生きるには

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生きるには

 部屋に戻った私たちは各々の飲み物をこまめに飲みながら、というのもこれからについてどう切り出せばいいのかお互い分からずにいたからなのだけれど、時計の針がくるくると回っていくのを眺めていた。音の鳴らないホテル仕様の置時計。カチコチとでも鳴っていてくれればBGMにもなり得たのに、今では既に済んでしまった隣の部屋の情事の音も漏れ出てはこない。 「楠太朗」  先に口を開いたのは私だった。どこまでも甘えてはいられないから、ここで引っ張るのは私でなくちゃいけない。 「どこか遠くへ逃げよう。それで、そこでふたりでやり直そうよ」  至極当たり前な、なんの変哲もない提案だった。けれどそれしか頭に浮かばず、実際に現実的な方法はそれしか無かった。 「そうだね、そうしよう。それなら」  私と同じように口を開くタイミングを伺っていたはずだった楠太朗はゆっくりと自分のスマホの画面をこちらに見せてきた。 「今だけ電源付けたよ。すぐ消すから大丈夫」  画面には、夜行バスの予約サイトが映し出されている。いつから考えて、いつから行動に移していたのだろう。きっと私が口を開くよりも前から、むしろ私が口を開くのを待っていてくれて、そしてその後に見せてくれたのだ。悔しい、と自分を責めたくなるけれど、まずこのスマホの電源を少しでも早く切る事が先だった。行き先を決め、夜行バスの座席を取ってしまえば後はその日までどうにか凌ぐだけ。自分を責めるのはその後だ。 「俺の地元に行こう。そうしたら手を貸してくれる知り合いもいないわけじゃないし、土地勘だってあるから、少しは楽だと思う」 「うん、分かった。そうする」 「あー……早くて一週間後だね、空いてるバス。待てそう?」 「うん。楠太朗となら大丈夫」  生き延びる、そうとなれば今までとは話が違ってくる。お互いの所持金を使い果たす勢いで行動をしていた私たちは、これから生きていく為にお金を使わなければならない。こんなホテル住まいも長くは出来ないだろうし、色々と考えることが増えてくる。  二人合わせてたった数万円の所持金で一週間、全てにお金がかかるとされている新宿でどれだけ過ごせるだろうか。ATMからはいくらか私の貯金を降ろせるとはいえ、それも運が悪ければ親に場所を特定されかねない。良い案とは呼べなかった。とはいえ、この場から安易に離れるのも危なく、人の少ない場所へと逃げ込めば連れ戻される可能性だって逆に高くなる。居場所として選ぶには新宿の雑多さは完璧だった。だからこそここでどれだけ耐えられるか。おそらく死ぬことよりも大変なことになる、弱虫で臆病な私はそう身構えた。楠太朗も同じで、今までよりもずっと険しい顔をしたまま夜行バスの座席を取ってからスマホの電源を落とした。 「野宿、できる?」  心配そうに顔をのぞき込む楠太朗。それくらいの事は覚悟をしていた。けれど直ぐに言葉が口に出てこないのも事実で。 「知り合いにあたってみる手もあるけど伊世のお母さんからして大抵の知り合いには連絡してるだろうし危ないかなって思ってさ。知ってそうじゃん、俺の連絡先とかも。そしたらいくらでも動けるし……」 「大丈夫、できるよ。山の中とかじゃないし、大丈夫」  自分に言い聞かせるようにしてそう答えた。所詮これだけ栄えた街なのだから、どこか安全で身を隠せるような場所だってある、そうどこか甘く考えていた。街を走ってボロボロになった私と楠太朗にシャワーを浴びる気力なんて残っていなくて、部屋に置かれているパジャマに着替えることもなく、着の身着のままふたりひとつのベッドに並んで身体を休めた。  ここからではあの時のような月明かりは見えなくて、締め切られた室内では見えないカーテンを揺らす風も吹かない。家とこことでは違うことだらけだった。あの頃とは何もかもが違うかもしれない、あの頃よりも不安は大きいかもしれない、けれど私たちは確実に今、自由だった。だからきっとどうにでもなる。ふたりなら、大丈夫。 「ゆっくり寝られるのは今日が最後かもね」 「向こうに着くまではきっとキツいだろうし、今のうちにゆっくり寝とこ」 「おやすみ、伊世」 「おやすみ、楠太朗」  部屋の明かりが簡単に消せるのはラブホテルの良い所だ。少しだけ身を起こして頭上のパネルをいじり明かりをひとつ残らず消した。  寝息の聞こえてこない楠太朗とは逆の方へと寝返りを打ってぴったりと背中をくっ付ける。抱きしめ合うよりも、背中を預け合う方が気持ちが楽だった。不用意に触れ合うこともしたくなかった、けど、寂しかったから。繋がることなく点と点で結ばれるような互いの背中。触れている部分はほんの少しなのにとても暖かくて落ち着いた。  気づけばそれが眠気を誘い、私は夢へと落ちていた。夢の中で、私は海月になって空をふよふよと浮いている。そして大きなサメにがぶりと噛まれ、半分になった身体でまたふよふよと浮かんでいた。それの繰り返し。そんな夢を途切れ途切れに見ているうちに大きな音でアラームが鳴る。いつの間にか向かい合っていたふたりの、そんなおはようから始まる逃避行。その場所がラブホテルだなんてなんてロマンチックなんだろう。  これが小説やドラマなら好きなワンシーンとして刻まれていたのだろうけど、今はそんな悠長なことを思っている暇は無い。フロントの中で俯いて寝てしまっているおばちゃんを起こさないよう、キーだけをフロントに置いてホテルを出た。
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