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ブッ
「………。雅貴。―――お前、いい度胸してるな」
どこから飛んできたのか想像もしたくない茶色の飛沫が手元に降りかかった。
サービスコーナーで手を洗い、紙ナプキンで拭ってから席に戻ると、雅貴は見てはいけないものでも目撃したかのような表情でこちらを凝視していた。
「―――俺、今まで天宮さんほど出来た人間はいないって思ってたけど、やっぱり天宮さんも犯罪の一つや二つ犯してるんですね、―――って痛ってぇ!!」
俺に踏みつけられた足を庇うような格好で、珍しく情けない声を発する雅貴を見下ろしながら、
「まだちょっと若いけど、そこらの女よりは遥かに上等な女だよ。俺にはもったいないくらいの」
何を言い出すんだとでも言いたげな目で見上げられたが、それもちょっとの間で、すぐに考え込むような顔つきになって姿勢を正した。
「…まぁ、将来が楽しみなような、怖いような、そんな感じの子ではありましたけどね」
「お世辞なら別にいらないぞ。お前らしくもない」
「いやほんとに。お世辞なんか言う性格じゃないってわかってるんでしょ、天宮さん」
「それはどうも。そうやって素直になればいいのに。彼女の前でも」
真面目な顔をしていた雅貴が、突如不機嫌そうに顔をしかめた。
「…それ、その自慢の奥さんから聞いたんですか」
「まあな。俺の後輩だって知らないで心配してたぞ。心配というか、反省というか」
「反省? なにを」
本気で聞き返してくるあたり、さすが雅貴と言うべきか。思わず苦笑がこぼれる。
「これから出かけるって、彼女とはもう仲直りしたのか?」
俺がこんな日に突然呼びつけた理由が、なんとなくわかったらしい。雅貴は不機嫌な顔を直さないまま背もたれにもたれた。コートのポケットに手を突っ込み煙草の箱を取り出しかけたが、ここが禁煙だということを思い出したのか、またポケットの中にしまった。
「天宮さんには関係ないじゃないですか?」
「素直じゃないねえ、相変わらず」
「素直とかそういう問題じゃなくて。なに、ベタ惚れの奥さんに頼まれでもしたんですか?」
「いや別に。かわいい後輩に年末の挨拶をしとかないとなって思っただけ」
不遜な態度でコーヒーを飲んでいた雅貴が、また気管にコーヒーを詰まらせたらしい。ぶほっと嫌なむせ方をしたが、今度はテーブルに被害が及んだだけであった。
「……相変わらずですね……」
口元をゴシゴシとナプキンで拭いながら恨めしそうに呟く雅貴を笑顔で受け止める。
「黒崎経由で聞いてるぞ。お前、今年の夏ごろから極端に仲間付き合いが減ったそうじゃないか。土日誘っても絶対電話に出ないし、何してるかも全くわからんって。女といるにしろ、それを理由に電話に出ないような奴じゃなかっただろ。セックスの途中でもメールするような奴だったお前が」
「―――もういい、わかった天宮さん」
切羽詰った声でストップをかけられ、俺はすんなり口を閉じた。
「…俺、そろそろ待ち合わせの時間が」
「雅貴くん、尊敬する先輩に向かってその態度はなんだ?」
腰を浮かしかけた雅貴が、またもや恨めしそうに俺を睨み、不満タラタラの顔でイスに座りなおした。
「…。これから会うのは会社の同僚ですよ。忘年会に顔出さなかったから謝りに」
「へえ。お前が『謝りに』。ふうん」
「…………」
雅貴の今の顔は、行儀の悪い子供が言い訳を必至で考えている顔だ。
堪え切れなくて俺はとうとう吹き出した。
「…―――後で何言われてもいいから来るんじゃなかった」
心底悔しそうに呟くので、そろそろ解放してやることにした。
「雅貴、お前にいいものやるよ。アメリカみやげ」
石のように黙りこくっている雅貴の前に、ポケットから取り出したキャンディー大の大きさの包みを2、3個置いた。
「アメリカ?」
「いいか、電車に乗る前に食べろよ。賞味期限が怪しいからな」
「あ? ―――ちょっと、天宮さ、」
気の強そうな眉をひねって見上げてくる雅貴に有無を言わせない笑顔を向けると、俺はそのまま席を立つ。
スターバックスと隣接するスーパーの駐車場に向かいながら、しみじみと思った。
あの雅貴を振り回す彼女こそ、本当の最強なんじゃないかと。
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