lovefool

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 これだから親切なんて進んでするもんじゃねーんだよ。  目の前に、眉間に皺を寄せて腕組みをする宣伝課長がいる。憮然とした態度でさっきから俺を見つめている。俺はというと、その課長の茶色の革靴を見ながら頭を下げているところ。 「…まぁ、そういう事情があったのならこちらも何も言い様がないけれどね」  白い新しい事務所の中は、ペンキだか何かの独特の匂いが残っている。真夏のこの暑苦しい時期に、壁が焼けては困ると朝っぱらからブラインドも下ろしきって、挙句空調も微妙にしか効いていない。  <…ぜってぇ売れねぇ>  こんなケチな会社の商品など、こちらがいくら頑張ったところで勢いがなければヒットなんて無理な話だ。 「すみませんでした。ご迷惑をおかけしまして」  クライアントの会社に出向くのは、通常こんなに朝早いなんてことはない。早朝から行っても忙オくて相手にされないからだ。極力朝と夕方のばたばたする時間帯は避けて打ち合わせに出るのだが、この課長は朝一番に来いと言う。だから会社に出勤する前に事務所に行く予定だったのだが。  ―――さっきはありがとうございました!  数十分前の、電車での痴漢目撃事件。  <なんで口出ししたんだ俺>  事件に関わってしまえば、こうやって課長に嫌な顔をされるのは目に見えていたのに。  <次はねぇな>  次痴漢を目撃しても、悪いが絶対に助けたりはしないだろう。もういらないことで頭を下げるのはこりごりだ。ただでさえこの年頃を相手にするのは疲れる。 「…本当に、君みたいな若い社員に任せてしまって、そちらの会社は大丈夫なのかね」  頭を下げたままの俺から体を逸らし、机に置いてあるファイルをめくりながら呟く。  頭をゆっくりと上げた俺はポーカーフェイスを作りながら、またかよ、と思った。  <若くて悪かったな>  少なくとも40オヤジより宣伝のセンスはある。 「全力を尽くします。今度ミスがあったら担当を変わります。もちろん、ミスなど一切ないように心がけますが」 「うむ。頼むよ。君の会社のイメージも台無しになってしまうからね」  朝から暇な課長が何を言う。  俺も手に持っていたファイルを開いて説明を始めながら、頭の片隅で悪態ついた。  この路線の快速は、通過待ち時間が長い。  一分でも早く家に帰ってベッドに転がりたいのに、発車まで時間のある電車はエンジンもかかっておらず、俺の希望を無視するように静まり返っている。  今日は特に疲労が激しい。あの宣伝課長のうっかりミスで俺は、事務所と会社を2度も行き来した。まったく冗談じゃない。強引に切り上げて、他のクライアントの会社に顔を出して帰ってきたところだ。  <…まだ木曜だっけな…>  就職して2年。そこそこ大きな仕事を任されるようになって、自分にある程度の自信がついたのはついたが。  <職種間違えたかな>  仕事は楽しい。楽しいけれどこれが自分の天職のようには思えない。  明日のスケジュールをぼんやりした頭で思い出しながら、でもすぐに面倒くさくなって意識が飛んでしまう。と。  ガクッ  突如物凄い引力に首を思いっきり捻った。手放していた意識を取り戻すと、なぜかシートに横になっていた。  <……ん?>  どうやら居眠りこいてシートに倒れこんだらしい。今どの駅なんだろうと思ってあたりを見回すと、一人分向こうの席に座っていた女が驚いた顔でこちらを見ていた。 「「あ」」  とっさに声が出た。同時に声を被らせた女は、俺が痴漢から助けてやったあの子だった。 「あんた…昨日の」  呟いてから、そういえば今朝のことか、と思い直す。一日が長すぎて、すでに遠い昔のような感覚であった。  しかし度胸の据わった子だ。まさか一人でこんなところにいるとは。 「…あんなのに遭ってまだよく電車に乗れるな」  怖くないのだろうか。最近の女は痴漢にも慣れてしまってるのかもしれない。 「…あたしだって好きで乗ってるわけじゃないです」  低い答えが返ってきた。  <ああ。やっぱ怖いんじゃん> 「ふーん。まぁ、俺にはどうでもいいけど」  だからって俺はもう助けようとは思わない。  何か理由があって今一人で乗っているのだろう。