[番外編]Fortune Cookie

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 丸一日一人の日曜日、という状況は果たしていつぶりだっただろうか。  今年の夏に、さっきの夏子より遥かに手のかかる女と出会って以来、人生で最も貴重だった週末の時間は毎週彼女のものとなった。それを勿体ないと思わなかった自分が、今になって不思議でしょうがない。  こんなに一人は自由で気儘だというのに。  平日は外食ばかりだから、週末は無性に家でご飯が食べたくなる。そう、あいつの手料理が食べたいわけじゃなくて、単に家でメシが食べたいだけ。そう言い聞かせて財布片手にスーパーへ繰り出した。  久しく足を運んでいなかったために、野菜や魚の鮮度を見極めているうちに疲れた。もうこのまま野菜とルーだけ買って、手っ取り早くカレーにでもしようと思った。  <あいつは今頃何やってんだろ>  ふと、そんなことを考え、すぐ後で、スノボに決まってんだろ、と思い直して頭から追い出す。  ―――明日から群馬の方まで合宿に行ってくる。  大学の友達に誘われたのだ、と、24日の夜に電話で聞いた。スノボサークルに入ってる友達にスノボ未経験だと言ったら、しつこく誘ってきたのだと。  何日までなのかと聞くと、29日には帰ってくるから、と答えた。少し違和感を覚えたので、もう一度同じ質問を繰り返すと、元旦までと答えた。年末のカウントダウンも合宿のメニューに含まれているらしい。この時期に組む合宿だ、それが普通だろう。しかし日和はそれには参加しないつもりでいるという。  ―――途中で帰らなくても最後まで参加してくりゃいいじゃん。  クリスマスイブもクリスマスも、全く構ってやれなかった俺に気を遣っていると思ったから、出てきた言葉だった。  結果、日和を傷つけた。  だが、昨日の夕方まで日和の機嫌を気にしていた自分がバカらしくなった。  今更戻って来いなど、言えるわけがない。言いたくもない。  日和を思い出そうとすれば、隣の運転席に座っていた白ニット帽の男の顔が先に浮かぶ。無論、メールや電話などしたいと思うはずもなかった。  がさがさっ、と音がして横を振り向くと、隣りのパスタの陳列棚に雪崩が起きていた。 「ひぇぇっ」  情けない声を出した細身の女が、雪崩を起こした犯人らしい。買い物カゴには、普段食べないような食材がちらほらと見受けられた。おせち料理用の買い出しか。  足元に落ちてきたパスタやペンネの袋を拾い上げると、その犯人が驚いたように謝ってきた。 「あ、すみませんっ、大丈夫ですか」  一瞬耳元に春が来たのかと思うほど涼やかな声だった。いえ、と言いながら顔を見ると、思いがけず若い。  ざっくり編みの黒タートルに、細身の色落ちデニム。誰でも出来る格好のくせに、妙に洗練された印象を受けるのは、この女独自の雰囲気のせいかもしれない。  そそくさと袋を棚に戻し、女はまた自分が雪崩を起こした棚を見つめ始めた。つい凝視していると、その女がまたこちらを振り向く。あどけなさの残る仕草だった。 「あのぅ、フェットチーネってここには置いてないんですかね」  店員でもない俺にきいてどうする、と思ったが、とりあえずそれは飲み込み、 「さあ。もっと大きなスーパーに行った方が確実だと思うけど」 「そうですか…。すみません、ありがとうございます」 「おせちにパスタなんか入れんの?」  え?という顔で、女が俺を振り仰いだ。泣いてもないくせにやたらと潤んだ瞳が俺を捉える。 「あ、パスタはあたしの今日の晩御飯で…。こっちのカゴのは、練習用」 「練習用?」  あっ、と女は口に手のひらを当てた。  何の練習だろう。ということはおせちじゃないのか。 「い、いや、あの、こっちのことです。気にしないで下さい」  さらさらと揺れる髪の隙間から、真っ赤に染まった耳が覗いた。  かわいい女だと思った。屈折してなくて、純粋で、プラス外見はうちの営業部長が唸りそうなほどの美人。  気にしないでと言うので、気にしないことにした。不思議な女だ、と思いながらその場を立ち去りかけて、またズボンの中の携帯が震え始めたのに気付いた。メールだったらしく、振動はすぐに止まった。  野菜コーナーに足を向けながら携帯を開き、その送信者の名前を見て足を止めた。 『ごめん、帰るのギリギリになりそう。ほんとにごめんなさい。』  ギリギリ。要するに、31日まで帰れないということらしい。  <31日に帰してもらえるわけがねーだろが>  普通に考えて、29や30ならまだしも、いよいよ大晦日になって帰れるわけがない。それなら参加しない方がマシだ。しかも帰る言い訳をどう取り繕うつもりなのだ。  <…だから俺は最初っから>  なんだ、この、体の奥が捩れるような感覚。  ―――死んでも言わないから。  <俺だって言うか>  この今の気持ちを、死んでも言葉にするもんか。
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