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店を出て目的地に決めたのは水族館。私には特に行きたいところなんて無かったし、普段あまり自分からどこかへ行きたいと言ってくることのない楠太朗の行きたい場所なんて、優先順位は当たり前のように私の中で一位になっていた。
行き先は品川。乗ったことの無い路線をなぞるように進む電車の中はさっきとは少し空気が違って、ほんの少しだけ澄んでいた。空気が澄んでいたのか、電源を落としてただの鉄の塊になったスマホの存在に私の呼吸が楽になっただけなのかは分からなかったけれど、今度は不安ではなく少しの期待を抱えて右に、左に、揺られていく。
「サメ、楽しみだね」
「うん。本当は油壺ってとこにサメが沢山いる水族館があるんだけど」
「そしたらそれは今度行こっか」
「伊世」
「分かってるってば、ごめんごめん」
次はもう来ない、本当に今日が最後の一日、そう分かっているのに次の予定を立てたくなってしまうのは、きっと隣にいるのが楠太朗だからだ。もっと知りたい、もっと話したい、もっと一緒に居たい。けど。
「楽しいな」
「伊世がそう言ってくれると嬉しいよ。水族館、もっと楽しいよきっと」
今がすごく楽しかった。だからこの時間を引き伸ばしたくなる、決めたことなのにそんな覚悟は数分置きに柔くなる。どんどん脆くなる。そして同時に死への覚悟も強くなる。背反している気持ちの中でこそ、今をきちんと見ていたかった。見ていなくちゃ、と思った。
「わ、ここ?」
「うん、一回連れてきたかったんだよねここ」
「お土産屋さんあるよ!」
「お土産はあとで」
笑いを堪える楠太朗にまた私も笑って、お土産屋さんは後回しにして窓口でチケットを買い中へと入った。
品川のはずれにあるこの水族館は品川にある水族館、と聞いて思い浮かぶ水族館ではなくもうひとつの方。電車もまあまあ乗ってようやくたどり着いた入口はシンプルで、ここからでは少し小さく見えた。
水族館なんて来たのはいつぶりだっただろう。確か弟が小さい時、そしてまだ私も小学生で幼かった頃。誕生日の弟の為に家族で行ったことはあったけれど、その時は走り回る弟を周りも驚く程の大声で叱りつけ続ける母と、ゆらゆらと何もせずにただ後ろを着いて回る吉村さんとの距離を保って歩いていただけだから綺麗な魚なんてちっとも見れやしなくて、馬鹿みたいにこの日のために新しく卸したスニーカーの先ばかりを見ていたのを覚えている。
ロマンチックに海底をイメージして作られた暗がりがただでさえ暗く沈んだ私の気持ちを暗くさせて憂鬱だった。
「伊世?」
「あ、うんごめん」
「大丈夫?回る前に何か飲もっか」
頷く私の手を強く優しく引いて楠太朗は自販機を探した。
「これでいい?」
楠太朗が指さしたのは私の好きな子ども向けの乳酸飲料。出会ってから長い間一緒に居るわけでもないのに、既に好みが全て知られてしまっているのではないかと思う程にはドンピシャなチョイスだった。
「うん、これがいい」
楠太朗が示したその人差し指を上から持って重ねるようにボタンを押した。ガシャン、と大きな音がして、そしてそのまま何も出てこない。わたわたと焦る私たちを近くで見ていた水族館の係員さんが声をかけてくれ、お詫びにともう一本選ばせてくれた。もう一本は楠太朗の好きなミルクティーを貰いその場から離れた。
楠太朗は、煙草に合うからといつでもミルクティーを好んで飲んでいた。だから私からすればタダでそれが付いてくるなんて幸運だった。一本だけ買うとなればどうせ楠太朗は私の好きな方を選んでいただろうし、そして実際にそうだったから。
「ラッキー、だったね」
「ね」
私のラッキーという言葉に少し身構えてから、楠太朗もキャップを開けた。楠太朗は次になにか悪いことが起きそうな雰囲気に凄く弱い。良い事があった後には悪いことが、ラッキーな事の後にはアンラッキーが待っているとどこかで思っている。そんなことないよと伝えても心のどこかではいつも不安がっていた。
『まもなくイルカショーの開演時間となります』
突然のイルカショーの始まりを告げるアナウンスに、と言っても、他のお客さんや水族館側としてもなにも突然という訳ではないのだけれど、館内に入ってまだ飲み物しか飲んでいない私たちにとってそのアナウンスは突然すぎるものだった。慌ててペットボトルをしまい込み目の前に設置されていた掲示板に目を向ける。次のショーは一時間後。見るなら今がチャンス。言葉も交わさずにそう決めた私と楠太朗は館内を駆け抜けた。
「え、イルカショーどこ?」
「こっち?」
「あ!こっち!書いてある!席も空いてるよ!」
『それではかわいいイルカたちのダイナミックなショーをご覧ください!』
