6 ダブルベッド

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6 ダブルベッド

「へぇ、結構広いな」  うちの部屋の玄関に、男物の靴が置かれている。  この、なんとも言えない違和感。  ずかずかと部屋の奥に入っていく雅貴を放っておいて、あたしは雅貴の革靴をしゃがみこんで見つめてしまった。  <…明日は雹が降るわ> 「何やってんの? 日和」  なかなか奥へやってこないあたしを不審がって、雅貴が戻ってくる。  そしてあたしと自分の革靴とを見比べて、強気そうな眉をひねった。どうせ、このささやかな感動をこの男がわかってくれるわけない。 「別になんでもない」 「俺の靴のサイズ? 28センチだけど」 「そんなこと聞いてない」 「じゃあなんで靴見てんの?」  雅貴の靴が、自分の部屋にあるのが嬉しかったから。  <そんなこと言うかバーカ> 「意外に臭くないね」 「あほか」  あたしの冗談に、雅貴が冗談の強さでヘッドロックをかましてくる。そのまま立ち上がらせて、ずるずると奥の部屋へと連行された。  土曜日の正午。  雅貴は付き合って4ヶ月目にして初めてあたしの部屋へとやってきた。  もちろん自主的にやってきたわけではない。それがくやしいのだが、うちに来るために朝起きて電車を乗り継いでくれたというのが、あたしは嬉しかった。  <なんでこんな当たり前のことに感動してるんだろ…>  小さな幸せで小躍りしてしまう自分が、物凄く可哀想な女に思えてきた。  雅貴が、提げてきた段ボール箱大のカゴの扉をしゃがみ込んで開けると、中から茶色の毛玉がぴょこりと飛び出した。そう、雅貴が朝起きてうちに出向いてくれた理由は、これ。 「エサはこっち」  と言って、雅貴がもう一つの紙袋を指差す。 「ああ、うん。わかった」 「悪いな。でもほとんど外で遊んでるし、部屋では大人しいし手はかからないから」 「わかってるよ」  おいで、と両手を差し出すと、雅貴が持ってきたその毛玉―――茶々という名の猫は、素直にあたしの手の中に飛び込んできた。 「うわ、なんかすげぇ素直」  あたしの腕の中でごろごろと喉を鳴らす茶々を見て、雅貴が苦い顔をする。 「そりゃあ雅貴より愛情注いでるもん、あたしの方が明らかに」  ふふん、と鼻を鳴らすと、雅貴は白けた顔をしてベッドに腰掛けた。ぎし、と小さく軋む。  その構図を見て、あたしはまた妙な感慨に耽ってしまう。  <…雅貴が、あたしのベッドに座ってる>  …相当おかしな価値観で付き合いをしてきたんだろうな、あたしって。 「あー…眠い」  茶々の行動を観察していた雅貴は、しばらくも経たないうちにごろんとベッドに横になった。 「ちょっと。また? 昨日徹夜とか言わないでよ」  キッチンで昼ごはんを作っていたあたしは、包丁片手に雅貴を振り返る。だけどもう雅貴は会話するのも面倒なのか、枕に顔を埋めて、んー、と非常に適当な返事を返す。  <なんで!? 来て30分じゃない! どーゆー神経してんのこの男は…!>  ダンダン、と手荒にたまねぎを切り刻みながら、あらしは苛立ちを抑えるのに必死だ。  初めての『彼女のお部屋訪問』。  来て30分で眠気に襲われる雅貴の神経を疑った。 「ちょっと雅貴? まさかもう寝たとか言わないでよ?」  返事がない。  手を拭いて部屋を覗き込んだ。ベッドにうつ伏せて、背中に丸まった猫を乗せて眠る男一匹。  <こいつ…どうしてくれよう>  ぺたり、とベッドの前に座り込むと、膝の上に茶々が乗っかってきた。 「茶々―…。お前のご主人様はまるで王様だねぇ」  雅貴が王様なら、自分だってお姫様気分を味わわせてもらいたいものだ。  目の高さになった雅貴の寝顔を見つめる。  男の人の寝顔って、こんなにかわいいものなのだろうか。  起きてる時とは別人みたいな、天使の寝顔。あの意地悪なツリ目も、シニカルに笑う口元も、今は無邪気に無防備に、あたしの目の前にある。  <…でもね>  かわいいからって、許しておけるほど懐は大きくない。  雅貴の顔に、なんの躊躇いもなく茶々を乗せた。 「………ひ、よ、~~~てめぇ…」  安定が悪くて、茶々が爪を出す。その爪先は、当然雅貴の頬やら額にひっかかるのであって。  雅貴は唸りながら茶々をどけ、物凄い剣幕であたしを睨んできた。 「上等だ。お前、ちょっとここ座れ」  上半身を起こして、隣りの空いたスペースを手で叩く。  異様にドスがきいていてびっくりしたが、ここで怯むあたしではない。 「いや。人の家に来て、勝手に寝る雅貴が悪いんだもん。ここは雅貴のおうちじゃないんだよ?」 「お前、俺が今朝一体何時に起きたと思ってるんだ」 「どうせ10時とか11時なんでしょ、偉そうに言わないの」  あたしの一言に、雅貴がぐ、と口をつむぐ。  