あの頃

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あの頃

 十年前の春、看護の専門学生だった私は、当時付き合ったばかりの楠太朗を学校帰りに呼び出し家へ連れて帰ろうとしていた。一応、と思い母にかけた電話では突然のことすぎて少し機嫌を悪くされたけれど、なんとか楠太朗が家に泊まることを了承してもらえた。本来だったらあんな汚い家に連れて帰りたくはなかったのだけど、それでもなかなか離れられずまだ一緒に居たいとふたりして駄々を捏ねた結果だった。  今思えばこの駄々っ子が無ければ何もかもが始まらずにそのまま終わっていたのだろう。まだ二十歳の、ただギリギリ、たまたま大人なだけの子供の駄々っ子がこんなにも私を振り回すなんてこの時には思いもしなかった。いや、振り回していたのは私だったかな。  夕飯なんて無いからね、と突っぱねられた私たちは、私と楠太朗、母と弟の分の夕飯をコンビニで調達することにした。また出費がかさむな、なんて思いながら陰り始めた気持ちを必死に明るく保つ。大丈夫、バイト代もまだあるし。それよりも、「どれにしよう」「これは好き?」「これは美味しかったよ」と棚の端から端までを眺めながら楠太朗と選んでいくことの方が大切で、楽しかった。そしてそれは目先の暗い現実から目を逸らせてしまうには充分過ぎる程で、好きなものが同じであれば嬉しいし、違えばお互いの違いを驚きつつも笑い合った。そんなふうにして選んだ品々は思ったよりも夕飯代を高くし、レジに表示された具体的な数字からもう一度目を逸らして、楠太朗と半分ずつお金を出し合って会計を済ませた。 「お母さんあまり怒ってなかったね」 「ん〜あれかなぁ、楠太朗が帰ったあとが怖いね」 「あ〜……」  家から数分のコンビニ。家に帰る足取りは重く、私と家族の関係を知っている楠太朗の口数も自然と少なくなっていた。 「来ちゃって大丈夫だった?怒られたりとかしない?」 「なんか今日は機嫌良さそうだし、まあとりあえずは大丈夫でしょ。あとは吉村さんがどんな反応するか、だけど」 「怖い人?」 「優しいから怖い、みたいな?」  楠太朗はまた、「あ〜…」と呟いて笑ってくれた。母の再婚相手、弟のお父さんである吉村さんとの関係も良いかと言われればそうではなかった。  そもそも私は家族から浮いているような存在だった。  母とは時に姉妹のように笑い合いはしゃぎ合う時もあれば、バイト代をそっくりそのまま貸してくれとせがまれたり、本来なら母がやるべきはずのPTAの書類作成を頼まれたりと、そんな小さなことが重なって、今思えばやるのが当たり前なはずの家事を「押し付けられた」と思ってしまうような、そんな関係だった。当時の私から見た母は本当に、本当に何もしない人だったから。  年の離れた弟とも、一緒に住み始めたのが遅かったからか仲の良い姉弟のような関係ではなかった。どこか距離感のぎこちない遠い親戚の子のような、私にとっては知らない家の小学生のような存在だった。それまでずっと一人っ子だった私の目の前に突然現れた弟という存在は、どれだけ取り繕っても異物でしかなかったのだ。決してそれを理由にしていい訳では無いけれど、姉弟喧嘩の仕方が分からないまま育った私たちふたりは、喧嘩の度に口ではなく手を出し合い、無論、力の強い私が勝つという構図がいつまでも続いた。一方的に、自分の課題の進まなさや学校での人間関係の上手くいかなさから弟に手を出したこともあった。  そんな弟のお父さん、吉村さんとの距離感は初めてあった時からずっと掴めず分からないままだ。どこまで踏み込んでいいのか、頼っていいのか、笑うタイミングはいつにしたらいいのか、全てが分からないままだった。  それらを私の口から全て聞かされていて知っている楠太朗にとって、あの家に足を踏み入れるのがどれだけ高いハードルだったか、今振り返るだけでも胃が痛くなる。  それでも、私は母と弟のことをとても愛していたと思う。母とは姉妹だったなら本当に仲の良いふたりになれたと思うし、弟とはもう少しきちんと最初から姉弟として出会えていたらきっとちゃんと仲が良かったんだと思う。  そんな不完全な家族の中に楠太朗を放り込んでいいのか未だに迷いながら家のドアを開くと、他所モードの母が出迎えてくれた。楠太朗には、今目の前に立っている他所モードの母のことも伝えてあったので「なるほど」という顔をしてサラリと母に挨拶をしていた。一方で弟とはびっくりするくらいのスピードで仲を深め、三人用のソファに楠太朗と弟のふたりで座り、どこから引っ張り出してきたのか分からない何かの雑誌を読みながら、ケラケラと大声を上げて笑っていた。弟のこんな無邪気な笑い声を聞くのは久しぶりで、この時は本当にびっくりした。年相応ではあるけれど、家庭環境のせいからか少し大人びて見えた弟がいま楠太朗の前ではただの小学生になっている。それを見て母も顔を綻ばせ、これはもう、ただの「良い家庭」なのではないか?と思わせるくらいの温かい光景が目の前に広がっていた。  だからか私はそれが少し面白くなくて、楠太朗と弟のふたりの間を割って座るようにしてソファに飛び込んだ。大きくバウンドするソファ。母も、弟も、楠太朗も、それを見て少し私をからかうような優しい笑みを浮かべて三人で目を合わせて笑っている。  実はこの時、私は少し泣きそうで、こんなふうにずっとやわらかい雰囲気の家族だったなら、なんて無謀なことを考えてしまった。今思えばこれが母と弟との最後の思い出で、最後がこれならまあ良かったのだと今では納得することができる。良かった、最後まで喧嘩なんてしてなくて。  夜に帰ってきた吉村さんは楠太朗を見て一瞬固まり、また母と同じように他所モードになって楠太朗を迎え入れた。つまみと日本酒を嗜みながら私たちの話を聞いていた吉村さんだけが少し浮かない顔をしていたのを覚えている。それが何故なのかを自分の中で考えて追求することもせずにそのままスルーした。きっとどうせ、ただ居心地が悪いだけなんだろうから。  私は吉村さんにあまり興味がなかったから、別に何を考えていようがどうでもよかった。私のバイト代を強請ることはあっても、それでも働いて最低限家族を養うお金を稼いでくれればそれでよかったから。
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