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志門が慣れるのに苦労したのは、苗字だけではないと知っているからだ。
十三の年まで名すら知らされず、父の存在を知り、堤家から解放された時にようやく、その名と今の姓を手に入れた志門は、名を名乗ると言う事にも苦労しただろうが、生きるための生活そのものが、躊躇いの連続だったはずだ。
「大変な目に合われたと聞き、見舞いに参上いたしました。ご迷惑なら申し訳ありません」
「そんな事は……わざわざ、こんな所まで、ありがとうございます」
健一の苦い心境に構わず、二人は腰の低い挨拶を交わす。
「健一さんに聞いたところでは、奇妙な事故が身の回りで多いとか?」
「思い当たれば、そうかという程度の事です。偶然とは重なることもあります。金田の気のせいです」
「そうかも知れません。何かが蟠ってはいるようですが、あなたを取り巻いているわけでもない様です」
「ええっ、やっぱり、いるんですかっ?」
つい、身を縮めた健一に、玲司が呆れて答えた。
「病院と言う場所柄、どうしてもそういうものは集まるんだ、仕方がないだろう。見えるようになろうとは、思わんが」
「蟠るだけのものなら、気にする事はありません。悪戯のような真似はするでしょうが、そこまでの害には、なりませんから」
問題はその蟠りが、他の者に利用される時だと、師匠には教えられているが、ここで後輩たちを怖がらせることは、しない。
「でも、気にし始めて、嫌な思いをし始めたら、害があると感じますよ。苛めと同じです」
「人は無視することが難しい分、問題になりがちですが、実体がないものには、無視が一番です」
健一の意見にそう返す先輩に、伸も頷いた。
「災厄だって、自分が気づかなければ、構わない。この程度で済んでいる分、僕はまだ幸運なんでしょう」
「……」
玲司が、溜息を吐いた。
「だが、少しは気を付けなければ。命にかかわるような事態になっては、遅いのだぞ」
「はい、すみませんでした」
頭は下げたが、何やら形だけに見える。
それに気づいているのか、玲司も一応は納得したように頷いたが、難しい顔のままだ。
「不躾ついでに、もう一つ、よろしいでしょうか?」
丁寧な先輩の申し出に、伸は首を傾げた。
「何でしょうか?」
「いえ、本人に訊くのは、どうかとも思うのですが……誰かに、嫌われているとか、恨まれるような事に、心当たりはありますか?」
怪我人の少年は、不思議そうに志門を見た。
「警察の人にも、訊かれましたけど……そうですよね。どこで誰に恨みを買っているのか、本人が分かっていれば、それに越したことはないですけど、僕自身が恨まれる事には、心当たりがありません」
妙な言い分に、健一が問い返す前に、伸は続けた。
「父絡みならば、いくつか思いつきましたから、答えておきましたけど」
「警察が、動いてんのか?」
つい声を張り上げてしまい、思わず叔父を見る。
玲司は、大きな声を上げる甥っ子に白い目を向け、それから頷いた。
「どうやら、妙な話になったようでな。その話は、もう少し何か分かってから、話すつもりだったのだが」
「妙な話、ですか。これまででも、妙な話に聞こえるのですが、私の勉強不足でしょうか?」
志門が、つい呟いてしまう。
すると、健一が真顔で答えた。
「あの程度で、珍しがってちゃ、頭が混乱しちまいますよ」
「いや、ここまでで、おかしいと思わない方が、逆におかしかろう」
叔父は呆れて、甥っ子の言い分を窘めた。
「あの人に、毒され過ぎじゃないのか?」
「そんな事ないよ。蓮師匠は、結構まともな人だ」
ただ、周りにまともそうに見える人が多いせいで、外見ではそう見えるだけだ。
そう言い切った健一に、玲司は小さく唸った。
「そう、だったか?」
全く原因も、根治法も分からぬ病気を完治させる薬を、触っただけで作って見せる人がまともなら、世の中の鬼才と呼ばれる人たちは全て、まともの域に入る。
「そうだよ。だから叔父さんも、まともって事だよ。オレの中では」
喜んでいいのかと、戸惑う叔父に構わず、健一は伸へと問いかけた。
「何か聞いてるのか、警察に?」
「……いや。怪我の方の聴取じゃなかった事くらいしか、分からなかった」
どうも、先日の通り魔の件らしい。
「逮捕された当初、学園に恨みがあって、生徒を誰でもいいから……と、自供していたようなのだが、調べた結果、その加害者はこの土地出身ではないことが、分かったそうだ」
関西の方の学校を出、就職までした男だった。
「失業してこちらに越して来たが、中々落ち着けずにいたらしい」
玲司の説明に、甥っ子は目を見開いた。
「え、まさか、昔あったって言う、留置所で暮らしたくて、犯罪犯しましたって人?」
そんな話があったと聞いた時は、耳を疑った。
しかも、全く面識のない人に切りつけ、そう宣ったと聞いた。
当時も社会問題となったようだが、襲われた者の親の税金も、そんな奴に使われていると思うと、言いようのない怒りがこみ上げたものだった。
だが、叔父は首を振った。
「どちらが極悪かは分からないが、それも違うようだ」
動機の矛盾を指摘されても、男は中々白状しなかったが、最近になって吐いた。
「……まあ、その件は、後でゆっくり話そう。そろそろ、面会は終わりだ」
突然言われ、二人の少年は、有無を言わさず、病室から追い出された。
一度ドアを閉められ、玲司が何やら患者に声をかけているのが、小さく聞こえる。
その声を聞くともなく聞きながら、志門が呟いた。
「あのような色合いの目を持つ方が、本当にいるとは。驚きました」
目を合わせた時、当然ながら驚いてしまった。
右目の方は、茶色と言うより鳶色に近く、左目の方は水色の瞳の色をしていた。
猫で偶にいると言う、オッドアイ。
人もここまではっきりと色が別れるのかと、思ってしまったが、これは不躾すぎて話題にはしなかった志門だった。
「ですよね。オレも驚いて、つい口に出してしまって、叔父貴に怒られました」
当の伸は、その指摘を気にしている様子はなかったのだが、学校では隠しているのだから、触られたくない話だったかも知れないと、健一は反省している。
「何か、分かりましたか?」
「いいえ、全く」
期待を込めた問いに、志門は正直に答え、少し考えて続けた。
「ただ、気になった事はあります」
「え、何ですか?」
「いえ……それは、金田さんのお話を聞いてから、お話します。もしかしたら、思い違いかもしれません」
やがて病室から、叔父が姿を見せた。
二人の少年と共に病院を後にした玲司は、妙な話になったその件を、出来るだけ少年たちに刺激を与えぬように、語り出した。
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