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「伊世ちゃーん着いたよ〜」
聞けばしーちゃんとはここまでらしい。この海は街から近い為アクセスが良く、これから何をするにも動きやすいからと連れてきてくれたのだ。
「しーちゃんありがとう!」
「あいよ〜」
「また、連絡するから」
「はいはい、楠太朗はいつも急なんだから、いつ連絡してきてもいーよー」
車に乗り込んで窓から手を振るしーちゃんにじゃあねと私たちふたりも手を振った。
「しーちゃん優しい人だね」
「お人好しなんだよ」
「じゃあ楠太朗と一緒じゃん」
「うるさいなあ」
うるさいと言いながらも明るく笑う楠太朗の声を聞いてハッとした。隣を見れば今にも泣きそうな顔、震えた声。
「楠太朗?」
「ごめんね伊世」
「待って、どうしたの?ねえ、楠太朗」
突然の、いや、楠太朗にとってはずっとずっと前からのことだったんだ。私が「生きたい」と口にした時からずっと。きっと、そう。私が勝手に突然だと思っていただけ。
「伊世ちゃん」
出会ったばかりの時に呼ばれていた呼び方。弱々しく縋るようなそんな声。そんな声で呼ばれてしまえば、今まで散々甘えきってきた私はもう何も出来ない。止められない。
「たろ」
同じように、出会った頃、柴犬のように人懐こい楠太朗の名前を文字って付けた呼び名で呼ぶ。それを呼べば先に私が泣いてしまいそうになる。泣くもんか、楠太朗の選んだ道を止めるもんか。ここで引き止めたらまた甘えてしまう。だから。
「たろ、死にたい?」
「伊世ちゃん」
「うん」
「ごめん」
「謝らないでよ。誘ったくせに弱虫だったのは私なんだから」
「伊世ちゃん」
「うん」
「死にたいよ」
楠太朗のことだ。しーちゃんに頼んで連れてきてもらったこの海も楠太朗が提案したのだろう。楠太朗と離れた私が一人でも生きていけるように。生きていけてしまえるように。ザザー、ザザー、ずっと楠太朗の声だけを聞いていたいのにノイズと言うにはあまりに綺麗すぎる音が耳を通り抜ける。ザザー、ザザー。
「たろ」
「なあに、伊世ちゃん」
「楽しかった?」
こんなことを聞くのもズルいことだと分かっている。けれど、だって私は楽しかったから。楠太朗もそうであってほしい、これは最後のワガママ。
「うん。すごく。ずっとずっと一緒が良いって思ったよ。でもね、もうダメだ俺」
震える手をもう片方の手で押さえながら話す楠太朗の声は細く、ユラユラと揺れていた。こんなにまで我慢をさせてしまった。どうして気づかなかったんだろう。どうして。
「伊世ちゃんに途中で気づかれなくて良かった。伊世ちゃんにたくさん楽しんでもらって、たくさん俺を覚えてて欲しかったから。だから、これもちゃんと俺のワガママだよ」
「うん」
「どこに行くかは教えてくれないの?」
「教えちゃったら伊世ちゃん着いてきちゃうでしょ」
ふたりが、笑う。ザザー。
「ねえ、たろ。私すっごく楽しかったよ」
「うん。俺も」
「ラーメン美味しかった」
「うん」
「水族館もプラネタリウムもまた行きたい」
「うん」
「まだまだしたいことたくさんあるよ」
「うん」
「でも、最後くらい。たろのワガママ、聞きたい」
「ありがとう」
ザザー。トプン、ザーー、ザザー。
ザザー、ザザー、トプン。
ザーーーー
振り返らない。絶対に。後ろで遠くなっていく楠太朗の足音が波の音と重なる。
ザッ、ザッ、
ザッ、トプン。ザーー
泣かない。楠太朗が戻ってきちゃうから。絶対に泣かない。泣かない。泣かない、泣かない、泣かない泣かない。ザザー、ザザー、トプン。
消えた足音を確認したかのように止まらなくなる嗚咽。海の潮風と涙で顔はしょっぱくてしょっぱくて、拭う手に付いていた砂で擦った頬が痛い。大声を上げて泣く私を撫でる手はもう、居ない。ザン、一際大きな波が立った。泣く、泣く、私は泣いた。こんなにも近くに海があっては涙が枯れてくれることはない。涙よりも先に声が枯れてようやく私は泣くことを辞めた。目の前の大きな海は笑いもせずにこちらを見てただ、ザプン、ザプン、と波を立てていた。こちらへ寄っては引いていく波を数回見送ってからぐしゃぐしゃの顔で立ち上がり、振り返る。そこに居るのは犬を散歩させている地元のおじいさんだけ。もちろん楠太朗の姿はなく楠太朗の残した微かな足跡だけが砂浜に残っている。その足跡を辿りながら海のすぐ近くの駅まで向かった。大丈夫、一人でも大丈夫。そのうちに他の人の足跡と混ざってどれが楠太朗の足跡だか分からなくなった。一度は立ち止まったが私はこれから一人で先へと進まなくてはいけない。もう甘えない、甘えられない。私は、一人で生きていくんだ。
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