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5 ビタミンC
「聞いてなかったじゃあ済まされないだろう、田嶋くん」
目の前の40過ぎの中年が、薄い唇の間から黄色い歯を見せてニヤニヤ笑った。
「すみません。全面的にこちらのミスでした」
その男の横に立って頭を下げながら、俺は何をやってるんだろう、と思った。
「こっちも暇じゃないんだからさぁ。予定の変更なんてよくあることだろう? ちゃんとチェックしておいてくれなきゃ困るよ。で、いつ届くんだね、ポスター見本は」
「はい、先ほどデザイナーの方に連絡を取りまして、印刷会社に寄ってすぐに持ってくるそうです。あと1時間はかかりますし、そのまま社の方に直接お届けします」
だからもう帰れ、と心の中で呟いたが、この中年は勿論気付いていない。
隣りに立った俺を、その田村課長はじろじろと見上げてきた。どうせ暇だからしばらく俺をいたぶってやろう、という魂胆が見え見えだった。
「君、入社して何年だね」
「はい、3年目になります。仕事に慣れたつもりで気が抜けてたのかもしれません。申し訳ありませんでした」
「3年ねぇ。そんな若造にこんな大仕事任せるなんて、そちらの会社も随分と大冒険をするようノなったもんだ。チェックもまともに出来ない若造に、仕事は滞ってばかりじゃないか」
それから田村の嫌味は延々続いた。
若造呼ばわりされるのには、大概慣れた。だから屁とも思わない。代わりに心の中であれこれ反論するクセがついた。その若造に仕事を任せられるほどテメーの会社はそれほど大きな顧客じゃねーんだ。などである。
もういいだろうと思い、そろそろ話を切り上げようとすると田村は先の嫌味に続けてこう言った。
「無駄に綺麗なツラ下げやがって」
は?と思った。それとこれとは関係ない、と眉を寄せたのにも気付かず田村は続ける。
「いいか、こういう世界にはな、裏方が似合わない人間と、似合う人間がいるんだよ。裏方ってのは、文字通り裏で大勢を束ねてオモテに立つ人間をフォローする役だ。そういう人間はプロジェクトの全体像をしっかり把握して、どんなトラブルにも臨機応変に立ち回らなくてはならない。いちいちそこで滞ってたら話になんないんだよ。わかるかい? そこでだ、君みたいな人間はつまり、裏方には向かないということだよ」
「…………」
「そーいうカメラの前に立ってポーズ取ってる方が似合うような男が、裏で大勢を束ねられるわけがないんだ。今回のがいい例だ。外見がいい男は大抵中身がない。君も割り切って笑顔を売る職業にでも就いたらどうだね?」
開けっ放しのドアから、デザイナーに連絡を取りに行っていた河内が待合室に入ってくる。そして、話し掛けようとして田村の言いつづけることに気付いて茫然としていた。
「君も。こんな不適当な先輩を持って大変だな。―――では、私はこれで社に戻るよ。ちゃんと届けてくれたまえ」
田村はご丁寧に、俺の斜め後ろに立つ河内にも嫌味を言い、気分爽快といった顔でそのまま待合室を出た。
「―――今後、気をつけます」
忌々しい靴音を聞きながら、田村の背中に向かって頭を下げた。
「…にしても、ありえないッスよね。田村課長」
会社内の自販機が置いてある喫煙スペースで、缶コーヒー片手に河内がうめいた。
「田嶋先輩、よくあんなクライアントを一ヶ月も相手してきましたよね。しかも機嫌も損ねず」
「損ねてるからあーなんだろ」
タバコの煙を、正面に座る河内に向けて吹きかけた。
「げほっ。…先輩、当たるのはやめて下さい」
「ああワリィ。あのタヌキと会うのもあと2、3回だ。そのくらいちゃんと笑顔で貫き通してやるわ」
「お願いします。俺一人じゃ扱いきれないですよ。事ある毎にあんな意地悪されたんじゃ…今日のだって、あれ絶対わざとですよ。こないだ締切日決めた時もわざと1週間遅い日を指定してきたんだ。んで、何食わぬ顔して変更になったとか抜かしやがって。なんなんだアイツは」
素直に怒る河内を見て、俺は苦笑してしまった。
「お前もまだまだ若いな。イチイチそんなことで腹立ててたらハゲるぞ」
