1-1 指輪

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1-1 指輪

「―――では、ここまでで質問のある人」  午後の授業は、どうしてこんなに心地よいのだろう。  5月の気持ちいい温度の風が、窓から教室を吹き抜けていく。  かすかに緑の葉の匂いをのせて清々しい。遠くにグラウンドで野球をしているらしき掛け声が聞こえる。そして、教室内に小さく響く、先生の綺麗な発音の英語。  片肘をついて窓の外をボーっと見ていたあたしは、ここが机じゃなかったら、とつくづく思ってため息をついた。  午後の英語は苦手だ。眠くてしょうがないから。他の生徒達も眠そうに黒板の字をノートに写している。あたしはそれすらもサボって、シャーペンで手悪さをしていると、一人の生徒が張り切って手を挙げた。 「はい、先生。質問があります」  口を尖らせてその上にシャーペンを載せてそっちを見ると、質問をした生徒は戸田美波だった。美波も英語は眠いとよく言っているのに、今日はやけに真剣な表情で立ち上がった。  英語教師の天宮も、びっくりしたように教科書を持ったまま美波に問いかけた。 「―――なに? どこがわからなかった?」 「…。先生って結婚してたんですか?」  突拍子な質問に、あたしは危うくシャーペンを落としそうになった。右手でシャーペンを掴むと同時に、教室中が一斉に騒ぎ出した。 「な、ちょ…待て、おまえら。今授業中…」  先生もなかばしまった、という感じで、止めようとした右手が中途半端に宙を泳いだ。  <あーぁ…>  収集がつかないほどに騒ぎ出した教室の中で、あたしはまた一人、ため息をついた。  空が真っ青な5月の月曜日。  校内一美形と名高い若き英語教師天宮晃平が、突然左手の薬指に指輪をはめてきたのだった。 「それにしてもショックだぁぁ~~~」  放課後。  ずべしゃ、と机に突っ伏した美波が、半泣きで言った。 「結局先生答えなかったけど、まっさか結婚してたとはねぇ~…。誰も疑いもしなかったもんね」 「あーあ、皆のアイドル天宮先生が実はもう一人の女の人の物だったなんて…いつ結婚したんだろ? ねぇ、ひな」  いきなり話を振られて、あたしはお菓子を食べながらこっくり頷いた。 「そうだね、あれは…つい最近しましたって感じではなかったもんね」  あたしのコメントに、高畑さやかが飛びついてきた。 「やっぱり!? やっぱり!? ひなもそう思うよね! あれは結構長いよね~!」 「てか先生が毎日その奥様と同じベッドで寝てると思うと、もう涙が出てくるんだけど」 「絶対美人であって欲しいよね! かつ知的で大人なカンジの。認めたくないけどぉ~」  二人の会話に、つくづく先生がどれだけ人気だったのか実感してしまう。  だからか、どうしても無口になった。 「なによ。ひな。さっきから元気ないけど。てかいっつも思うけど、ひなって男の話に関心ないよねぇ」  美波がふいにそんなことを言うので、今度はお菓子を吹きそうになった。 「え、…あたしのことはどうでもいいじゃないよ」  またお菓子に手を伸ばしたところを、さやかがはたいた。 「よくないよ。ちょっと淡白すぎんじゃないの? あんた17にもなって寂しくないの?」 「うーん…べつに…」 「ひなって案外、理想高い? だから問答無用で言い寄る男を振ってるわけ?」 「べつに言い寄られてないし」 「あーらそう。じゃあ先週のD組の白川くんはどうしたのよ。いい加減高望みはやめなよぉ? 芸能人と付き合えると思っていいのは中学までだからね」  美波とさやかの彼氏が部活から帰ってくるまで、結局遅くまで三人で喋ってしまった。 「あれっ、鮎川じゃん、なになに彼氏待ち?」 「えっ鮎川って彼氏いたのかよ」  二人を迎えに来た彼氏組が、あたしを見てそんなことを聞いてきた。あたしは苦笑して手を振った。 「あ、違う違う。ついつい喋りすぎてこんな時間まで残っちゃったの」 「そなの? 