生きるには

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 元々死ぬつもりだった私の荷物は少なく、普段からリュックの楠太朗に比べてどこかへ逃げるための装備としては軟弱だった。 「まずは買い物だね」  そんな楠太朗の言葉を、大きな冒険へと出かける勇者たちみたいだと思った。我ながら呑気だな、とは思ったがふたりに必要なものを揃えていくのはとても楽しかった。  大手衣料品量販店の中でカゴいっぱいに服を詰め込み、とはいっても必要な分だけ。下着や少しでも暖を取れそうなパーカーなどを買った。ふかふかのアウターやジャケットは今買うにはとてもじゃないくらいに高く、手で触れて着心地を想像するだけで終わってしまった。  春の夜中がこんなに寒い事を私は知らなかった。憂鬱で仕方がない毎年の春を生ぬるいゼリーのようだと私はいつも表現していた。そんな生ぬるさの中で身動きも取れずにただ沈んでいくだけの春が私は大嫌いだったから、夜中に出歩くことも遅くに帰ってくることもなく、ただいつも家で憂鬱を転がしていた。だから、知らなかったのだ。こんなにも足元から冷える風がこの季節にも吹くということを。時折やさしくあたたかな風は吹くけれど、そんなものはすぐに冷たさで掻き消されてしまうということを。  大量の荷物を手に持った私たちは次に激安大型店へと向かった。大きなBGMが流れ続けるこの店の狭さに私たちふたり分の荷物は大きすぎていろんな人に謝りながら通路を歩いた。  目的はキャリーケース。安くて、けれどある程度量の入るもの。日本への旅行中に足りなくなった荷物を入れる為に購入する観光客を狙っているのか、どれも高く大きすぎるものばかりだった。 「楠太朗、これとかどう?」 「んー少し小さいけどそれくらいしかないね……」  選んだのは5000円もしないキャリーケース。ある程度量の入る大きさのキャリーケースとしては格安だが、質も良くなく、ましてや今の私たちにとってはありがたいとは言いがたい値段だった。それでもこの通路を塞ぐ量の荷物をどうにかして片付けなければいけない。苦渋の決断の末、至ってシンプルなそのキャリーケースを買って外へ出た。  残金はまた減って、心の余裕もそれに伴い減っていく。新宿駅すぐそばのコインロッカーの横でぎゅうぎゅうに袋を押し込んだキャリーケースは許容量を超えてパンパンに膨らんでいた。もう少しお金を出して一回り大きいのを買えばよかったと、楠太朗は少し顔を曇らせて嘆いていた。そんな曇り空が雨を降らせたのか、ぽつりぽつりとホンモノの曇り空が雫を落とした。 「あ、雨だ」 「え……」 「タイミング悪いな……」  雨に気づき苛立ちを隠しきれなくなっている楠太朗を見て、どこかでゆっくり休まなければと、ただ焦りだけが募っていった。こんな顔をさせたくない、その一心で明るくいようと声のトーンを少し上げて話した。 「私、傘買ってくるからちょっと待ってて」  頭を掻き冷静さを保とうとしている楠太朗を置いてコンビニへと向かった。500円のビニール傘を二本引き抜いてレジへ向かう。のんびりと相合傘なんてものをしている場合ではなく、けれどふたり分の500円は今は痛手だった。それでも今風邪を引いたらとんでもなく面倒なことになることは分かっていたし、憂鬱な時こそ絶対的なパーソナルスペースは確保した方がいい、そう思った。  その場で使えるようにしてもらった真新しい傘はどんよりと曇った空から落ちてくる大きな雨粒を頑張って受け止めてくれている。 「楠太朗、これ。傘」 「ありがとう。」 「一本にしようと思ったけど、濡れて風邪引いたら大変だから」  私の提案を飲んだ楠太朗は大人しく傘を手に取りキャリーケースを持ちながら黙り込んだ。いつも冷静で、なんなら少し飄々としている楠太朗がここまで塞ぎ込むのは珍しい。曇り空はむしろ好きだったはずで、きっと重なったイレギュラーに参ってしまっているのだ。こういう時に私がわざと明るく振舞っても逆効果かもしれない、そう思ってほんの少しだけ上げていた声のトーンを元に戻した。ザーザーと振る雨。楠太朗を閉ざした原因自体が雨だというのに、この大きく傘を打つ雨音があって良かったと思ってしまった。こんなにどうにもならない静寂の中ではただ自分が空回りするだけの余計なことを口走ってしまいそうだったから。 「あ、ごめん」 「うん」  並んで歩く二人の距離がさっきのままなら、傘が邪魔になるのは当たり前で。チョン、と傘同士が当たることに互いに苛立っているのが傘を通して伝わってくる。同じように私の苛立ちも楠太朗に伝わっているだろう。  自分たちを守るために二本買った傘はキャリーケースまでは守ってはくれず、防水加工のされていない安いキャリーケースはびしょびしょになった。全てが上手くいっていないこの状況下では私も楠太朗と同じように冷静さを保つのに必死で、傘を上手く扱えない。チョン、チョン、と私の傘が楠太朗の傘を揺らす。その度に胸の奥がギュッとして、重くなった。募る楠太朗の苛立ちに、隠せない自分の苛立ち。止まない新宿の春の雨は酷く冷たく、私たちを追い詰めた。 「本屋」 「え?」 「本屋行こうか」  並んで歩く中で先に口を開いたのは楠太朗だった。その声は思っていたよりも穏やかで、それを聞いて心底安心してしまった。 「うん。確かあそこにあったよね、本屋さん」  新宿を訪れると時々立ち寄っていた本屋を思い出しこの場からそう遠くないことも合わせて提案した。  私も楠太朗も本を読むことが好きだった。付き合いだしてから何冊か貸し借りもしてきたし、好きな作家や作品の話で幾度となく盛り上がった。不思議と好きな作品の傾向も似ていて、だからきっと楠太朗は次の居場所に本屋を選んだんだと思う。そんな期待は私たちを裏切ることなく、本屋は私たちを優しく出迎えてくれた。びしょびしょの私たちを横目でチラリと見る人たちはいても、本は何も語らないし目を向けてこない。  私たちが触れなければ本は何も語らないから、それが今の救いだった。新刊コーナーを一通り見てから小説コーナーへと進む。本が濡れないように気をつけながら、互いの好きな本をさらに紹介し合ったりした。この作家のこんなところが好きだとか、この作家は合わないなだとか、ここだけ切り取ればただ突然雨に降られた至って普通のカップルの本屋デートで。  実際に必死に取り繕うふたりの顔さえ曇っていなければそんなふうに思えていたかもしれない。
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