1 視線

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 とあるマンションの7階、705号室。  グレーの斜光カーテンを思いっきり開くと、薄暗かった部屋が一気に明るくなった。  喉につけた小さな鈴を、ちりん、と鳴らしてこの家の主の愛猫が寝室を出て行った。ベッドの上で、主である田嶋雅貴がシーツを被りながら唸った。ここの住人は、太陽の光が嫌いらしい。 「ちょっと、雅貴! 日曜だからって寝すぎ。日和ちゃんは暇です」  ベッドに乗り、雅貴の腰のあたりに跨った。途端に雅貴の苦しそうな悲鳴。 「…まだ11時じゃんかよ、…もっと寝させろって…」  よろよろとサイドテーブルの時計を見たかと思うと、弱々しい声で訴えられた。 「もぉぉ。いったい何時に寝たのよ」 「………4時」 「4時ぃ!? …そりゃメールも返ってこないわけだよね。…頭痛い? なんか作ろうか?」  ベッドから降りて、うつ伏せの雅貴に顔を近付けて様子を窺う。すると、シーツに顔を押し付けたまま、極めて短く「うん」と答えた。喋るのも億劫らしい。  あたしの彼田嶋雅貴は、広告関係の会社で働いている、忙しいサラリーマンだ。メールもほとんど返ってこないし、電話なんてもってのほか。たまに雅貴が暇な時に掛けてきてくれるくらいだが、それだってこっちも毎回出られるわけじゃない。だから、週末のデートは本当に貴重な時間なのだ。  ただ昨日は、クライアントとの打ち合わせがあったとかで急にデートはオジャンになった。「日曜は空いてるから」と言われたから、こうして家までやってきたのだが…。  あの調子では、一日放っておかれる可能性大かもしれない。  キッチンで特製野菜スープを作っていると、食べ物のいい匂いにつられたのか、先ほど寝室から飛び出していった猫の茶々が擦り寄ってきた。そういえば主人がああなのだから、茶々も朝ご飯はまだに違いない。  ミルクをお皿に注いでやってから、スープを寝室に持っていった。  寝ていると思った雅貴は、意外にも起きてベッドに座ってぼんやりとしていた。 「起きた? スープできたよ」  スプーンと一緒にお皿を差し出すと、雅貴は重力に逆らった寝癖もそのままに受取った。寝ぼけているのかと不安になるほど、雅貴は黙々とスープを口に運んでいる。しかも至極スローなスピードだ。こぼすんじゃないかと、あたしは思わず雅貴の食事を観察してしまった。 「…ありがと。うまかった」  カラになったお皿を、そう言って返してくる。その時今日初めての小さな笑みが、雅貴の口元にのぼった。 「どういたしまして。ちょっとは意識はっきりした?」  できるなら起きてほしいんだけどな、と思いながら聞くと、雅貴はやはりぼんやりした瞳で頷いてきた。  <…ほんとに起きてんのかよっ>  頬をつねってやりたい衝動に駆られるが、とりあえず押さえ込んでお皿を片づけに行く。寝室に再び行くと茶々もついてきて、あたしが雅貴に近付く前に、雅貴の膝の上を占領した。  仕方がないので、ベッドの隅っこに座って、主人に撫でられて気持ちよさそうな茶々を眺めた。 「…猫の目ってさぁ、緑色なんだよね」 「は? 緑? 金色だろ、どー見ても」  茶々を抱き上げて、間近にその瞳を覗き込む。ついでにキスなんかしていて、そんなところを見せ付けられて、あたしは不覚にも茶々に嫉妬してしまった。だからか、口調がぶっきらぼうになった。 「違うよ、日に透けると緑に光るんだよ。茶々のだってそう見えるよ」  そうか?と、雅貴は茶々をそのまま窓の方へ向けている。猫を撫でつける前に、自分の寝癖を直せばいいのに。この気の抜けた態度は一体何なのだろう。彼女にはもっとかっこいいところを見せたいとか、そういう考えはこの男にはないのだろうか。付き合った当初からそうだ。こうしてぼんやりしているところしか見たことがない。だからと言って、嫌いになれないどころかどんどんハマってしまっている自分が悔しい。  だってこの人は、冗談抜きで色男。色眼鏡抜きにしても。