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#1. SIDE : Masaki
25.Dec.――p.m.17 : 01.
仕事と恋人を天秤にかける男は、馬鹿だ。
眼前にBMW、対向車線にジャガー、その後ろに続くのはメルセデス。
高級車の見世物市か、と助手席のシートに体をもたせかけて、俺は心の中で一人ごちた。
「なかなか進みませんねぇ」
ステアリングに両腕をだらしなく預けた河内が、目の前30メートル先の青信号を見やってため息をつく。
青信号だ。
目の前の信号は青なのに、かれこれ10分は同じ場所で、同じ配置で、高級車を見渡している。
これならわざわざ河内の迎えなど待たず、電車に乗った方が断然早かったに違いない。今更そんなことを考えてもし ょうがないのは百も承知だが。
信号の手前に立つ電光掲示板には、『この先渋谷方面渋滞5キロ』と表示されている。数字で見れば大したことないが、 実際渋滞の波に乗ると最早5キロどころの騒ぎではない。隣りの車線を進む車の運転手の顔だけでなく服の色柄までしっか りと覚えてしまえるほど、遅々としている。
そしてなぜか四方八方を外国産高級車ばかりが自分達の乗る銀色のプリウスを囲む。ただそこに停まっているだけで濃 厚な威圧感を発する車なのに、四方を囲まれては息苦しいことこの上ない。
「あ、田嶋さん、舌打ちは止めてくださいよ。僕のせいじゃないんですからね」
耳ざとく聞きとめた河内に、更に舌打ちをしたい気分になった。
「るっせぇな。黙ってハンドル握ってろ」
ジャガーの運転手がちらりとこちらに視線をくれた。やけに白い肌に無精ヒゲが目立った顎。
「…た、田嶋さん、もうちょっと小さい声で」
河内もそれに気付いたようで、恐ろしく小さな声でたしなめてきた。
「だからうるさいって。心配しなくてももうしゃべらねぇよ」
12月もあと少しだと言うのに、ジャガーを運転する男は窓を全開にしている。どういう神経してんだ、と思いながらも、 煙草を吸うためとはいえ同じように全開にしている立場として、そうバカにはできない。最後の一口を吸い終えると、携帯灰皿 に吸殻を押し込んで窓を閉めた。
外回りを終えてさあ帰ろうか、と駅へ向かっていた俺の携帯に、河内の情けない声で『田嶋さんトラブル発生です~』と いう電話がかかってきたのが、約1時間半前。
取引先の新商品展示会のパビリオン設計中に、ちょっとした事故があったという。河内も俺も直接担当では ないが、休日出勤をしているうちで社内にいるメンバーに手すきの人間がいないからと、出張ついでに強引にヘルプとして駆り出されたのだが。
もしまっすぐ社に戻ってもすぐには帰れない。課長に言われた起案を2つ修正しなければならない。期限は 来週の火曜日。3つほどの部を巻き込んだ大きなプロジェクトだから、月曜朝までには修正をし終えていなければ火曜日までに決裁できない。 ―――と、いう事は。
<こうして残業代が増えていくってわけだ>
使う時間は削られていく一方なのに。
火曜日は仕事納めだ。本当に俺は、無事水曜日から休みをもらえるんだろうか。
お客様ありきの職業だ。顧客のトラブル時に完璧なフォローが出来てこそ、社の信頼も個人の実績も固めることが出来る。
決して、トラブルありきの職業ではない、はずだ。
「河内、ファイルに目は通してあるんだろうな」
時速5キロほどの速さで進み始めた車窓の風景に目をやりながら尋ねる。投げやりな口調は、自分でも分かった。
「…なんですか田嶋さん。僕に全てフォローしろってことですか」
「当たり前だろ。俺はさっき当たってた先の案件の方が重要」
「ちょっと待って下さいよ、イブまで仕事で潰れたからって僕に当たらないで下さいよ」
目の前のBMWが急ブレーキをかけ、咄嗟に河内もブレーキを強く踏んだ。かくん、とまるで人形のように、引力 に忠実に前のめりになる。
―――イブまで仕事で潰れたからって。
<上等じゃねぇか、この野郎>
組んでいた腕が、あと少しで河内の左頬にエルボーを食らわすところだった。
「危ねぇな」
「す、すみません」
「後ろのゲレンデバーゲンが追突してきたらどうすんだお前」
「えぇっ、ベベ、ベンツだったんすか後ろっ」
「気付くの遅ぇよ。ったく、なんだこの通りは。間違っても掠るなよ。俺は責任取らないからな」
ちょっと田嶋さぁん、と情けない声で泣きつく河内を無視して、徐々に流れ始めた対向車線に目をやった。窓の 外は次第に暗くなり始めている。
俺は夕方が一日のうちで一番嫌いだ。一日が終わっていく象徴なんかが好きであってたまるか。特にこんな無意味な時 間を持て余している時に見る夕日ほど、切なくなるものはない。仕事に追われて気が付けば夜、そういう日の暮れ方の方 がまだ心地いい。
<…クッソ>
昨日からストレスを引きずっている。いつもなら噛み殺せる苛立ちが、今日はなかなか収まらない。
右を向けば河内に毒舌を振るいそうで、俺は無理やり窓の外を眺めた。
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