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「おはよう、田嶋くん。昨日は大変だったみたいねえ。今日は平気なの?」
翌日会社に行くと、隣の席の安藤夏子が声をかけてきた。
夏らしい明るい色のサマースーツに、長い髪をアップでまとめている。会社の資料を見る振りをしながら、必要以上に近寄ってこられると、彼女のつけているらしい香水の匂いが鼻に届く。
「あー。とりあえずは」
営業課のフロアに、朝のラッシュで汗ばんだ肌に涼しい風が吹きつける。天井に取り付けられている空調のおかげだ。昨日の朝のことを考えると、この会社はなんて社員思いなんだろうかと思う。
「しっかし田嶋くん、立て続けに厄介なクライアントと当たったわね」
「同情するくらいなら代わってくれ」
「代わるっていうか、―――組んであげるんだったらいいわよ?」
夏子の声が、フロアの雑音を一瞬だけ遠ざける。
「…それで、俺にどうしろって?」
返ってくる答えはわかっていたが、あえて聞いてやる。すると夏子は案の定、待ってましたとばかりににっこり笑って、更に俺に顔を近づけた。
「今夜、付き合って」
低く甘く囁かれる、艶っぽいアルトボイス。
「気が向いたらな」
ぼんやりした頭に心地よく響く声は、少しも動機を乱れさせない。それがどういう意味で囁かれたのかわかっていても。夏子の誘いをあっけなく受け流した俺に、夏子が頬を膨らませた。
「ちょっと何よ、それ。なんか用事でもあるの?」
「別に。ゆっくり寝たいだけ」
「元気ないの?」
どっちの元気だ、と思ったが、さすがに朝っぱらから下世話な話は言わないでおく。
「さあ。疲れてるのは確実だけど」
「風邪じゃあないんでしょ。疲れてるんならうちおいでよ。ご飯作ったげる」
どうせ明日休みだし、と付け足されて、俺は自分のデスクの卓上カレンダーに目をやった。うんざりするほどスケジュールの詰まったカレンダーだが、土日はありがたく空欄になっている。そして今日は金曜日。
断る理由を探している俺に、更に顔を近づけて夏子が囁いた。
「その後でたっぷり癒してあげるから」
朝っぱらから盛っているのはどうやら夏子のようだ。理由を探すのも面倒くさくなって、そうな、と適当に言い返す。それを OKととったらしく、夏子は笑顔で、
「よしよし。じゃあまた後でね」
商談でも成立させた後のような晴れ晴れした口調。
アフターファイブを楽しんでもいいはずの夏子も、営業課で一番忙しい部署に回されたばかりに、俺と同じくらい朝から晩まで仕事に追われている。溜まるストレスは、こうして時々俺と遊ぶことで発散しているようだ。
夏子も同じだと思うが、俺は彼女に対して恋愛感情は持っていない。
だからこそ成り立つドライで割り切った関係。いつ終わっても、いつまででも続けられる軽い関係。
<…こっちの方が気楽でいいよな>
立ち上がったパソコンのマウスを動かしながら、課長と話をしている夏子の背中を見る。
―――田嶋さん、あたしのこと好きなの?
はっきり言って寝不足だ。
あの日和とかいう女子大生を下手に口説いてしまったせいで、妙な疲労感がずっと付きまとっている。思い出すとテンションが下がる。あれこそ俺の人生最大の失敗だ。
<好きなわけねぇだろうが。よく考えろ>
それは日和に向かって投げた言葉ではなく、俺自身に向かって言い聞かせる言葉。
気が向いたというより、魔が差したとしか思えない俺。
<大体好きだとか付き合うとか、今の俺には考えられねぇ>
どちらか一人を選べ、と言われたら、迷わず夏子を選ぶだろう。日和ではなく。
今夜夏子とひとしきり遊べば、昨日の夜の失態などすぐ忘れられるだろう。夏子の存在に少しだけ感謝をしたい気分で、昨日一日開けなかったメールボックスを開いた。
前々から世話になっている会社から5通。他の部署からの連絡メールが2通。その他雑多なメールが4通。そして、携帯から送られてきたメールが1通。
<…………>
誰にも見られていないことはわかっていながら、俺は周囲にさりげなく視線をやる。
このメールアドレスを知っている人間は、仕事関係以外では家族しかいない。プライベートの知人なら会社のメールではなく直接携帯に送ってくるからだ。
思い当たる人間が一人。数字と英単語を組み合わせたメールアドレスを見ながら、俺は頭を抱えたくなった。
<…見なかったことにしよう>
唐突に思った。どうせ昨日のことに対する挨拶か何かだ。見るのは時間がある時で差し支えはないだろう。そう思って他のメールを開いた。
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