帰り道

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帰り道

 窓に貼られた遮光シートのせいでバスの車内から見上げる空は少し濁って見えた。換気のために開けられた小さな隙間は、ホンモノの空を切り取ってこちらに「どうだ」と見せてくる。どうだ、と問われても何がだ、としか返せない。全てがどんよりと澱んで思えて、私は小さく溜息をついた。電線と共にチラチラと視界に入り込むホンモノの空にですら、仕事終わりで心の狭くなっている今の私では苛ついてしまう。  「曲がります」と流れるアナウンスの後、私は大きく右へと揺らされた。その反動で窓に頭をぶつけ、さっきの濁った空との距離がよりいっそう近くなる。はあ、うんざりだ。本当にうんざりだ。今の揺れで間違えて押してしまった降車ボタンから指を離すことができず、本来降りるはずだった駅前のバス停よりも三つ前のバス停で降りた。久しぶりに定時で帰れると浮かれて駆け込んだバスの乗車時間はほんの少しだけで終わってしまった。  会社から本来の目的地、最寄り駅までは歩いて四十五分。バスなら十分ほどで着くこの距離を後どれくらい歩けば良いのだろう。歩いて帰ったことがないこの道の所要時間は全く見当もつかず、道端にあった自販機でとりあえず飲み物を買った。ガシャン、と音が聞こえても見えてこないペットボトルにまた溜息をつきながら必死でペットボトルを掻き出した。 「ツイてないな」  サラサラと喉を降りていく清涼飲料水のやさしさと背伸びをして買った首元のカシミアのマフラーだけが今、唯一の救いだ。  とりあえずバス停を辿りながらゆっくり歩こう。所詮バス停三つ分、そうかからずに着くだろうから。自宅で済ませようと思って持ち帰っていた書類、無論社外秘ではないなんてことのない事務書類をたっぷり詰めたトートバッグが、右手を下へ下へと引っ張る。さっき買ったペットボトルですらその重さへと加担しているのだから、何事も上手くいかないものだ。普通に残業したほうが早かったな。と、しても意味の無い後悔をしつつも、顔を上げて足を進めると一筋の冷たい風が一瞬だけ私を包んだ。冷たくても、春を思わせる匂いとやわらかさ。まだ春は少し先だと言うのに、この場所でこの風と私だけがきっと季節を間違えてしまっている。走馬灯のように流れる風景。春の、けれどまだ暖かくなりきれていない静かなあの匂い、突然降り出したうるさい雨の音。  こっちに来てからやっとのことで見つけた今の会社は場所も雰囲気もあそことはかけ離れていて、賑わってもいない。だからこんなにも似た風は吹くわけが無いのに。どうしてだかあの頃とそっくりな風が、タイムカプセルを開けた瞬間に少し漏れ出る空気と同じように、私を強く掴んで離さない。  十年前の春、新宿で私を包んだあの冷たい夜風と、ツンと鼻を通った空気は、なんで今更こんなところで私にちょっかいをかけてきたのだろうか。一度触れれば簡単には閉じることの出来ない卒業アルバムのように、あるいはそう、なかなか戻せないタイムカプセルの蓋のように。雪崩のように押し寄せるあの頃が、ただでさえ遅くなっている私の帰路を遅くさせていく。振り返るのは全て、あの頃のこと。あの日のこと。あの人のこと。
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