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どん、という音がしてふと我に返った。
またおばさんかと思ってチラリと後ろを盗み見たが、予想外の服装が目に飛び込んできたので思わず視線を改めて見据えてしまった。
おばさんのくせに背が異様に高い。それもそのはず、それはおばさんではなくて大人の男の人だったからだ。
ハリの良さそうなライトグレーのパーカーの上に、黒のナイロンコート。袖のところにブランドロゴのおしゃれなタグが付いている。
自然とそのまま視線を上へと持ち上げる。
―――と。
「あれ、あんた」
先に声を発したのは男の方だった。
まさか声を掛けられるとは思ってなかったので、ギョッとして硬直する。
「ヘンなパスタ探してた人だろ。あれから見つかった?」
「は、あ、え」
あたしの妙な答えに、男の人が不審そうな顔をした。すぐ顔に出す人だ。それにまたややパニックになる。
「フェットチーネ。正直うどんで事足りそうな気もするけどな」
ほとんど初対面なのに、なんなんだろうこの人。
<な、馴れ馴れしい…っ>
よく言えば社交的。だけど人見知りをしてしまうあたしにしてみたら、この人のフレンドリーさにはついていけないものがある。
「お客さま、お会計よろしいですか?」
あたふたしているうちに精算が終わったらしい。黒いディスプレイに緑で3210円と表示されていた。
「あっ、すすみません」
斜め上後方から、男の人の珍獣でも観察するかのような視線を感じる。
<……。なんなんだろうこの人…>
店員に3510円を渡して、お釣りを返される間に何気なく男の人の持ってきたカゴの中を見た。2リットルの水と、あたしがまだ使いこなせないキノコ数種類と、生クリームだとかナントカペッパーだとかがラフに突っ込んである。
多分、おそらく、あたしよりもきっと料理がうまい人なんだろうという見当がついた。
そしてこの人には、大晦日もお正月も関係ないんだろうと言うことも。
「毎日来てんの、ここ」
お釣りを財布に仕舞っていると、店員にカゴを預けた男の人が訊いてくる。なんなんだろう。
<何でこの人こんなに親しげなの?>
知り合いでしたっけ、と思わずきいてしまいそうになるほど、なんの緊張感も遠慮もない口調。
「はぁ…。ほぼ、毎日ですけど」
なんの面白味もないあたしの答えに、男の人はさもどうでもいいという風に、ふぅんとだけ言った。質問の内容をすでに忘れていそうなほど、どうでもよさそうだった。
<……バカにされて…んのかな>
おばさんにナメられるのは慣れたけど、大人の男の人にバカにされるのは、まだ慣れてない。
「ここってまんべんなく色んなものが揃ってるからいいよな。フェットチーネがないのは残念だけど」
そして意外にしつこい。フェットチーネは、実は晃平がいない時に練習しようとして目をつけていたパスタだ。だけど今練習すべき料理はパスタじゃなくて、おせち料理やお雑煮なのだった。
「フェットチーネはもういいです。うどんで代用はしませんけど」
結局男の人の会計が終わるまでなんとなく会話は続き、結局一緒に袋に食品を詰め、結局一緒にスーパーを出ることになってしまった。
2リットルの水や料理用ワインが入っている袋を軽々と提げるその男の人の姿は、一見所帯染みているようで実はとんでもなく違和感がある。
歩き方が他の人と違う。歩き方なんて老若男女問わず様々だけど、スーパーをうろつくよりも、オフィス街を歩いた方がよっぽど様になる歩き方というか。
颯爽としていて、真っ直ぐと、かつ堂々と歩く。一歩一歩に自信が満ちていて、強烈な存在感がある。
かっこいい人だなと思いながら、バス停へと並んで歩くその人を見上げた。
競争心を隠さないのに殺伐としている風でもない。まるで、豹みたいな格好いい野蛮さを漂わす人。
「―――雅貴?」
雑踏に紛れて誰かを呼び止める声が耳に滑り込んできた。
それに反応したのは、隣にいたその男の人だった。
「何してんの、こんなとこで」
呼び止めた声と同じ声が近付いてくる。行きかう人の波から、一人の女の人が現れた。黒いダウンジャケットに白デニムを履いた、スレンダーな女の人。
雅貴と呼ばれた人は、最初硬直していたくせに、気がつけば無言のまま彼女を見ていた。見つめるでもなく、見据えるでもなく、ただ、「そこに在る」と認めているだけのような瞳。
「何って、見ての通りお買い物」
そう言って、提げていた袋をわずかに持ち上げる。
「そういうお前こそ何? 合宿はどうしたんだよ。怪我でもしたか」
「見ての通り、元気です。―――で、あんたはあたしがいない間に何やってるのよ」
はた、とした。あたしのことを言っているらしい。
「だから、見ての通りお買い物だって何回言えばいいわけ」
「かわいい女の子と一緒に? あたしのメールにも電話にも出ないで、そんなことしてたわけ」
「あの、ちょっと」
まずい。この状況は絶対にまずい。
「別にいいんじゃん? 俺に気を遣うなって合宿行く前言っただろ」
「ちょ、ちょっと待って下さ、」
「あっそう、わかった。―――もう好きにすれば!?」
喧嘩を売りやすい人だ。
叫ぶだけ叫んで、バス停とは反対の方向へと走って行ってしまった。
肩に掛けた大きめのスポーツバッグが、重そうに彼女の背中で揺れるのを見送りながら、男の人は苦そうな顔をして小さく舌打ちした。
「あの…、追いかけた方がいいんじゃ」
そこまで言いかけて、次の瞬間息を飲み込んだ。
「冗談じゃねーよ」
あたしに向かって吐き捨てられた言葉でもないのに萎縮しながら、こっちが冗談じゃないよ、と思った。
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