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「―――気付いていないと思ったのに」
そんないたずら事を仕掛けた子供のように呟きながら。
「…………」
見つけたら言ってやろうと思っていた言葉達は、日和が思いもかけないところから思いもかけない瞬間に現れたことによって、遥か彼方へと飛んで行ってしまった。日和がゆっくりと半歩ずつ近付いてくるのを、馬鹿みたいに口を開けて見つめるだけだ。
黒いロングブーツに、色落ちしたデニムスカートを履いていた。ベージュが基調のフェイクファーのブルゾンを羽織って、普段はストレートの髪を外巻きにしている。半月見ない間に、服装の雰囲気が変わっていた。前会った時はトレンチコートを羽織っていた。髪はストレートのままで、今みたいな派手さはなかったはずだ。しばらく会わない間に雰囲気が変わっていたことに、思いがけず動揺した。
「―――本当に来てるなんて、思わなかった」
日和の小さな呟きに我に返る。
「…俺が、出来もしないことを出来るって言ったことあったか」
日和の足が止まった。会話をするにはまだ距離が遠いところで立ち止まってこちらを見つめてくる。
「俺がお前に嘘吐いたことあるか?」
コーヒー缶をベンチのそばのゴミ箱に放り、ゆっくりと日和に近寄る。すると、一歩近付くたびに日和の顔が少しずつ俯いていった。
「なんで?」
「なにが」
「なんでこんなところまで来るの? 夜行バスなんかで来たんでしょ?」
「お前が来いって言ったんだろうが」
「だって、まさか大晦日に夜行バスで飛んで来るだなんて思わなかったんだもん」
「お前は冗談のつもりだったわけ?」
日和の頬に触れられるほどの距離まで近付くと、そこで立ち止まった。
「お前は、冗談のつもりだったのか?」
もう一度、ゆっくりと刻むように尋ねる。
日和はそれでも何も答えようとしない。泣きそうになるのを堪えるように、ただ俯いていた。
日和、と声を掛けようとした瞬間、空気をようやく震わせることができるほどの小さな声が耳に届いた。
「…会いたかった…っ」
下睫毛を涙に濡らした日和が顔を上げて俺を見る。
今年初めての朝日のせいで、日和の睫毛が金色に輝いていた。
何かの植物が冷たい朝露を湛えているようだった。睫毛から、その朝露のような涙の小さな雫が震えて頬に落ちる。
その涙を親指で拭ってやりながら、俺はただ頷いた。
か細い嗚咽をもらして俺の胸に飛び込んできた日和を抱き締めながら、これが最後かもしれないと思った。
―――これが最後の恋かも、しれないと。
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