星の下で

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星の下で

 水族館を出た私たちはとりあえず近場の裏路地に入って煙草を取り出した。家では当たり前のように吸えず、家を出てからも何だかんだでそんな気分ではなく吸えずにいたからか、久しぶりに吸うその一本はとても美味しかった。楠太朗もそれは同じようで煙草の先がチリチリと爆ぜるスピードがいつもよりも早い。私の癖のある匂いのインドの煙草と、楠太朗の甘い香りのする煙草。パチパチと音を立てて爆ぜる私の煙草の音を聴いていると不思議と心が均されていく気がして、吸い始めてからはずっとこの煙草だ。楠太朗の吸う煙草は音こそ静かだけれど、匂いはしっかり甘くその場を包み込む。私はそんなふたりの煙草の匂いが合わさる瞬間が大好きだった。  吸っている間の会話は少なく、距離もあえてそう近くない。そんなお互いの「自分」を守りながら日陰で吸う煙草は、私たちそのものみたいだった。日陰で、いつも誰かの顔色を伺って。ゆらゆらと身体を揺らしながら自分の中の気持ちを確かめるみたいにして、楠太朗は次の一本に火をつけた。 「楠太朗」 「ん〜?」 「プラネタリウム行きたい」  爆ぜる音を聴いていて思い浮かべたのは宇宙のこと、星のこと。今に限らずこの煙草を吸うとよく思い出すのだ。唐突に具体例を出してきた私に一瞬驚きながらも、楠太朗は快くオーケーをしてくれた。プラネタリウム、これも小学生の時に校外学習かなにかで行った以来かもしれない。沸き立つ気持ちを抑えながら火を揉み消して裏路地から出た。  水族館でお土産を買ってもらったのか、魚たちの描かれたカラフルな袋を振り回して走る女の子と目が合い、お土産を買い忘れたことを思い出す。まあいい、今更買ってもどうせ夜には必要が無くなっているのだから。別に、いい。ちっとも納得出来ていない気持ちの整理をするためにも、少しだけ大きく息を吸った。  女の子が袋から出して振り回すピンクのイルカのキーホルダー、今までは無視をしてきたようなそんな小さなお土産が今は羨ましくて。こうまでして生きることにギリギリまでしがみつく自分がおかしくなってしまう。けれど、既に覚悟を決めているであろう楠太朗の足と心を引っ張ってしまいそうで言えず、買えなかったお土産が死ぬ前のひとつの後悔になるのかな、と自虐らしくひとり笑いながら足元を見つめた。  裏路地から出た私たちは再び電車に乗って池袋駅を目指した。陽は少しずつ傾き始め、電車から降りて地下から地上に出た頃にはうっすらと星まで見えるほどに帳は降りていた。さっきまでいた水族館の周りとは違って高いビルに囲まれた池袋。東京に住んでいる私たちにとって今までこの眺めは何の変哲もないただの風景でしかなかったけれど、今は違う。高い高いビルから飛び降りてやろうと、それで皆が驚けばいい、それで問題になって、親も困ればいい、そんなことを裏路地で話したから、今は空を見上げる理由が直接、生きることを放棄する理由へと繋がっていた。 「あそことか、階段あるし入れたらいいのにね」 「カラオケとかも非常階段あるよ」  ビルに囲まれた人混みの中、人の苦手な楠太朗を人混みから隠す為に入った路上設置型の喫煙所で言葉を交わした。  疲れたサラリーマン、これから仕事であろうキャバクラのお姉さん。次はどこに行くかを話し合うカップル。誰もが下や相手の顔を見る中で私たちふたりだけが、私と楠太朗だけが、濃く濃ゆくなっていく空を見上げていた。  星が綺麗だからではなく、最期をどこに置くか、そんなことを決めるために。傍から見れば都会慣れしていないカップルがビル群を見上げその隙間にある星空を眺めているように見えているのではないだろうか。  数日前に左手に刻んだ傷が寒さで突っ張って痛くなる。さするようにして左手を気にしていると楠太朗がそんな私を見て言った。 「死にたいねえ」  それはなぜだか私にとってすごく前向きな言葉で、もうこんな傷を付けなくてもいいように、いろんなことを考えなくてもいいように、傷つかなくてもいいように、そんな意味を込めて「早く楽になれてしまえたらいいのにね」と、私には楠太朗の言葉がそう聞こえたのだ。自分のことで精一杯で自分勝手だった私は、この言葉をただの優しさだと受け取り、楠太朗がどういう気持ちで放った言葉なのかを考えることもしなかった。  もしこの時、楠太朗の言葉に何か一つでも声をかけていたら、聞き返すだけでもしていたら、これからの私と楠太朗の道筋はあんなことにはならなかった。逃げたい逃げたいとだけ考えていた私のひとつの間違いが、ここだった。そんな間違いに気づかないまま私は楠太朗に手を引かれ、唯一選べた最終上映のプラネタリウムのチケットを買い、席に座った。人もまばらな、静かな上映回。みんなもうきっとそろそろ帰るのだ。家や、大切な誰かの元へ。そんな場所なんてない私たちは終電もこの後の予定も何も気にせずにゆっくりと暗くなる室内で手を繋ぎ天井を見上げた。
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