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「はぁー、こんな時間に帰宅することになるなんて……」
燦々と降り注ぐ太陽の陽ざしが目に痛い。
結局、この世の終わりのように落ちこむ牧を放っておけず、励ますつもりで居酒屋に誘った。一杯だけのはずが二杯三杯となり、あっという間に牧は泥酔。仕方なくマンションまで送って行ったらズルズルと引き留められ、夜通し付き合わされてしまったのだ。
僕の家では可愛い妻と娘が待っているのに!
でも、僕が帰りたがる度に
「俺を見捨てるのかぁぁぁっ!!」
と、号泣する牧が脚にすがりついてくるし、
「ヤダヤダヤダーっ! 帰ったらヤダーっ!!」
と、床をゴロゴロ転げまわって駄々をこねられた。
少しでもウトウトしようものなら
「寝るな! 寝るな高谷ー! 寝たら死ぬぞーっ!」
と、山岳救助隊のようなセリフを言われながら頬をバシバシ叩かれた。痛い。そうして牧をなだめたりなぐさめたり干しっぱなしの洗濯物をたたんだり流しに溜まった食器を洗ったりゴミを分別してまとめたりしている内に朝を迎えてしまったのだ。うーん、僕はなにをやっているのだろう。
「ふあぁぁ……眠いよぉ……」
もう十時だ。ああ、九時の電車に乗って遊園地に行く約束だったのに、すっかり遅れてしまっている。妻の美和にメールしたけど返事がない。怒っているのかなぁ。
「ただいまー」
「パパ! おかえりなさーい!」
家に入ってリビングの扉を開けると、娘の花が走ってきた。可愛い可愛いわが家の天使だ。僕の肩こりと眼精疲労もたちまち天に召されて消失してしまった。
「花ちゃん、遅くなってごめんね。ほら、駅前のドーナツ屋さんでイチゴリング買ってきたよ」
「ホントっ? わーい、パパありがとー!」
可愛い! 百万ドルの笑顔だ。十年後には街を歩いただけでナンパとスカウトが殺到するに違いない。いやいや、その前に誘拐される危険もある。ああ、僕がお金持ちだったらエージェントを雇って娘を護衛させるのに。でもあまりの魅力に「娘さんをください」とエージェントが言い出すかもしれない。うーん、可愛すぎる娘を持つ父親というのは、気苦労が絶えないものなんだな。
「おかえりなさい」
僕がエージェントの申し出になんと答えるべきか悩んでいると、妻の美和がキッチンから現れ目の前までやってきた。ああ、美人だなぁ。つり上がった瞳はアーモンドの形をしているし、むっつりと引き結ばれた唇は桜色だ。あれ、もしかしてこれは怒った顔?
「朝帰りになっちゃって、本当にごめん。埋め合わせにはならないかもだけど、これ、美和の好きなドーナツだよ」
僕が差し出した箱を、妻はじーっと見つめた。
「指輪、どうしたの?」
「え?」
美和の視線の先を追い、僕はドーナツの箱を持つ自分の左手を見た。ない。常につけているはずの結婚指輪が、薬指から消えていた。
「あ、あれっ!? そんな馬鹿な……!」
箱をテーブルに置き、僕はあわててスーツのポケットをあちこち探った。外した覚えはないし、そんなところを探しても見つかるわけないんだけど。
「朝帰りに、スイーツのお土産、指輪を外しての帰宅……こんなの、決定的じゃない……!」
「み、美和?」
見ると、妻の頭からシュンシュンと湯気が立ち上っている。そんな漫画みたいな表現が現実で!? と思ったら背後に加湿器が置いてあるだけだった。なーんだ、びっくり……
「この浮気男ッ!!」
美和が僕の腕をガッとつかみ、グイと体が引かれたと思ったら視界が一回転していた。
「おるぼわッ!?」
華麗な一本背負いを食らった僕は、なぜかフランス語の別れの挨拶みたいな悲鳴を上げた。(オルボワ~ル♪)
す、すごい! さすがインターハイ優勝者だ。そういえば高校時代、部活に励む美和によく蜂蜜レモンを差し入れしたっけ。水筒とタオルを渡したり、試合前には御守りをあげたり……ああ、懐かしい思い出が走馬灯のようにキラキラと脳内を流れていく。僕、死ぬの?
僕が目を回しつつ美しい過去を回想している間に、妻と娘はドーナツをモリモリ食べていた。
「パパ、おいしいよー! パパー? たべないのー?」
「うぅ~ん……」
「いいのよ、花ちゃん。パパは自業自得なんだから」
「ふーん? えーっと、“じ・ご・う・じ・と・く”……」
花は最近、お気に入りのタブレット端末で知らない言葉を検索するのにハマっている。
ああ、わずか五歳にして、この勉強熱心さ。うちの花ちゃんは天才だ。将来は博士号を持ち、ノーベル賞を取るかもしれない……
薄れゆく意識の中、僕はそんなことを思った。
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