[番外編]Fortune Cookie

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  #2  SIDE : Hina    26. Dec. ――p.m.15 : 38.  いい女って、一人の時間の活用方法が上手いと思う。  濡れた雑巾で拭いてから新聞紙で乾拭きをした窓は、塵や埃の一つもついていない。  ピカピカになったベランダの窓ガラス越しに、昼過ぎの冬空を見上げる。色の曖昧な空に浮かぶ雲はどれも凍えたように動かなくて、じっと見ているうちに額をガラスにぶつけてしまった。鈍い音がしなければ、一瞬何に額をぶつけたかわからないくらい、ガラスは透明に磨きあがっている。 「いたた…うん、窓ガラスオッケー」  乗車完了を確認する駅員のように、わざとガラスを指差して呟く。  いつもならここで入る笑い混じりのツッコミが、今日はない。ふと後ろを振り返り、また窓の外を見た。  つけっぱなしにしているテレビの音が、小波のようにリビングを漂う。  今年ブレイクした芸人たちが勢ぞろいして、会場を何度も沸かせている。テレビは特番ばかりを流していて、合間のCMもかくし芸大会や駅伝の宣伝ばかり。  日常ではないのだと、ふいに思う。  あと5日で、今年が終わるのだ。  なのにあと5日、あたしは一人でいなければならない。  <…ただの出張と思えばいいんだから>  1週間の長期出張なら、過去に何度かあった。ただし、その時と今とで確実に違うこと。  彼が、日本にいないということ。  <…今、夜になったくらいかな>  ごち、と、無いように見えるガラスに額を当て、バルコニーに転がるサンダルを見下ろす。あたしのサンダルと、もう一つ男物のサンダル。秋口にお揃いで買って、二人でバルコニーに出てお月見をしたことを思い出した。日の出も見れるから、来年の初日の出もここから見ようと約束したっけ。  一つ一つを確認しないと、落ち着けない。  彼は今頃何をしているんだろう。  地球の反対側で。  晃平の年末海外出張は、ほとんど仕事ではなかった。  同じ教科担当の住吉先生に偶然誘われた、言わば自主研修のようなもの。あたしが通う高校の付属大学と提携を結んでいるアメリカの大学を、一週間弱ほどをかけて回るのだそうだ。  住吉先生と晃平のほかに、大学の方から事務局次長だとか学部長だかも同行しているけど、その人達は向こうではほとんど別行動で、晃平は住吉先生と二人で2つの大学を回った後、ニューヨークに泊まって帰ってくるという。  晃平が社会人で、大人で、れっきとした英語教師だということを、改めて実感した。  海外旅行用の大き目のトランクにスーツやセーターを詰めている晃平をこっそりと盗み見ながら、本当に一週間で帰ってくるんだろうかなんて思った。  どこか遠くへ、あたしの想像もつかないほど遠くへ行ったまま、もう帰ってこないんじゃないか。  あることさえ知らなかった大きなトランクが、晃平をあたしの知らないところへ連れて行ってしまうような気がした。さすがに口には出来なくて、我慢すると余計に不安になった。  晃平は、そんなあたしの心境に気付いていたんだろうか。  ―――パソコン開いてて。大学のネットカフェでパソコン借りてメール送るから。  嬉しかったけど、一人でいると立っていられないかのような自分自身が、少しだけ嫌だった。  だから、パソコンは開いてても、そればかりを待つことだけはしないでいようと思った。寂しさから逃れようとする自分にだけはならないでいよう、と。  昨日の夕方、開いていたパソコンがメールを受信した。  玄関脇に飾っていたミニツリーを箱に片付けている時だった。  ホテルにパソコンを繋げる所があったらしい。メールは『さっきホテルに到着して、これから住谷先生と食事に出かけます』って内容だった。あたしはそれを何度も読み返したのに、結局すぐには返信しなかった。できなかった、と言った方が正しいかもしれない。  あたしはなぜか、一旦しまいかけた白と薄いブルーのファイバーツリーをもう一度取り出した。冬の妖精の寝息のように、穏やかに明滅を繰り返すツリーをぼんやりと眺めた。  寝る前にもう一度メールが来て、やっと短い返信を打てた。  長距離移動お疲れさま。そっちは寒い? ちゃんと厚着して出かけてね。
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