だからどんな格好をしていても、見ている女の気持ちのボルテージを上げることはあっても下げることはない。なんとも嫌味な男だ。 「…―――ほんとだ、緑と言われればそうかもしんない」  呑気に猫なんかかわいがりやがって。寝起きの色男と、猫。なんでこんなに絵になるんだか。  ブスッとしていると、今度はあたしを覗きこんできた。 「なんだよ、機嫌わりーな」 「べつに」  邪険に答えてやると、雅貴はあっそう、とだけ言って簡単にあたしから離れる。  25のくせに。同い年の男だってもっと気の効いたことをしてくれるぞ。  きっと学生時代から女にちやほやされまくって、人に気を使うってことを知らずに生きてきたのだろう。だからってあたしまでちやほやしてあげるなんて考えてたら、大間違いだ。  しばらく脚をぶらぶらさせて黙り込んでいると、雅貴がいきなり茶々を頭に乗せてきた。 「ぎゃっ! な、ななな」  そりゃ茶々は生後半年の子猫だけれども。頭に乗せられれば重いし、なにしろ生き物だ。びっくりして頭の上の茶々を抱き下ろした。慌てるあたしを見て、雅貴が楽しそうに笑っている。 「いいねぇ、少女と子猫。絵になるねぇ」  と、下らないことを言ってにこにこしている。なんでこんなことでそんな笑顔が生まれるのか不思議だ。 「…。少女ってなによ」 「ん? "美"少女の方がよかった?」 「…少女じゃないもん」  雅貴の笑い声が途絶える。こっちこそ下らないことを言ってしまったと思って、顔が上げられない。 「んー。…まぁ、そうだわな」 「…………」  ちら、と雅貴を見ると、ばっちり目が合った。なんでこういう時だけ、しげしげとあたしを観察しているんだろう。見てほしくない時ばっかり、こうして見られてる気がする。  雅貴のこういう時の視線は、苦手だ。あたしの存在なんて気付いてないんじゃないかってくらい、いつもぼんやりしているくせに。恥ずかしがってるところなんて、そんなに見ないで欲しい。  雅貴の手が肩に乗った。そのままベッドに倒される。 「…目、閉じてよ」 「あ? なんで?」 「………。明るいから」  わざとどうでもいい理由を言った。  ぷはっ、と雅貴が吹き出した。 「おまえ、こんな明るい太陽の下で見られたら恥ずかしいトコでも見せるつもり?」 「!!!!」  まさかそういうつもりで言ったわけではない。あたしは、ぶんぶんと首を振った。 「いーからいーから。日和のしたいことは十分伝わった」  <ちが、そーいう意味じゃなーーーーい!!!>  だが、雅貴の視線が体中に絡みまくって動けなくなり、結局はそういうことになってしまった。  いつの間にかベッドのそばのソファに、茶々が乗っかっていた。  雅貴の無駄のない促しで四つんばいになった瞬間、視界に茶々が入ってきた。無表情の瞳と、目が合った。  こちらが今どういう状況になっているかなど、まるで目に入っていないような、無機質な金色。 「…―――見られてるぞ、ひよ」  雅貴はこの時だけ、あたしを"ひよ"と呼び捨てる。そして、腰の動きだけでもあたしを駄目にしてしまえるくせに、そうやって口でも羞恥を煽ってくる。 「…見、てない」  茶々の視線から逃れるように、シーツに顔を押し付けた。 「いや、じーっくり見られてる。…どうせなら、こっち向く?」 「~~~死んでもイヤ。…変態雅貴」  上の方から、さも楽しそうな笑いが聞こえてくる。  猫飼ってなんて、言い出すんじゃなかったと一瞬思った。こんなからかい方で遊ばれるとは。おかげで猫の視線の先が気になって気になって、行為に集中できない。人じゃないのに。相手は猫なのに。 「ギャラリーがいると、逆に熱くならない?」 「ならない。さすが変態だね」 「そのわりには、楽しそうだけどなぁ」  雅貴の口と肉体との同時攻撃は効く。もう駄目だとばかりに、あたしはシーツを握り締めた。  <茶々…お願いだからどっかいってて…>  神様、仏様、茶々様、だ。  雅貴の下らないギャラリーネタは、終るまで続いた。  終った後雅貴を2発、殴った。
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