lovefool

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「なに田嶋、今日遅いな」  カチカチ、とデスクに頬杖をつきながらマウスを動かしていたところへ、後ろから同期の赤川が話しかけてきた。見るとカバンを提げていて、これから帰るところらしい。 「お前もう帰るの?」 「おお。全然終わらねぇから明日また来てやるわ」 「最近そればっか。まともにデートも出来ねぇな」 「お生憎様、恋人なんていませんから」  お前もほどほどにな、と言い残して、赤川は帰ってしまった。それを見送ったついでにフロアを見回すと、40台近くあるパソコンに向かっている社員は、俺を含めて4、5人しかいなかった。  こういう時、俺って何やってるんだろうなと思う。腕時計は既に10時を回っている。最近はこれが普通。偉そうな課長達に頭を下げるのは苦痛だが、仕事の内容は好きだから続けていられる。だけどそれも、こんなに体力を磨り減らしてまで頑張ることなんだろうか。  夜更けの社内は朝とは別物のように倦怠感が漂い、真夏だというのにどこか寒々しい空気が社員やデスクを悲しい色に見せる。こんな場所に閉じこもっていては、ますます気が萎えるだけだ。  <…夏子どうしてんだろ>  9時には上がる、と夏子の帰りがけに伝えておいた。だがもうとうにその時間は過ぎている。連絡もしていない。まあ別にすっぽかして泣かせて困るような関係でもないし、第一泣くような女ではない。  携帯をだすのも面倒くさくて、そのままパソコンのメールボックスを開き、夏子の携帯にメールを送る。 『悪い今日無理。仕事終わらねぇ』  送った数分後、開きっぱなしのメールボックスがメールを受信した。 『遅いよ馬鹿! もう食べちゃうからね。寝ちゃうからね。ばーかばーか』  俺は不意に笑いをこぼした。やっぱり軽い。なんて気楽な関係なんだろうと思う。俺はこれに何の不満もない。だから彼女だの恋人だのは、全く必要ないのだ。  夏子のメールの数個上にある、未読メール。一日デスクにいたというのに、結局一度も開かなかった。なんでここまで恐れる必要があるのだろう。と、そう考えて我に返る。  <恐れる?>  なんで俺がメール一通に恐れなんか抱かなくてはならない?  だけどそれ以外に理由が思いつかなかった。携帯からの、おそらく内容も1行半ほどの短い文面だと思うそれが、どうして暇が必要なくらい時間がかかると思ってしまうのか。答えは長いからではなくて、ただ怖いから。  <何が怖いんだよ>  自分の失態を思い出すのが嫌だから。本当にそれだけか?  <怖くねえよ別に>  怖いと思ってしまう自分を否定するように、俺は初めてそのメールを開いた。 『昨日はありがとうございました。助けてくれた田嶋さんのこと、疑ってしまってごめんなさい。もう一度お詫びがしたいので、会ってもらえませんか?』  ゴシック体の黒字が、白い画面にこびりついているように見える。  思ったより長い。いやそんなことはどうでもいい。  ゆっくりとため息をつくと、吐息が少し震えていることに気付いた。驚いて口元を右手で覆う。  会ってもらえませんか。  この一文が、頭の中を占領する。メールを読んでしまったことを後悔した。一日中頭の片隅にあったこの存在。怖いと思った自分は間違っていなかった。俺は、本気になってしまうのが怖かった。  会ってもらえませんか。  どう、返事をするか。答えはもう、出ている。俺の動機が、勝手に答えを教えてくる。  頭の中は思考回路が止まったように真っ白なのに、指が勝手にキーボードを叩いている。何を送る気だとどこかでぼんやり思っているうち、今すぐ会おうみたいな文章が目の前に打ち出されていくのを見た。  どうやら俺は、本当に馬鹿な男になってしまったらしい。  白いカーテンを透過して青白い月の光が部屋に差し込む。シーツに顔を押し付けるようにして寝息を立てる日和を見ながら、俺はサイドボードの煙草を掴んだ。  目覚まし時計は深夜の2時を表示している。  会社を出てから、4時間。そんなに時間が経っていたなんて、と今更ながらに驚いた。  煙草に火をつけて、日和をもう一度見下ろす。眠っていたはずの日和が、ゆっくりと瞼を開けた。 「おはよう」  俺の言葉に、日和がむずかる子供みたいな顔で睨んできた。 「…なにがおはよう、だよ。…信じらんない」  ピロートークなんてものとは正反対の響きでもって、日和が俺を静かに罵倒する。浅く皺の寄ったシーツを握り締めて、恨めしそうに。 「信じられない? 付いてきたのはお前だろうが」  吸い始めたばかりの煙草を2口、3口吸うと、灰皿に押し付けた。 「あっ、あのねぇ! 勝手に付いてきたみたいな言い方しないでよねっ、連れてきたのはあんたなんだから」 「―――もうセクハラだって罵らないのか?」  俺の問いに、日和が少し怒ったように眉を寄せる。 「セッ、セクハラだったら、訴えてやる!」  やっぱり威勢がいい。そう思って少しだけ苦笑した。 「じゃあ多分、大丈夫」  日和の唇に吸い付きながら答えてやる。  <…ああほんとに、なにやってるんだろうな俺は>  泣かせても困らせてもすっぽかしても平気の夏子を放っておいて。  俺の一挙手一投足を本気で受け止めてしまう厄介な女とこんなことをして。  <…俺だって信じられねぇよ>  日和に人生を変えられそうな予感さえしているのに。  怖いと思う気持ちすら彼女へ抱く衝動にかき消されて、霧散する。  狂ったのは動機だけじゃないらしい。  恋なんて、そんな自分を満更でもないと思ったが最後だ。
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