だけどこれ以上俺がこの子を心配してあげるような親切な男になるつもりはない。さっさと寝てしまおうと思って、俺は再び腕組みをして目を閉じる。  …なんだこの圧力。 「…まだなにか?」  もう一度彼女を見ると、物凄い白い目で俺を見つめていた。 「…。別に。助けてもらったお礼でもって思ってたけど、いらないようですし」  もうどうでもいいです。  どこかで聞いたことがある口調だな、と思いながら、俺はあっそ、と返す。  <眠い…腹減った>  そういえば夕ご飯をまだ食べていない。会社にいれば同僚とどこかへ行けたのだろうが、一人で出張となると夜も一人だ。 「メシ食った?」  腕時計はすでに深夜0時を回っている。こんな時間にご飯の誘いもないだろうと思ったが、意外にも彼女はOKした。  振り向くと、少し緊張をしている風な、頬が心なしか赤いような、微妙な顔をして膝を見ている。  <…ん~。これは…>  本人も自覚などないのだろうけれど。  <結構かわいいんじゃないの>  疲れから来る眠気のせいで、頭がおかしなことを考えてしまう。  俺が選んだ店は、彼女―――桃井日和の降りる駅の近くにあるダイニングバーだった。 「和食好きなんですか?」  後ろからついてくる日和の質問に、近かったからと適当に答える。  終電の心配もしてくれたようだが、タクシー拾うと言うと、少し安心したようだった。  <これも眠気のせいか?>  本当は近くない。ここからタクシーに乗れば、軽く5千円はかかるだろう。  奥座敷に通されて、真正面に座った日和を見る。夏らしく明るめに染めた髪が、さらさらと肩を揺れる。店内のオレンジ色の照明が、日和の頭に天使の輪っかを作っている。細くて柔らかい髪なんだろうなぁと思う。  <…俺何考えてるんだ?>  眠いはずの頭が、珍しく普段より早い回転をしている。  ウェイターに注文を頼む日和を見ながら、さっき自分がついた嘘について考える。  俺は今日、この子と寝たいと思っているんだろうか。  <…そんな元気ねえよ>  ぼんやりした顔のまま大それた事を考え、脳内で否定する。もし彼女が万一誘ってきても、乗る元気はない。たまたま、帰りがけに会って、たまたま、ご飯に誘ったら付いてきただけのこと。  小さいラメの入ったオレンジのネイル。付き合った女には必ずと言っていいほどねだられるブランドの指輪が、細い中指にはまっている。あれは自分で買ったものだろうかそれとも。  店内の豆電球みたいな色合いの照明に、日和の左腕のブレスレットが光った。華奢なシルバーチェーンにいくつかのチャームがついている。腕を動かすたびにそれはキラキラと光を反射して綺麗に揺れた。服装がそこまで女っぽさを強調する感じではないせいか、マニキュアだったり指輪だったりが妙に色っぽく見える。  <…観察しすぎ、俺>  目を逸らして、まぶたを閉じる。さっきまでの眠気はどこへやら。  話をまともにしていくうちにわかる、彼女の癖。表情がくるくる変わる。俺のテンションが低い受け答えにも、一つ一つ反応を返す。馬鹿な男なら、こいつ俺に気があるかもなんて勘違いもするのかもしれない。  気のせいだ。  頭の回転についていけなくて目を逸らそうとする自分が、そう囁く。これは気のせい。頭が冴えているのも、いつもの表情を作るのが微妙に疲れることも、彼女の視線の先を意識してしまうことも。  申し訳ないけど俺は馬鹿な男になるつもりはない。 「彼女とか大変ですね」  見え透いた罠が張られる。  ビールを飲みながら、どう答えるか考える。そうだな、と流すか、いない、と正直に答えるか。  <…別にどう答えたっていいだろうが> 「彼女? ここ2年ほどいないけど」  すると日和は、俺が予想しなかった表情を浮かべた。どこか淋しそうな、落胆したような顔。  <…? なんで落ち込む?>  罠ではなかったのだろうか。そのかすかな疑問が、少しだけ俺に動揺を生んだ。同じような質問を返すと、日和は困ったような顔で、いない、と答えた。  日和が誰のものでもないことを知った途端、口から滑った言葉。 「付き合おっか」  多分、自分で今自分の首を絞めた。
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