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その数年後、症状が悪化した健一は、地元の病院へ入院することになった。
取りあえず急場しのぎの、最悪な病巣となった個所を、除去する手術を受けることになり、父親の弟である玲司が、医者として治療できるのを待つ余裕は、無くなっていた。
唸る医者と父親の絶望的な表情、兄や祖父叔父の悲痛な空気を、健一は他人事のように感じつつ、ベットに横たわっていた。
一人の病院も慣れたもので、面接時間を過ぎ暗くなった病室内の天井を、ぼんやりと見つめながら、自然な眠りが訪れるのを待っていたその日の夜、うとうとしていた健一の顔を、そっと覗きこんできた者がいた。
息をひそめて覗き込んだ誰かは、小さく息を吐きそっと傍の丸椅子に腰かけ、静かに言った。
「眠れねえのか?」
狸寝入りでやり過ごそうとしていた健一は、びくりと体を震わせてから、ぱっちりと目を開けた。
顔をめぐらせると、そこには会ったことのある若者が、腰かけていた。
「相変わらず、お前の親父はどこか抜けてんだな。手術前のガキを、付き添いなしで置いて帰るか。心配してるのは間違いないんだが、自分と同じように、怪談話が苦手かも知れねえって、考えないのかね」
「……前に、入院した病院には、結構居たよ。でも、平気だった」
苦笑を貼り付けた蓮に、掠れた声で答えると、若者は少し目を見張った。
「へえ、肝の据わりようは大したもんだな。まあ、仕方ねえか」
頷きながら手を伸ばし、健一の額に触れた。
小柄な割に、武骨な掌だ。
「症例がない、まれな病か。それをずっと聞かされてりゃ、恐怖もマヒしちまって、無関心にもなるか」
父親にされるのとは違い、乱暴だがどこか安心する手に撫でられ、健一はくすぐったい気持ちと言う、初めての感覚を味わった。
「……お前、大きくなったら、何になりたい?」
思わず目を閉じて、その感触に浸っていた子供に、蓮は唐突に尋ねた。
「大きく?」
「ああ。あるだろう? どういう、大人になりたい?」
よく、分からなかった。
当時健一は、小学生だった。
日本に来て、初めて年を認識し、学ぶ場所がある事を知った。
だが、手本となるのは父親と周囲の大人だけで、どういう大人にと言う夢は、全く浮かばなかった。
しかし、若者を前にした子供は、答えていた。
「強くなりたい。お祖父ちゃんやお父さんが泣かないように、もっと強くなりたい」
「……そうか」
その表情を見下ろし、若者はにっこりと笑った。
今思うと、蓮がそんな綺麗な笑顔を浮かべる事が、どんなに珍しいか分かるのだが、当時はその笑顔を見れて、ほっとしただけだった。
いつも浮かべる笑顔ではないそれは、逆に何かやらかす前の笑顔だと、今ではよく知っている。
その笑いのまま、その時の蓮は子供の額から離れた手と、もう片方の手を合わせて、健一の前で掌を上に開いて見せた。
「よく見てろ。簡単な手品だ」
横になったまま凝視してくる子供に、マジシャンよろしく、おどけた声で言う。
「種も仕掛けもこの通り、一切ありません。確かめてください?」
興味津々の健一が、こくこくと頭を頷かせるのを見て、蓮は一度両掌を握りしめた。
少し手を持ち上げて、両方の握りしめた掌に、息を一息ずつ吹きかけてまた笑顔を浮かべ、健一を見た。
そして、そっと再び子供の見える位置に両手を置き、その手を開く。
そこには、数個の錠剤があった。
「お前は、薬慣れしちまってるだろうが、年齢からすると、この位ずつがいいだろ」
片手にその錠剤を移し、小さくたたんでいた紙を広げてその上に転がしていく。
胡麻ほどの小さな錠剤が、その場で包装されて行くのを見ている子供に、蓮はこともなげに言った。
「手術の直前まで、日に三度、飯を食った後に一錠飲み込め。全て飲み終わる頃が、手術日になるように用意したから、まあ何とかなるだろう」
「これ、なあに?」
手を布団から出して受け取った健一に、若者は笑った。
不敵な、今では見慣れた笑顔だ。
「お前の体の中の病原菌を、消滅させる薬、だ。誰にも言うなよ?」
夢だったのかと、朝起きた健一がぼんやりと体を起こすと、何かを右手が握りしめていることに気付いた。
開いてみてからすぐに握り直し、あれは夢ではなかったと実感した。
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