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<失敗した…>
欠員が出たとかで強引に借り出されたコンパの帰りだった。
なんでよりにもよってコンパなどに出かけてしまったのだろう。一緒に出てた麻里絵の家に泊めてもらえばよかったと心底後悔した。
終電の静かな車両の中に、ぽつぽつと間隔をあけて座っているサラリーマンが数人。こちらを見ているわけでもないのに、腕に鳥肌が立った。昼間はすっかりその時の恐怖など忘れていたけど、こうしてまた一人で電車に乗ると、いやでも思い出してしまう。今朝の、あの手の甲の感触。
携帯の時計を見ると、発車まであと3分。3分待つのも耐えられそうにないのに、降りる駅までもつだろうか。いやこの際本当に麻里絵の家に泊めてもらおうか。そんなことを考えていると、いきなり一人分向こうのシートに座っていたサラリーマンが、がくっとあたしの方に倒れてきた。
<ひぃっ!>
驚いて半身のけぞったあたしの前で、男がのろのろと体を元に戻した。眠っていたらしい。シートに座りなおして、ぼんやりとした目つきで向こうを見、こちらを見た。目が合った。
「「あ」」
男の低い声と、あたしの高い声が重なる。
隣りに座っていたのは、朝あたしを痴漢から助けてくれた気まぐれ男であった。
「…あんた…昨日の」
男は寝ぼけているらしい。今朝のことをもう昨日のことだと思い込んでいる。
「…。あの、今朝はお世話になりました」
「…あんなのに遭ってまだよく電車に乗れるな」
寝起きのダミ声で男が呟く。イラッとして男を振り向くと、ネクタイをやや手荒に緩めているところだった。顎を突き出して、めんどくさそうに眉を寄せて。相当疲れているらしい。
「…あたしだって好きで乗ってるわけじゃないです」
「ふーん。まぁ、俺にはどうでもいいけど」
この男、相手をカチンとさせる天才ではないだろうか。
あたしがムカムカしているのにも気付かない様子で、男はまた目を閉じて腕組みをして、居眠りの体勢に入る。
<…こんなので社会出て働けるの?>
思いっきり白い目でじろじろ見つめてやると、寝たはずの男がゆっくりとこちらを向いた。
「…まだなにか?」
「…。別に。助けてもらったお礼でもって思ってたけど、いらないようですし」
もうどうでもいいです。
同じように答えてやると、男は嫌味を言われたこともわかっていない様子であっそ、と返してきた。
<こっ…こいつ>
本気で苛立っている自分が、思いっきり空回りしている。
「メシ食った?」
ゆるゆるのネクタイを、男がしゅるり、とはずした。言われた意味がわからなくて、あたしはきょとんとする。
「え?」
今のはつまり、ご飯のお誘いなのか、ただ単に食べたかどうか訊いているだけなのか。
「俺まだなの。時間が許すならどう?」
ますます答えに窮した。
この男いったい、何を考えているのだろう。このお手軽さは一体、何なのだ。あたしとこの男は、今朝出会ったばかりで、助けられた人と助けた人という関係だ。なんでこんな十年来の幼なじみみたいな口調で誘われなくてはならないのだろう。
「…あの」
「忙しい? まぁ気が向いたらでいいんだけど」
だからその態度はいったい。
「…いえ、大丈夫です」
断ってもなんら害はなかったはずなのに。気がつけばOKしてしまっていた。
その男―――結局名前はあたしが尋ねるまで教えてくれなかった―――田嶋雅貴は、あたしのマンションがある駅で降りて、駅前にあるダイニングバーに寄った。深夜までやっている創作和食のバーで、内装もバーというより小料理屋といった感じの店。
あたしは料理が結構好きで、和食だったら家でもよく作るからこういう店には入らない。田嶋さんに『和食好きなんですか?』と訊くと、これまたおなじみの返事。
「別に。一番駅から近かったから」
「…。終電いいんですか?」
「タクシー拾うから平気。ここからだったらそうかからないし」
意外にもご近所さんらしい。
深夜なのに疲れた様子は少しもないシェフが、温かい笑顔で座敷を案内してくれた。畳に座ると、田嶋さんは飲んだくれたオヤジみたいに変なため息をこぼした。
<…この人って…>
さっきから考えの読めない男だと思って観察していたけど、実は違うかもしれない。
考えを読まれるほど何も考えていないんじゃないだろうか。
こういうサラリーマンにとって、あたしみたいな子は興味のうちに入らないらしい。だって特別な好意はないにしても、少しくらいかっこつけようとか、そういう意識はあってもいいと思うから。
ネクタイをはずしてシャツのボタンを2つ開けた襟元から、鎖骨が見える。薄く筋肉のついた胸板も、見える。
<…あたし何考えてるんだ?>
「女子大生?」
一人で店に入った風だった田嶋さんが、思い出したように向かいのあたしに声をかけた。
「え? うん。2年生」
「は? 2年? てことは…ハタチ?」
「うん。田嶋さんは?」
「俺は25。へぇー、ハタチ。ふーん」
あたしの年齢に何を思っているのか。突然興味を示されて動機が少し狂った。
「見えないね。ハタチに」
「え、見えないですか」
「うん。もっと若いのかと思った」
それって褒め言葉なんだろうか。この人に言われると、嫌味に聞こえてしまうのだけど。
「いいね女子大生。遊び放題だろ」
俺も遊び狂ってたなぁ、と懐かしそうに笑うのを見て、視線が彼から放せなくなっていることに気付いた。
<…この人、よく見ると…>
性格があまりにも強烈だったから気付かなかったけど、実は物凄く端正な顔をしているかもしれない。今は眠そうに半目でぼんやりしてて、モサい男を装っているけど。
とにかく目がすごく印象的だ。我が道を行ってるって感じで、屈辱を知らない強い瞳。
スーツも髪型も、多分本人は何気なく選んでいるのだろうけど、本能で自分を良く見せる方法を心得ているというか。天然のモテ男なんだろうな、と思った。
「田嶋さん、このへんの会社に勤めてるんですか」
「んーいや。今日はたまたまクライアントの事務所がこっちにあったから。いつもは渋谷」
出てきたビールを半分ほど飲んで、田嶋さんは答えた。
「飲む?」
勧められて、あたしは笑ってやんわりと辞退した。
そういえばさっきまで、コンパで千鳥足になるまで飲んでいたところだった。
「…いっつもこんなに遅いんですか? 朝あんなに早いのに」
「遅いなぁ。平日はいつもこんな感じ。家帰ったら何する気にもなんないね」
彼女いないのかな、とふと思う。もしかして都合のいい彼女とかいるのかもしれない。
「彼女とか大変ですね、じゃあ」
「彼女? ここ2年ほどいないけど。作る暇なんてないよ」
ああやっぱり、と思った。こういう人には、本命の彼女より気軽に遊べる女の方がいいんだ。
<…世界が違うなぁ>
小さいコップに注がれたオレンジジュースを飲みながら、あたしは少し寂しくなってしまった。
「日和ちゃんは彼氏は?」
「え? あ、いや、いないです」
社交辞令で聞き返されただけなのに、妙に嬉しかった。
ふと、田嶋さんがあたしの顔を凝視する。
「付き合おっか」
手に持っていたコップが、テーブルに落ちて軽い落下音をたてた。
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