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「…ん~~~~」
朝起きて、顔を洗う前に鏡と睨めっこするのが習慣になってきた。
額に異物を発見して、もう5日経つ。
たかが1個の赤いニキビが、5日経っても治らないのである。
さすがに気になって、食生活もバランスを考えて摂ったりコーヒーとタバコを控えたりと、それなりの対処はしている。だが一向にニキビは小さくもならなければ消えもしない。
明日は土曜日。暇なら日和が午前中から押しかけてくる日だ。
俺は会社帰りに、仕事でくたくたになりながらも駅前のドラッグストアでビタミンCのサプリメントを買った。かなり嫌だった。
スーツ着ていい年こいたサラリーマン男が、会社帰りにビタミンCの錠剤を買う、の図。
<…二度とやらねぇ…>
チラシやらクーポン券やら、レジの子は色んな広告をつけてくれたようだ。やたらとかさばる袋を、カバンに突っ込んだ。そのまま電車に乗り、自分の部屋に帰ってくると、いつも通り日和のメールに返信する気力もなく、そのままベッドに倒れこんだ。
勿論、カバンに入れたサプリのことなど、ベッドに倒れた途端忘れ去っていた。
翌朝、胸の上に圧迫感を感じて目が覚めた。
「…いてぇ、茶々…」
4本の脚が、まるでタイ式マッサージのようにいらない刺激を与えながら胸の上を歩き回る。
そういえば昨日晩もどこかに出かけていたようだが、帰ってきたら帰ってきたでこうしてご飯をねだるのだから、こいつも相当自己中な飼い猫である。
つい最近まで手のひらに収まるほどの大きさだったのに、と思いながら寝返りを打つと、体の重心を崩した茶々はそのまま脚で俺の顔を踏んずけた。
「!!」
さすがにびっくりして意識がはっきりした。ぱち、と目を開けると、目の前に茶々のドアップ。
「~~~おまえ、いったい誰に似た…」
この無意識と有意識の紙一重のいたずらは、確実に俺ゆずりではない。冷蔵庫からミルクを出しながら、寝起きの脳裏に日和の顔が浮んだ。
足首に絡みつく茶々にミルクを出してから、頭をぼりぼりかいた。
しんと静まり返る部屋に、人の気配はない。
<あいつ来てないのか…>
日和と付き合い始めたのはかれこれ3ヶ月前だ。つい1ヶ月前に合鍵を渡した。それは、休日はいつも昼まで寝ている俺にとって、いちいち玄関までカギを開けに行くのが面倒くさかったからなのだが、日和はまだ付き合いの日も浅いのに、合鍵などという濃いアイテムを渡されてかなり緊張していた。それはそれで面白く、素直に渡してよかったと思った。
カギを渡してからは、いつも土曜の朝は日和の声で起こされていたから、ちょっと違和感。
いや、詳しくは孤独感。
―――信じらんない、あれだけ女から女に乗り換えてた男が。
<…たしかに>
朝目が覚めて女がいなくなっていようが、その女の顔すらよく思い出せないくらい綺麗さっぱりな遊びしかしてなかった俺が。孤独ってなに、みたいな境地にいた俺が。
時計を見ると9時半だった。日和は大抵10時過ぎにやってくる。
たまには起きて待ってみるか、と思い、そのまま洗面所に行きかけて、昨日買ったサプリのことを思い出した。
カバンから取り出し、ついでに携帯も出す。昨日日和から来ていたメールを見ると、『今日10時ごろ行く』という内容だった。サプリは『食後3粒』と書いてあって、とりあえずご飯食べた後に飲むことにした。
今朝もまた前髪をかきあげて、額を見る。…やっぱりまだある。
<…こりゃ日和には絶対見せられねぇ…>
洗面台の淵に両手をついて、がっくり肩を落とした。
日和は俺より5つ年下のまだ20歳である。ハタチがどういう肌を持っているかなどさして興味もないが、自分と同い年の夏子は、それはもう神経質なほどケアに力を入れていた。一方日和は、気にはしているのだろうが、たまにスッピンでアイメイクだけしてくる。それでも何の違和感もない。前、ファンデーション嫌い?と聞くと、つけててもすぐ取れるから、と返された。それはどうやら俺のせいらしいが。
