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今までこんな風に思いつきで女の人を引っ掛けてきたんだろうな。
ドリンク代だけでも払う、と言ったあたしを背中で拒否して、田嶋さんはレジで会計を済ませてしまった。あたしの目の高さに、田嶋さんの肩甲骨がある。薄いYシャツの上から少しだけ浮いて見えた。
<…怒ってるのかな>
こんな時間のご飯の誘いで、お酒も飲んで、しかもただの男と女で。
普通そういう流れになるって、思うかもしれない。誘った時にそんな感情はなくても、酔っていい気分になってしまえば。
<なんでOKしちゃったんだろ>
今朝のお礼のためだけなら、怒ったっていいところだ。何このセクハラ男、って。こんな、頭の中が「どうしよう」で埋め尽くされるなんてことは、まずない。
あたしが何でも本気で受け止めすぎなんだろうか。いつだったか、何にでも深刻になる女は重い、って誰かが言っていた。彼にとって、あたしは重かったんだろうか。
ごめんなさいと謝ろうとして引き止めると、彼は「タクシー代払ってくれるの?」と冗談を言った。払わせるつもりもないのに、そんなことを言われてなんだか泣きそうになった。
生温かい湿気が、ぬるりと空気に触れている肌を撫でる。
「…。―――どこに住んでるんですか?」
本当に払ってやろうと思って、なかばやけくそで訊いた。すると田嶋さんは、疲れて掠れた声で素っ気なく答えた。
「品川」
しながわ、と頭の中で呟いてから、思いもかけない地名だったことに半瞬遅れて気付いた。
「だ、―――え!? さっき田嶋さん、ここから近いって…っ」
てっきりこのあたりの、せいぜい隣り駅くらいの距離なんだろうと勝手に思っていた。品川なんて使う路線も違うし車でだってどのくらいかかるのか全く知らない。
どうしよう、と本気でうろたえていると、田嶋さんの方が困ったように続けた。
「…嘘だよ。冗談」
さらりと言われて、なにが冗談なのかわからなくなる。
「嘘? どっちが?」
品川と答えたのが冗談なのか、この近くに住んでると言ったのが冗談なのか。だけど田嶋さんは。
「それは日和の判断に任せるよ」
そう、言ったけれど。
限界まで疲れて挙句酒の入った頭で、嘘をつける余裕なんてあるんだろうかと思う。今のは嘘をついていたのを忘れてしまって、つい本当のことを言ってしまったという感じがした。
なんのために、彼は家が近いなんて嘘をついたのだろう。あたしにバレないようについた嘘の意味は?
「さ、さっきの、―――冗談だったんですか?」
また同じ事をきいた。でも今度は田嶋さんの言葉を疑ったからじゃない。確かめたかったから。
でもまた違う言葉ではぐらかされただけだった。
それはもう、店の中で言ったようなことは思ってないってことなのかもしれない。さっき田嶋さんは、気が向いたからと言った。「その気」はもう、とうになくなってしまったようだ。あたしがいちいち真に受けて真剣に答えようとしているうちに。
<ああ…あたしってほんと、冗談通じない女だ…>
冗談が巧くかわせるようになったからって、大人の女になれるとは限らないけど。
どう言っても彼の顔は不機嫌なままなので、もうどこかへ早く消え入りたかった。面倒くさそうに名刺を渡されても、ちっとも嬉しくなかった。
「とりあえず俺は眠いの」
だったら名刺なんて渡さなければいいのに。
駅の方へと歩いていく田嶋さんを見送りながら、あたしはとうとう涙をこぼした。
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