lovefool

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 奴は漫画に出てくるヒーローでも、曲がったことが許せない正義漢でもない。  朝のラッシュの時間帯の車両は、事件を起こして下さいと言っているようなものだとあたしは思う。  こんなにひしめき合った車内でどうして新聞を読もうという気になれるのか、スーツ姿のサラリーマンが、何重折りにもした朝刊を難しい顔で睨んでいる。おじさんの太い腕が、若い女子高生の鼻の上を横切ってつり革を掴んでいる。パーマのしすぎで痛んだおばさんの髪が、肩にかかって迷惑そうな男子高校生の顔。  <…事件はここで起きてるんですけどね>  それでも彼らが平和なのは、間違いがないこと。  あたしはスカートの上からお尻に当たっている手の感触に、さっきから脂汗を流していた。  痴漢。だと思う。  単に手が当たっトいるだけかと思ったけど、どうやら違う。さわ、とお尻のラインをなぞってから手の甲でなでつけ、時々弾力を確かめるように押したりする。  <なっ…なんであたしが…っ>  思わず荒くなった鼻息で目の前の女子高生の茶髪が少しそよいだ。だけどそんなこと構ってられない。  あたしが降りる駅まで、あと3つ。尻を触る痴漢が降りるのはどこなのか。  前に痴漢に遭った友達が言ってたけど、実際遭ってみると本当に声が出ない。得も言われぬ恐怖に脚が竦んで、痴漢の手を握って叫ぶことなんて、とてもじゃないけどできない。  だけどこれだけ混み合ってれば、ここで痴漢が行われているなんて誰も気付かない。  <ど、どうすりゃいいの>  気持ち悪い。全身が総毛立って、効き過ぎている冷房を無視して汗が垂れる。  尻を触る手は、明らかにからかいと余裕を持って動き、あたしの背筋を凍らせた。  このまま触られ続けるなんていやだ。だけど。 「―――あんた何触ってんの?」  乗車率何%を越えるのか計測不可能の車内に、一人の男の声が響いた。  瞬時に周りの人々が声のした方を向く。それとほぼ同時に、あたしのお尻を触っていた手の感触がなくなった。 「てっ、あてててて!」  情けない声で悲鳴を上げたのは、あたしの斜め後ろ。  しかめっ面をした中年サラリーマンと、その中年の手首を捻りあげているのは、20代半ばくらいの若い男。 「あんた今、この子のケツ触ってただろ」  暢気とも言える物言いで、その若い男は中年とあたしを見比べた。同意を求めるように見つめられて、あたしは我に返った。 「あ、あたし今お尻触られてました!」  ざわっ、と一気に車内が騒然とした。近くのおばさんやおじさんが、やたらと厳しい声でその痴漢に非難の声を浴びせ始める。あたしはあたしで、痴漢されたことを大声で言ってしまって、物凄く恥ずかしかった。  騒然とした車内はそのまま次のホームに滑り込み、どさくさにまぎれてあたしも電車を降りた。 「もう大丈夫だからね。あの痴漢は警察に届けたから」  朝なのにもう疲れた顔をした駅員と警備員に散々同じ事を言われ、あたしはさっきまでの羞恥心とか恐怖もすっかりイライラに変わってしまっていた。 「…あの、それでさっきの男の人は」  派出所の中は、煙草と油っぽい臭いで相当気持ち悪い。 「さっきのって」 「だから、あたしを助けてくれた男の人ですよ。もう帰られたんですか?」 「ああ! えっと、まだいるはずだけどな。状況説明に付き合ってもらってたから」 「え? じゃあもう帰っちゃったんじゃないですか?」  警察がさっき、あの痴漢をどこかへ連れて行くのを見た。あたしは慌ててパイプイスから立ち上がって、派出所から飛び出した。と。  どんっ 「ぶっ!」  中に入ってこようとした人の固い胸に顔をぶつけて、あたしはよろめいた。 「ってぇな。ちゃんと前見ろよ」  鼻を押さえて呻いたあたしの頭上から、つっけんどんなセリフ。  見上げると、さっきのサラリーマンがあたしを見下ろしていた。 「あっ! あの、さっきはありがとうございました!」  よかったです帰ってなくて、と続けようとしたあたしのセリフを阻んで、そのサラリーマンは言った。 「あー別に。気が向いただけだし」  見た目25、6歳。  仕立ての良さそうなチャコールグレーのスーツに、紺色の柄ネクタイ。水色のYシャツ。前から後ろに流したヘアスタイルといい、自信家っぽい佇まいといい、いかにも仕事できます的なオーラを漂わせているが。  <…中身高校生じゃないの>  なんなのだこの横柄な物言いは。  自己中っぽい性格が、口調にそのまま現われている。  絶句しているあたしに、男は続ける。 「よかったな俺の気が向いて。次は目撃しても助けないかもよ」  じゃあ、と、男は中の駅員達に声をかけ、そのままあたしには挨拶もなしに去っていった。  <…な、なんなのよあの男―!!>  呆然と見送ってしまったのが悔しくて、あたしは思わずじだんだを踏んだ。 「で、名前も言わずに去っていったってわけね。なんかマンガのヒーローみたいじゃないよ」  大学に行くと、麻理絵が携帯でメールを打ちながらそんな感想をくれた。 「“名乗るほどの者ではございません”」  みたいな、と、誰の物真似のつもりなのか、一人で言って一人で笑っている。  お昼にはまだ早い時間のカフェは、人はまばらだ。少しでも大声で騒げば人という人が振り向いてしまう。だけどあたしは堪えられず叫んだ。 「あのねぇ! マジメに聴いてよ人の話っ」  麻理絵の手から携帯を取り上げる。 「あっ、…もう。―――で? それであんたは何が言いたいの」 「え? 何って…別に。ただもう少し気遣いとかあってもよくない?」 「甘い甘い。その人サラリーマンでしょ? 助けてくれただけ偉いって。皆見てみぬ振りするもん。それに下手に関わったら仕事に遅れちゃうし。そういうもんだよ、皆」  麻里絵の説得に、あたしはなんで説得されているんだろうと思いながら、頷いた。  そもそも相手の都合を考えたら、助けてくれた後の態度なんてどうこう言える立場でもないのに。  <なんだろ…>  この物足りないような気持ちは、一体何なのだろう。ぼんやりしている隙に、奪い取ったままだった携帯を、麻里絵に横取りされる。あたしはなぜかため息をついてしまった。
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