それは置いておくとしても、スッピンだろうが日和もニキビ一つ見たことがない。あ~んまた出来た、とか鏡見て泣き言を言うようであれば、こっちもたまにできた1個くらい気にならないのだが。
シャワーを浴びて、歯を磨き終わったところで、日和がやってきた。
「あれ、もう起きてる。珍しいね」
バスルームから出てきた俺に気付いて、日和はにっこり笑った。
「茶々に顔踏まれたから」
タオルを首にかけて、バッグをテーブルに置く日和に近付く。今日はファンデーションをちゃんと塗っているらしい。相当至近距離でないとわからないのは、薄化粧のせいなのか、化粧のりの良すぎる肌のせいなのか。
「ちょっ…ちょっと…」
いきなり接近されて、日和は素直に動揺してくれた。
肌チェックしたとも言えず、俺はそのまま日和にちゅっとわざと音を立ててキスした。
ふらり、と半歩後退する日和を放って、食パンをトースターにかけた。
「…雅貴ってさ。思うがままに行動してるよね」
ちょっとふてくされたような口調の声が、後ろからとんできた。
「なにがいいたいの?」
「無意識で振り回すのが上手いよねってこと。―――たまには家まで迎えに来てもらいたいわぁ」
日和はハタチらしく、我儘もハタチらしく言う。
「そりゃ無理だな。転職しない限りありえません」
日和にはコーヒーを、自分はウーロン茶をカップに注いで日和のそばまで行く。
キッチンのテーブルの上に出しっぱなしにしていたビタミンCのサプリに、日和が気付いた。
「―――雅貴こんなの飲むの?」
さも珍しいと言わんばかりに、俺と錠剤のビンとを見比べた。
しまった、見つかった。
「飲んでない。買っただけ」
「なんで買ったの? 栄養足りてないからって、まさかこんなの飲む人だとは思わなかった」
「どういう人それ。…ちょっとストレス溜まるクライアントに当たってるから、今」
「だったらビタミンCよりカルシウムがいいんじゃないの?」
苦し紛れの言い訳を、いとも簡単に返されて、俺は黙った。
「…。ビタミンCの気分だったんだよ、それ買った時は」
「どういう気分?それ。雅貴って意外に抜けてるんだねー」
はは、と笑う日和を見て、こっちは溜め息だ。
「今日どこ行く?」
日和の隣りには座らず、ソファの方に座って、一人でウーロン茶を飲む。すると、日和は俺の隣りに座ってきながら珍しくこう言った。
「今日は家にいる。そう毎週毎週外に連れ出されたんじゃ、雅貴も休めないでしょ」
コーヒーカップをテーブルに置き、腕をからめてきた。ふわり、と甘い匂いがする。日和がいつもつけている香水の匂いだ。俺はこれを嗅ぐたびに、これはどういう作用だろうという不可解な行動を取ってしまう。
たとえば知らぬ間に日和を抱き締めてキスしていたりとか。今のように。
「…ん、…っ―――マ、サキ…っ」
息を十分に吸えない日和が、キスの合間に苦しそうな声を出したのに気付いてやめた。
「…フェロモン…かな」
「え? なに?」
「べつに。―――じゃあ一日家にいる。言っとくけど冷蔵庫なんもないよ。ご飯も買ってきてくれるのね?」
思いやりで言ったのに、いきなり嫌味で返されてさすがに日和もムッとしたらしい。
「うっさいわね。それは気分次第よ。なによ、髪濡れたまんまでさ。早く乾かしてくれば?」
キスで濡れた唇を尖らせて睨んでくる。くい、とタオルを引っ張られて、今度は日和からキス。
「…冷たい、前髪」
呟いて、タオルを掴んでいた日和の手が、する、と俺の前髪をかきあげた。
<…―――ゲッ>
日和がその物体に気付くのに、それほど時間はかからなかった。
「…………。へ―――ぇ」
いつまで経っても日和の視線と絡まない。じぃっと、それは俺の額に注がれたままだ。
「だからCなんだね。カルシウムじゃなくって」
納得したように頷いて、日和はやっと俺の目を見た。
「まだまだ青いね、雅貴くん」
そして俺がもっともほしくなかった言葉を、さらりと言ってのけたのだった。
俺はその直後から、日和をしばらく無視することにした。
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