あの頃

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「じゃあ、お休み」 「明日学校ちゃんと行きなさいよ」 「はーい」 「それじゃあ失礼します」  結局、母との約束は破られることになる。それは母に丁寧に挨拶をして私の部屋に来た楠太朗でさえ、この約束を破るのを手伝ってくれたからだった。  半分物置と化している雑多な私の部屋の荷物を掻き分けて一枚の布団を引き、そこにふたりで並んで横になった。沈黙。ふたりとも考えていることは恐らく同じで、だからあえて口にもしなかった。寝転んだ頭上の、カーテンのかけられていないままの粗雑な窓から見えたのは偶然にも満月で、月が綺麗ですねだなんて、格好つけた意味なんかじゃなくそのままの意味でふたり月を褒めたりもした。 「死んじゃおっか」 「うん」  唐突に、自然に、楠太朗に死を提案した私は、少しだけ呼吸をするように間を空けてから返事をしてくれた楠太朗の方に寝返りを打って首元に顔をうずめた。  とく、とく、とく、と生きる音が聞こえてきて自然とそこに手が伸びた。殺してしまう為ではなくただそれをもっと確かめる為に、楠太朗が今生きているということだけを確かめるために、楠太朗の首を優しく絞めた。母や弟、吉村さんに聞こえないように声を殺して息を吐き出す楠太朗の心音も、脈打つ首元の感触も、私にはやけに大きく感じられた。 「ごめん」 「いいよ」  謝る私を抱きしめた楠太朗は、私の提案をすんなりと聞き入れてくれた。ただ布団に入っているだけで、特別何かが起きたわけでもないこの瞬間に訪れた希死念慮と、それを受け入れる歪なやさしさ。そんなあべこべな、けれど確かに以前から積み重なっていた死への感情がこの暖かな距離と温度の中でぽっ、と花咲いた。 「未練とかはない?」 「楠太朗は?」 「水族館、行きたいかな」 「じゃあ水族館行って、それで、どこかで」 「うん」  また静かになった。私と楠太朗と、月だけがそこにあって、少しだけ開けていた窓から吹く風が見えないカーテンを揺らす。何が嫌で死にたいのか、改めて頭の中で考えてみる。  具体的に何かあっただろうか、イジメられているわけでもない、このくらいの家庭環境の人なんてその辺にゴロゴロといるし、だからきっと何も無かったんだ。私には、人生を諦めること自体を諦めさせるものが何も無かった、きっとただそれだけ。目を閉じてふたり天井の方を向きながらそれぞれに考えている間の、静寂。  死を目の前に、まだ死んでもいないのに自分の中で遺品整理を淡々としているみたいだった。この家の間取りの都合上、この部屋のドアを開ければリビングに繋がっているから、まだ起きてテレビを見ている母の笑い声とテレビの音が微かに聞こえてくる。 「伊世はいいの?本当に」 「うん。もういいや。全部大丈夫」  楠太朗が私の名を呼んだから、だから涙が溢れた。母にバレないように、静かに泣いた。楠太朗が泣いていたかどうかは分からなくて、でも私だけがきっと泣いていた。楠太朗を巻き込んでしまっていいのか、まだそこだけに迷いがあって、それが涙に変わって溢れていく。 「ごめんね」 「謝らないでいいよ。俺も、もういいかなって思ってたから。ほら俺はシェアハウスだし、急に人が居なくなるなんてこともよくあることだから、大丈夫だよ」 「そっか」 「うん。ほら、明日は忙しいからもう寝よう」  シングルの布団で身を寄せ合って、明日に備えて意識を手放す準備をする。気疲れしていたからか、次に気づいた時にはもう陽は登っていて、朝が部屋に充満していた。清々しい程に晴天の、朝。 「おはよ」 「ん、おはよ」  弟はもう学校へ行ったのか脱ぎ散らかされたパジャマが畳の上に乱雑に置いてある。母も他所行きの格好をしてバタバタと支度をしていた。  良い顔をしたいが為に引き受けたPTAの集まりに向かうための着替え中のようで、私たちふたりにとってこんなに好都合なことは無かった。  形だけ私も学校へ行くふりをして母を見送り、小さなリュックに本当に必要なものだけを詰め替えて、母がいつも通る道とは違う道で最寄り駅まで出た。どこで母に捕まるだろう。ふたり逃げ出すところを見つかってしまうだろうか、仮に見つかっても今から学校なのだという言い訳が通るだろうか。私たちはふたりでどこまで行けるのだろうか。私は、本当に死ねるだろうか。  学校とは反対へと進む電車に乗っても、何も何一つも安心できないまま、肩を並べて不定期に揺れる電車の中でふたり不安を握りしめた。  どこまで、行けるかな。私たちは。
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