女って喋りだすととまんないのな。ほんとわかんね。どーせなら一緒に帰る?」 「いやーいいよ、気にしなくて。あたし職員室寄って帰るし。じゃあね」  彼氏二人が、そっかーじゃあまたね、と言って、二人を連れて教室を出ていった。  あたしも4人とは反対方向に歩き出す。  別に職員室には用事はないのだが、遠回りして玄関に向かう途中、教官室の前を通った。  生徒も教師もいない、がらんとしたところだ。用もないのに来る学生はまずいない。  ―――いい加減高望みはやめなよぉ?  美波の言葉が頭の中に蘇ってきた。あたしは、その教官室を見た。英語の教官室だ。  <高望みか…>  ほんとはそうなのかもしれない。自分の足元が見えていないのかもしれない。  ドアを開くと、やっぱり人はいない。  ぼんやりとドアのそばに立っていると、とん、と背中を押された。  後を振り向くと、天宮先生がドアを閉めていた。ぱたん、と誰もいない教官室に閉まる音が響いた。  あたしが何も言わないでいると、先生はドア鍵を閉めた。ネクタイを緩めながらこう言った。 「ひなの言ったとおりだったな」  グラウンドを使う運動部の活動も終わって、窓を開けても人の声は聞こえてこない。  あたしは小さく笑って、窓際のイスに座った。 「―――だから言ったじゃん。疲れるよって」 「まさかあそこまで騒がれると思わなかった。なんかまた負けた気分」  上着を近くのイスにかけて、あたしの方へ歩いてきた。  あたしの背後の窓枠に手をついて、顔を近付けてきて、触れるだけのキスをした。  あたしの唇から何を感じたのか、こんなことを聞いてきた。 「…なに考えてる?」  あたしのそばにイスを寄せて座った。あたしは、しばらく黙ったまま一点を見つめていた。 「―――先生って、高望みなのかなって思って」 「は? オレが?」 「違う、あたしが高望みしてるのかなって」 「…。何の話だ?」  先生の顔が不機嫌そうにゆがんだので、あたしはやっと、自分が考えていたことが意味がないということに気が付いた。 「なんでもない。…あたしにはもったいないくらい、イイ旦那様だなーと思ってただけ」  そう、何を隠そうこの天宮晃平の結婚相手は、あたしなのだ。  色々わけありで、こうして校内には秘密にしているのだが、先生が指輪をして来たのは今日が初めてだった。 「なんだそれ。おまえ今日夕ご飯どうする? たまには食べに行くか?」  と、けろりと親しい口調に変わって聞いてきた。  こんなところ、美波達には死んでも見せられない。 「え、でもあたし制服だし…。先生が外で食べたいなら付き合うけど」  あたしが、先生、と呼んだのに、先生はくす、と小さく笑った。あたしの肩に両腕を乗せて顔を近付けてきた。今日2度目のキス。誘うように舌で唇を開けさせ、舌が絡まる。  <あ~…。だめだ。ダメだって…>  困った。こんなことしたら止まらなくなる。 「…なぁ、ここでする気か?」  からかうように先生がきいてくる。拒否するでもなく、あたしの腰に手を回したままで。 「しないよ! そこまでハレンチじゃないもん」 「どうだか。昨日は随分と激しかったようだけど?」 「それは賭けにでしょ! …ほんとにしてくると思わなかったよ。―――はずしてもいいんだよ?」  先生が、あたしを離して指輪を見た。長くて綺麗な指に、きらりと光る結婚指輪――――  しばらくじっと見つめていたが、やがてけろりと答えた。 「いやいいよ。賭けは賭けだしな」 「だからっ、賭けのことはもういいったら!」  あたしが逆ギレしたので、先生は狙いどおりと言わんばかりににやにやした。 「まぁそれはおいとくにしても、してこようとは思ってたんだ前々から。昨日のはちょうどいいきっかけになったよ」 「…。ほんとに?」 「ほんとだよ。これで少しはオレのファンも減るだろ」 「多いもんね、天宮ファン。あたしバレたら殺されるわ」 「そんな男手玉に取るなんて、最近の高校生もバカにできないな」 「あたしが捕まえたんじゃないもん。