この最強低血圧男は、そこだけ突っ込まれると弱い。それに最近気付いた。 「…そんなに仕事忙しいの?」  土日を睡眠に費やしてしまうほど。  あたしの質問に、雅貴が驚いたように顔を上げた。 「―――心配してくれてんの?」 「…。そうよ。悪い? あたしだって人の子だもの。雅貴と違って」 「日和。お前はな、一言多いんだよ、ヒ・ト・コ・ト!」  言いざま、腕を引っ張られたかと思うと、あっという間にベッドに押し倒された。  ぎし、とひときわ大きくベッドが軋んだ。思わず壊れるかと思うほど、大きな音。 「…ここでセックスしたら、ベッド壊れるかな」  あたしに馬乗りになった雅貴が、ぽつりと呟いた。  突然雅貴の考えていることを理解して、一瞬頬が熱くなる。 「―――こっ、壊れると思うならやめといた方がいいよ」  あさっての方向を向いていた雅貴の視線が、真下のあたしに合わされる。 「だよな。激しい方が日和はお好みだからな」 「~~~ヒトコト多いのは雅貴だよ、雅貴!!」  ますます顔を赤くしたあたしに、雅貴のキスが落ちてくる。ケンカ腰の口調とは裏腹の、驚くくらい優しいキス。  <…卑怯だわ、この男…>  雅貴は、アメとムチの使い方を完璧に心得ている。  数秒のキスで、すっかりトゲが抜き去られた気がする。 「…何作ってんの、お昼」  しかし口調は、さっきと同じままの雅貴。 「…へ? …野菜のリゾット」  じゃあ後で温めなおせるな。と、茶々をベッドからそっと下ろしてやりながら雅貴が呟く。 「…ちょっと。雅貴」  反抗するように睨んでみるが、反対にマジメな視線で返された。 「まだ抵抗する気?」  いったいこの男、どこまで王様なんだか。  ―――数十分後。 「壊れたね」 「…………」  ベッドの右上の脚の付け根を触って、あたしは言った。  かすかではあるが、歪んでいる。本来まっすぐであるはずの脚が。 「…一応気をつけたはずなんだけど」  セミヌードの雅貴が、隣りにしゃがみ込んで後ろ頭をかいた。 「どこが? もっとゆっくりって言っても聞いてなかったでしょ!」 「それがベッドのことについてだって、誰が思うんだよ」 「する前に言ってたでしょうが、雅貴のばかー!」  信じられない。ベッドが壊れたなんて、しかもHして壊れたなんて、死んでも人に言いたくない。  <あ…ありえない…っ>  そりゃシングルベッドで、デザインも可愛さ安さ重視で、壊れやすいベッドだったかもしれない。  だけど、壊す理由がよりにもよって。  頭を抱えるほど恥ずかしくなって、あたしは唸った。 「…買ってやるからそんなに落ち込むなよ」 「……うう」 「言っただろ? 出張先フランスなんだ。いい感じのインテリアショップ探して、新しいの買ってやるよ。悪かった、ちょっと調子に乗ったよ」  やけに優しい雅貴の言葉に、あたしは感動するより違和感を覚えた。 「…本気で?」 「本気だよ。ただし買うとしたらダブルベッドだけど」 「は? なんでよ、こんな狭い部屋に置けるわけないでしょ。せめてセミダブルにしてよ」 「いいんだよ。のちのちもっと広い部屋に置くことになるんだから」  あたしは再び、ぽかんとした。  なんだその妙な自信は?  <…広い部屋…>  自分の思いついた推測に、どくりと胸が鳴った。まさか。…そういう、こと? 「そのうち俺が今より広い部屋に引っ越した暁には、そのベッドは頂くから」 「…………」  ああ、思い出した。うっかり忘れていた。  この男は、こういう男だった。  あたしが期待する言葉を、一度だってくれたことはないのだ。例に漏れず。  <あーぁ。…恋なんてクソだわ>  いつか雅貴と一緒にダブルベッドのある部屋で暮らしている、という想像をした自分。  <なんであたしこんな男が好きなんだろ>  こんなに低血圧でマイペースで傍若無人で自分勝手な男のくせに。  寝顔が天使じゃなくても、キスが別人のように優しくなくても、好きだと言えると思う。  だから、恋なんてクソ。 「…言っておくけど、ベッドは渡さないわよ」  ちら、と雅貴を見ると、膝に肘をついていた彼が、ぱちくりと瞳をしばたたかせた。 「貰ったものは、あたしのものだもの」  言った後に気付いたが、相当拗ねた口調。 「…。あーそう。…じゃあ、日和ごと持ち込むしかないな」  あたしは物じゃない、と思ったが、悔しいことに嬉しさの方が勝ってしまった。 「…お腹すいた。リゾット温めてきて」  あたしの口が奇妙に歪んでいたのに、雅貴も気付いたかもしれない。  雅貴は言い返すことなく、ぽん、とあたしの頭を軽く叩いてキッチンへと歩いていった。  <ああ。ほんとに>  いつになったら主導権を握れるのだか。
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