さんが懐かしいというより大先輩として憧れるという感情を抱いてしまうのは、少しはあたしが人妻という意識を持てている証拠だろうか。
そんな中に一人、女子高生が混ざるのは、最初かなり勇気がいった。店員もすれ違いざま二度見する人までいた。そりゃ16、7の制服姿の女子高生が、カゴに豆腐だのアジの刺身だのって入れて歩いてたらなぁと思う。それがたまにではなく、ほぼ毎日。お陰で妙に目立つらしく、いつの間にか肉屋のおじさんやレジのおばさんと、ちょっとした仲良しになった。
「あらお帰り。学校始まっちゃったわねぇ」
レジを打ちながら、バイトのおばさんが話しかけてくる。
「そうなんですよぉ、早速進路希望調査もらっちゃった…」
「大変ねぇ受験生。旦那さまが先生でよかったわね、好きなだけ相談できるじゃない」
「うーん、そうなんですけどね」
「あ、でも卒業して大学行かなくてもひなちゃん、もう就職してたわね」
ふふ、と笑いながら、おばさんは会計ボタンを、ぽん、と押した。黒くて横長のディスプレイに、緑色の字で1198、と表示される。
「旦那さん、進路のことはなんて?」
「あ、…ええと…、まぁ、好きにしていいって、言ってくれてます」
あたしが言葉を選んで答えたのに気付いて、おばさんがにこりと笑った。
「奥さん思いの旦那さんと、旦那さん思いの奥さんなのね」
「え? それ」
「あら? 噂をすれば、かしら」
どういう意味ですか、と聞こうとしたけど、おばさんが先に何かに気付いて、出入り口の自動ドアを指差した。それにつられて振り向くと、開きっぱなしになっているドアのそばに、グレーのスーツを着た男の人が立っているのに気付いた。胸元に、黄色いネクタイ。
「いいわねぇいつまで経っても新婚さんで」
お釣りを渡してくれながら、おばさんはにこにこ笑っている。あたしはなんだか気恥ずかしくて、はぁ、と答えることしかできなかった。
「今日早かったんだね。それに、珍しい」
マンションからスーパーまで、晃平は歩いて迎えに来てくれたらしい。学校で見たスーツのままだけど、手ぶらだった。まるで散歩に出かけるような感じ。
スーパーの袋を持ってくれた晃平の左隣に並んで、一緒に歩き出した。
「んー。なんとなく、ね」
なんとなくでも、嬉しいものは嬉しい。隣りを歩く足取りが自然と軽くなる。
春の風に乱れた髪を、晃平が長い指でかき上げる。その薬指の指輪が夕日にきらりと反射した。目の前に広がる夕焼けは、明日も晴れだということを教えてくれる。
指輪をはめた手が、するっとあたしの右手を掬った。まだ日も落ちていないのに、晃平がこんなところで手を繋ごうとするのは珍しい。あたしは晃平を見上げ、それから周囲をきょろきょろ見回してしまった。
「大丈夫だろ。このへん、うちの学校の生徒住んでないよ」
そうして、とんとん、とあたしの掌を指でノックする。
手を繋いだ時の晃平のサイン。
―――これ、好き。って意味な。
少し前に、ベッドの中で教えてくれたことを思い出して、あたしは足元に視線を落とした。二人にしかわからない、あたしにしか伝わらない、秘密のサイン。
「あれ? 鮎川さん、ほっぺが赤いですよ?」
背を少し屈めてあたしの顔を覗き込む晃平。
「き、…気のせいです」
そうなんだ、と言って、晃平はくすくす笑う。全てお見通しだと言わんばかりの、余裕の笑顔で。その小さな笑い声が、すごく腹立たしいような気もするけど、それ以上にもっと聞いていたいと思う。晃平の優しい笑い声を聞くと、すごくいい気持ちになれるから。
「明日も晴れだなぁ」
少し後ろを振り返ると、手を繋いだ長い人影が、道路にずっと伸びている。
<…いつか、ここに、もう一人、加わって>
家族3人で。こうして手を繋いで家に帰る日がくるのだろうか。
それって、なんて幸せなことなんだろう。
「…晃平」
「ん? なに?」
夕日を眩しそうに見つめていた晃平がこちらを向く。その耳元に、精一杯の背伸びで近付き。
そして一言。
一瞬一つに重なる、黒い人影。
ガードレールの下に、タンポポが咲いている。タンポポの陰も、あたしたちの影と同じ方向に小さく長く伸びている。何も変わらないんだな、と思う。
―――ひな、家帰ってから開けろよ、そーいうの。
もうはるか遠い昔の思い出。晃平と二人でお遣いに行った帰り、お釣りで買った棒つきのキャンディーを握り、もう片方の手を晃平と繋いで歩いた。
―――だってお母さんに見つかったらおこられるじゃん。
―――怒られるのは俺だってば。
あの時も、夕焼けは世界を温かいオレンジ色に染めて、二人の影は道路に伸びて、道端に白色や黄色の花が咲いていて。幼いあたしは一日を過ごすので頭はいっぱいだった。一日はそこで終わってしまっていた。今日と明日の繋がりなんて、考えたこともなかった。何が変わっていようと、変わっていなかろうと、目の前の世界しか見えていなかった。だけど今は、全ては過去と繋がっていると思える。そして明日へと繋がっていく。だからこんなにタンポポが、夕日が懐かしい。
明日も、タンポポにも影を与える夕日を、晃平と一緒に見れたらいい。
「こういうことを言うのかな」
「ん? 何が?」
風が吹き、また二人の髪を乱した。あたしが答える小さな声は、その風の音にかき消されてしまう。
「え、何? 聞こえなかった。もう一回」
そう言って晃平は耳を寄せてくるけど、あたしは繰り返して言わなかった。代わりに、なんでもないと答えて笑った。
「何だよ一体。気になるだろうが」
くいくいと腕を引っ張られ、あたしはその度に体の重心をあっちこっちさせてしまった。
「だからいいんだって。晃平の想像に任せる」
珍しく眉を寄せて不機嫌な顔を作ってみせる晃平が、慌てるというよりもかわいらしく見えてあたしは笑った。
きっとこんな、何気ない日常のことを。
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