おじいちゃんだよ」 「オレはそこに理事長が関わってるとはまったく思ってないけど」  なんでこの人はこう、あたしが調子に乗るようなことばかり口走るのか。  あたしは、先生を―――いや晃平を引き寄せると、キスで口を塞いだ。  いきなりの深いキスだ。だが晃平は特にびっくりした様子もなく、それに応えてくる。むしろあたしよりも挑発的なキスで返してきた。そのまま晃平の右手があたしのシャツにかかり、下からめくり上げる。  下着のホックを外され、直に触られた。あたしは、晃平の耳たぶに柔らかく歯を立てた。 「…ここでしないんじゃなかったの?」 「そんなこと言ったっけ?」  いたずらを思いついた子供のような瞳。  あたしの腰を抱いて立ち上がり、そばの机に座らせた。手をスカートの中に忍ばせて、下着の上からやらしくなぞってくる。思わず声を上げそうになって口を押さえた。  場所が場所なだけに意識してしまう。 「…ベッドより興奮する? ―――いつもより濡れてるよ」  と、やらしく囁かれた。あたしは小さく唸って晃平に抱きついた。口からこぼれる軽い笑いからは想像できないような手の動き。堪えきれずに声が出た。 「―――あっ…、や、あ…っ」  やめて、と言いたいのに口から出てこない。かわりに、両脚が晃平を求めて開かれた。  イスに足をのせて、晃平があたしの前に膝をついた。今度は舌で舐めてくる。体が震えて仰け反った。机に両手をついて、天井を仰ぐ。 「あっ…や、…だ…っ」  声に泣きが入ってて、自分で聞いてても恥ずかしい。何を言ってるかもわからない。 「…最後までいってもいい?」  熱い息を吐きながら、晃平が聞いてくる。あたしは、乱れた息を整えながら答えた。 「―――ここまでして、最後までしてくれないなんて、…ずるいよ」  晃平は、またあたしにヘビーなキスをしながら、腰をあたしのそこへ割り込ませてきた。勢いが強くて腰が机から浮いた。下半身に伝わる刺激に何も考えられなくなって、手が宙を泳いだ。それを捕まえて、晃平の背中に回される。 「…っ! あ、あ、っあ…」  こんな体勢でも晃平はあたしの感じるところを確実に突いてくる。その腰の動きはあたしの思考を止めるくらい速くて、深い。  快感に意識を一瞬奪われた。  目の前の、少し汗ばんだ晃平の肌。  平常心を取り戻そうとして息を整えるその呼吸にさえ、あたしはまたゾクリ、とした。  自分でもわかる。自分のそこが今どうなっているか。冷たい机に、名残が滴った。どうしようもなく体が気だるい。晃平が甘ったるいキスをしてくる。あたしは、両手を首に回してそれに応えた。ここが家なら、2回目に突入しているところだ。 「ん…」  濡れたままのそこに、また晃平が指を入れてくる。静かな部屋に、はっきりと濡れた音が響いた。晃平はその音を楽しむかのように指を好き勝手に動かした。そして、あたしの目の前で、見せつけるようにやらしく指を舐めた。そんなことをされたらもう唸るしかない。 「…戸田たちに何言われたか知らないけど。俺にこんなところで欲情させといて、今更何を悩む必要があるんだ?」  他人事のように淡々と言い、あたしの胸元に光る、チェーンに通した指輪を取ってキスした。 「よ、…欲情って」 「この指輪は外さない。一生な」 「…………」  あたしは何を悩んでいたのだろう。ここまで思われてるのに、すぐに不安がる自分がばかばかしい。   ―――一生な。  付き合ってるだけじゃ得られない、ずっと永くてずっと深い、愛情。  もっと確かなもの。  そんなもののほんの一部分だけを形にした、指輪。  だけど今のあたしには、それだけで十分だ。  ちょっと危険で、Hな男だけど、これからもずっと一緒にいてね。  はやくあなたに釣り合うような、いい女になるから。
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