[番外編]Fortune Cookie

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     #7.  SIDE : Kohei    30. Dec. ――p.m.18 : 10.  それは誰かを酔わすための口説き文句でも、恋愛小説に出てくる常套句でもなんでもなく。  ニューヨークタイムズより読売新聞の発行部数の方が四倍ほど多いという。この狭い国のこんな狭い場所に、それほどの部数が売れるほど人がいるのかと一瞬疑うが、12月30日の夕方東京着の飛行機から降り立った瞬間、ああそうだろう、と強く思った。  どこだここは。  東京駅の中央改札口前の広場で、トランクを片手にとうとう立ち尽くしてしまった。 「じゃあ天宮先生、私はタクシーで帰るけど君はどうする」  自分の親よりも年上の住谷先生は、どれだけ人混みが息苦しかろうとやはり母国の方が落ち着くらしい。360度人の顔で溢れたコンコースを、トランクを引きずって歩いていく。 「私はJRで帰ります」 「そうか。じゃあここでお別れだな。長旅お疲れさま」 「お疲れ様でした。帰り道、お気をつけて」  軽く頭を下げると、住谷先生は長旅で疲労した顔をにこやかに微笑ませる。 「君も気をつけて帰りなさい。良い年をな」 「住谷先生も」  良いお年を、と続けようとして、すぐ目の前を横切った二人連れに言葉を阻まれた。言い直そうとする間に、住谷先生は片手を挙げて歩いて行ってしまった。  先生が誰にもぶつからず器用に改札を抜けていく姿を見送ってから、トランクを持ち直して歩き出す。一旦改札を出て、丸ビル方面へ歩いた。去年の暮れに新しく出来たばかりの商業ビルのエントランスで待ち合わせをしている。この混雑振りだと見つけるのが大変そうだが、必ず見つける自信はある。  数十メートルほどのけやき並木の一本一本に、道を照らすオレンジの電飾がぽつぽつと灯っていた。  一週間ぶりに会うひなは、2つ並んだエレベーターから少し離れた場所に立って人の波を眺めていた。  白いコートにベージュのブーツ。全身明るめの色を着ているせいか、周囲から心なしか際立って見える。コートの襟についているファーに華奢な顎を半分埋もれさせ、つま先をきちんと揃えて立っていた。そのかわいらしい立ち姿を遠くからしみじみと見つめていたいと思う自分に、バカか俺は、と苦笑しながら彼女に歩み寄る。  トランクのコマの音で、ひなは俺に気付いた。  ゆっくりと笑顔を作っていくのを見つめて、自分もまた笑っていることを自覚する。久々に会って頬が緩みっぱなしという事態だけは避けようと、ある程度自粛しながらひなの正面に立った。 「ただいま、ひな」 「おかえり、晃平」  久しぶりの会話。久しぶりのひなの笑顔。  思わず抱き締めたくなったが、人の往来が激しくて立ち尽くしていると人にぶつかりそうになる場所だということを思い出し、なんとか欲望を押し留める。 「疲れた? 荷物半分持つよ」  と、左手に下げていた厚めのビニール袋にひなが手を伸ばしてきた。 「いやいいよ。これお酒だから見た目よりも重いんだ」 「お酒? お土産?」 「そう。千造さんワイン飲めたかな? 志緒さんが好きなのは知ってるんだけど」 「うん、飲めるよ。基本的にアルコールならテキーラでもへっちゃらな人だから」 「そうだっけ。テキーラはさすがに心臓に悪いだろ。売ってはいたけど」 「それおじいちゃんに言っちゃ駄目だよ。もう一回行って買って来いって言われちゃうよ」 「わかった。言わないでおく」  真面目に頷いた俺を見て、ひながくすくすと笑った。その鼻先が少しだけ赤いのに気付いた。  建物の入り口と言えど、さすがにエレベーターの近くには暖房も効いていて温かい。トランクの取っ手にビニール袋を引っ掛け、空いた左手でひなの右手を掬う。細い指先からじわじわと冷たさが伝わってきた。冷え性でもないひなの手が冷たいのは珍しい。  もしかして、外でも待っていたんだろうか。  <…かわいいなぁ>  本気で頬に力を入れて自粛しないといけないようだ。  待ち合わせをしたビルにレストランがいくつか入っていたので、俺たちはそこで夕ご飯を食べて帰ることにした。時間帯も時間帯なのでどこも満席だったが、運良く20分ほど待つとすんなり窓際の席に落ち着けた。 「疲れたでしょ、大丈夫?」 「ん。ちょっと時差ボケがあるけど、平気だよ。ひなの顔見たら目が覚めた」 「あ、あのね…どんな顔してるのよ、あたしは」 「ただ明日の朝は昼まで寝かせて欲しいかな」 「あ、うんもちろん。大掃除も終わってるから、静かに寝れるよ」 「じゃあひなも一緒に寝よう」  うん、と首を縦に振りかけて、慌てて「いやいや」と横に振るひなを見て苦笑する。 「おせち作らなきゃ。ちっちゃいけど重箱もお母さんが持って来てくれて、材料も買い込んであるの」 「オセチ…」  あまり現実味の湧かない言葉を小さく呟いた俺に、ひなが大きく頷いた。  実はひなと結婚するまで、ここ十年ほど実家で年末年始を過ごしたことがなかった。  中学・高校とも当時よくつるんでいた仲の良い友人同士で誰かの家に集まっていた。大学に入って下宿を始めてからは、実家に帰ることはあっても、泊まっていくということがほとんどなかった。年末に昼間顔を出し、その後正月気分も抜けきってからようやく実家に落ち着くという始末だった。特別、家族と仲が悪いとかそういうことじゃない。高校以来「放蕩息子」の肩書きを両親に付けられてから、それが普通だった。自然、家庭で食べるおせち料理にも、疎遠だった。  それを考え出すと、ひなと結婚してからというもの、家族で過ごすべき祝日やら行事を一つ一つ大切に過ごしてきていることに気付く。それは何よりも嬉しいことだ。 「楽しみにしてるよ。自信作」 「うん。…適度に期待しててね」 「ものすごーく期待してる」 「もう! プレッシャー掛けないでよぉ」  顔をくしゃくしゃにして二の腕をはたかれる。その時ふわりと香水の匂いが鼻先に漂ってきた。俺が今年のクリスマスにプレゼントした香水だ。あまり匂いを主張しない、だけどその狭いテリトリーに入った途端離れられなくなりそうな香り。甘さと爽やかさだけじゃない、どこかミステリアスな花の香り。  香りをまとうだけで、やたらと大人びて見えるのはなぜなのか。  匂いだけで動悸が狂ってしまった自分に、少し驚いた。 「ひな」  悔し紛れに小さく名前を呼んで顔を近付かせる。その形のいい耳に、ひなを更に動揺させることを囁いた。 「帰ったら速攻で抱かせて」  自分でも大人気ないと思ったから、赤面したひなの顔は見なかった。
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