「先輩ていつもそうですよね。嫌味言われて、殴りかかりそうになったこととかないんですか?」
「最初からナメてかかってる奴には、仕事で黙らせればいいだけの話。嫌味だけは超一流の中年も、それで一気にだんまりだ。まぁ、ストレスが溜まるのは事実だけどな」
「…はぁ、なるほど。―――俺、そういう経験ないからやっぱり腹立ってしまうッス」
「どこも大抵若い社員が気に入らないんだよ。特にあの会社は若くて顔のいい男がお嫌いらしい。お前も気をつけろって散々先輩に言われてきた」
「あ、…先輩今日も言われてましたよね、…顔について」
「別の場所で聞いたら褒め言葉に聞こえなくもないんだけどな。さすがにイヤになるな、さっきのは」
整形したろか、と嘯いた俺に、突然河内が噛み付いた。
「マッ、マジですか? やめて下さいよ、俺先輩の顔好きなのに…っ」
不覚にも煙を気管に誤って入れてしまった。盛大にむせた俺を、複雑な顔で河内が付け足した。
「だ、だって、かっこいいじゃないですか。田村課長は顔だけって言ってたけど、先輩本当は中身もスゴイ人だし。無敵ですよ、先輩」
「あーーー。お前が女だったら素直に喜べたんだけどなぁ。残念残念」
延々続きそうだった河内の褒め言葉を遮って、俺は席を立った。先輩ィ、と泣きついてくる河内を置いて、俺はその場をあとにした。
翌朝。
俺は洗面所の鏡に映る自分の顔を見て、唸った。
「…マジかよ…」
濡れた前髪を後ろに撫で付けて、額をじっと見た。
昨日まで何もなかった右眉毛の上に、ポツリと盛り上がった突起物。
いわゆる、ニキビというやつ。
いやこの年でニキビとは言わないか。
<…絶対ストレスが原因だな>
久しく見なかった代物だ。もともとそういうものと無縁だった俺は、学生時代なら面白がって観察したものだったが、今となっては恥ずかしいだけだ。
しかも眉の上というこれまた微妙なところに出来ている。どこに出来ても微妙だろうが。しかも髪をセットしたら、その突起物は前髪というカバーから覗くのだ。
<…今日は下ろしていこう>
スタイリング剤を手に取り、もう一度洗面台に戻した。
「田嶋くん最近前髪下ろしてるわよね。どうしたの、イメチェン?」
隣りの席の安藤夏子が、思い出したようにそんなことを言った。
「カンケーねぇだろ別に」
見ていた資料から視線もずらさずに、俺は答える。すると、夏子はイスごとこちらに寄って来た。
「あら、そっけない。なんか言われたの? あの田村のジジィに」
「あのタヌキは関係ない。それより仕事しろ。俺は忙しい」
「最近そればーっか。朝も昼も夜も。休日も構ってくれなくなっちゃってさ」
ぷぅ、と夏子は唇を尖らせながら手に持った書類を見た。
「…まっさか、こないだ会った女子大生が本命の彼女だなんて言わないわよねぇ?」
再び視線をこちらにやられ、夏子のマスカラが綺麗に塗られた目とバッチリ合った。
「…それカマかけてるわけ?」
「あ、そうなんだ。本当に本命なんだ。信じらんない、あれだけ女から女に乗り換えてた男が。降りる間もなく乗り換えてた男が。そんなオチつまらなすぎるわ」
あまりな言い様に、俺も閉口する。なまじ一緒に過ごした夜も少なくないだけに、ある意味田村よりも夏子の方が手強いかもしれない。
「ねぇあの子のどこがいいわけ? 一目惚れとか言わないわよねぇ、まさか?」
「どうでもいいだろーが。わかってる? 今お仕事の時間。そういう話は勤務時間外にしてくれ」
「あら、勤務時間外だって構ってくれない男が何言ってんの。ハハ~ン、その本命の彼女が前髪下ろせって言ってきたのね?さては。まったくかわいいことしてくれるわよ、田嶋くんも。本命には甘いのねぇ」
本当の理由が理由なだけに、夏子の勘違いを否定する気にもならない。
<…こいつなら指差して笑うに決まってる>
なにより俺の顔が一番好きだという女だ。オデコにあんなものが出来たと知ったら、向こう3ヶ月は「吹き出物」だの「ニキビ」だののあだ名で呼ばれそうな気がした。
「…どうとでも言え」
それだけ言うと、資料を顔の横に持ってきて、夏子との会話をシャットダウンした。
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