席に着いた瞬間、ドン、と水しぶきが上がりイルカたちが一斉にジャンプをした。まるで私たちを大歓迎しているような、そんな錯覚。
「すごい!」
はしゃぐ私を見て、さっきからずっと燻らせていた何かを考えるのをやめた楠太朗は、まっすぐとイルカたちを見据えショーを見始めた。
「なんかさ、ジュース出てこなかったり走ったりしたけど楽しかったね」
「うん、そうだね」
いつもずっと何かを考えている楠太朗の不安そうな顔が今だけは和らいで見えた。あまり自分のことを積極的に話そうとしない楠太朗の悩みの種は、なんなのか。私に着いて行こうと決めることができた理由は、なんなのか。それがまだ聞けずにいる。もう少しでこの世界ともさよならをするというのに、こうして丁寧に身支度を、整理を、しているというのに、肝心なことは何一つ聞けていなかった。
知っているのはたくさんの好みと、嫌いなもの。ポテトを背の順に並べながら小さい方から食べること、猫舌なこと。本人を作り上げる一部は知っているけれど、その中までは触れられない。そんなの私だってきっと一緒で、出会ってからこんなふうに死のうと決めるまでがきっと早かっただけ。だから、知ることができない、だけ。私たちの欲する時間とこれから捨てる時間の、乖離。
また何度目かの大きな揺らぎ。楠太朗のことを知りたいと思えば思うほどに、手放せなくなっていく。もっとちゃんと中に触れたい、それにはまだ生活を続けないといけなくて。生活と放棄のその間で揺らぐ私と、目の前のイルカたちの泳ぎのリズムが柔く重なって振り子のように全てが大きく揺れる。
『みなさま、ご観覧ありがとうございました。次の開演は一時間ごとなっております。みなさまお集まり添えの上ぜひご観覧ください』
気づけばショーは終わっていた。イルカたちは凄かった。可愛かったし、水しぶきは綺麗だった。飼育員さんとの息もピッタリで。それでも私が上の空の間にイルカたちは自分の待機する居場所へと戻っていってしまった。あの子たちはどんな気持ちでショーを、なんて考えるほどにはセンチメンタルで、そんな人間には水族館なんて場所は向いているはずがなかった。
「伊世、行くよ」
呆然と座席に座り続ける私に声をかけた楠太朗は、優しく頭を撫でてくれた。何を考えているかなんて分からないくせに、と思ったが今はその手の温かさが拠り所になってそこから安心がじわじわと広がっていく。
「イルカたち、凄かったね」
「ジャンプも高かった」
「うん」
「ほか、回ろっか」
楠太朗の提案と温かい手に引かれ私は館内を歩いた。入口から想像するよりも館内は広く、平日の昼間、すれ違う人も少なく館内を歩くことにストレスは一切無かった。
次々に変わるテーマの中を進み、気づけばあの頃と同じ憂鬱な暗さの中にいた。深海。さっきまでとは違って胸の辺りがぎゅっと痛くなる。暗い海の底で暮らす魚や生物達の展示される場所。あの時の、幼い頃の沈んだ気持ちに飲まれてしまいそうになる。
「サメ、見ててもいい?」
楠太朗の声でハッとして足元から顔を上げるといつもよりもずっと無邪気な顔をした楠太朗がこちらを見ている。
「あっ、ごめんごめん、うん、いいよ。いっぱい見ておいで」
声を出さずに大きく頷いて返事をした楠太朗は、少し大きなサメの水槽の前へと向かいしゃがみこんでサメを眺め始めた。眺める、と言うよりは食い入るように、くるくると周回をするサメを何度も何度も下から見上げるようにして見ている。
楠太朗がこうして水槽の前でしゃがみこむ度に、私のこの水族館での思い出は楠太朗の背中で埋め尽くされていった。楽しそうでよかった、連れてきてもらえてよかった。
「伊世は〜?サメ見ないの?」
「うん、見ようかな。教えてよ、サメのこと」
嬉しそうに話し出す楠太朗の口角がきゅっと上がって、物珍しさについそこを見てしまえば「ほら俺じゃなくてサメ見てて!」と怒られてしまう。それが可笑しくて可笑しくて、何度も楠太朗の口元を見る。
「ちゃんと聞いてるー?」
「聞いてるよ。楽しい」
「そうじゃなくて、このサメのどこがカッコイイかってことをさ、伝えたいわけよ」
「もう充分伝わってるよ」
「ほんと〜?」
子供のように怪しむ楠太朗に「もう少しサメ見てていいからね」と声をかけてその後ろに置かれたソファでまた楠太朗の背中を眺める。
今がずっと続けばいい、家にも帰らずどこにも行かず、こうして水槽の前でずっと。そうすればどこかへ逃げる必要も、死んでしまう必要も無くなるのに。ただ私はこの暗がりの中に楠太朗とふたりでいたい。
さっきまでとは違う、そして幼かった頃とは違う感情をこの暗がりに抱えたまま。少しだけ聞こえてくる水槽のモーター音に耳を傾け目を閉じた。
ずっと、このままがいい。
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