星の下で

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「どこかいいところあるかな」 「伊世がどこでもいいなら、飛び降りるなら新宿がいいな。最後に食べたいラーメンがあるんだよね」 「ラーメン?」 「うん。この前お弁当作ってくれたでしょ、だからそのお礼というか、美味しいもの教えたくて」  数週間前に私たちは上野公園でお花見をした。付き合いたてで浮かれていた私は、食べきれないほどに大きなおにぎりをふたつずつと、ギュウギュウにおかずを詰め込んだお弁当箱ひとつを持って待ち合わせ場所まで向かったのだった。お腹がいっぱいになっても笑顔で美味しい美味しいと言って食べてくれた楠太朗の顔と、お花見には少し早い疎らな桜の花が瞬時に思い浮かんだ。あの時に食いしん坊だってバレちゃったんだっけ。 「お恥ずかしい話ですが」 「お腹すいたでしょ」 「へへ」 「電車乗ってすぐだし、行こっか。場所もそこで探そう」  時間にして数分の乗車時間。けれどそれは生きていることの残り時間とも比例していて、そのたった数分が私を足元から熱くさせた。この季節特有の座席下のヒーターか、それとも武者震いのような何かなのか、足元から巡る血でさえも熱く感じる。これが生きるということの現れだとしたら、死ぬ間際に全身がきっと怯えているのだ。怖いと、素直に言えないままただ熱く怯えている。  久しぶりに降り立った新宿は池袋よりもたくさんの人で溢れかえっていた。そうだ、いつもそうだった、何故かここにくるとスっと力が抜けて呼吸が楽になる。いろんな人々が居るということはこれほどにも肩の荷を降ろさせてくれるのだ。地元であれば、普段見ない顔の楠太朗をチラチラと見てくる人ばかりだった。ここでなら、皆が皆に等しく興味が無く、何をしていようと多少のことなら無視をしてくれるから。だから私も楠太朗もここが、新宿が大好きだった。  思えば、楠太朗との出会いも新宿のバーでお酒の力に頼ってリズムに合わせ自分を揺らしている時だったな。楠太朗に声をかけたのは私の方で、強引に近寄る私に最初は驚いたと言っていた。その後、流れで連絡先を交換することになり数週間で付き合うまでの関係になった。  所謂ラブラブなカップルとは違って、その瞬間からよっかかり合うダメなふたりだったとは思う。そうでなければきっとこうはなっていない。まだ暖かさまでは持ってこない名だけの春の夜がさっきまで火照らせていた私の身体をこれでもかと冷やした。  楠太朗が連れてきたかったという、楠太朗の地元発祥のラーメン屋。ドアを開ければ、想像上のあたたかな家庭のドアを開けた時のようなやさしく温い風が逆流して顔に当たる。いらっしゃいませの声がおかえりのように聞こえて、寒かったからか、他に理由があるのか、ふと泣きそうになった。こんなあたたかいおかえりを感じたのはいつぶりだろう。 「最後の晩餐」  テーブルについておしぼりで手を拭く楠太朗がそう言った。ふざけてその言葉を使うことはあっても、本当に最後の食事を前にして使うのはきっとこれが最後だ。 「うん」 「だからいっぱい食べなね」  楠太朗にはバレているけれど、こんなときまで私ってのは食いしん坊だ。メニューを捲りながらセットのページで手が止まる。餃子、チャーハン、ラーメン。半ばヤケになりながら全てがついているセットを頼んだ。しばらく悩んでいた楠太朗もそれなりの量を頼んでいた。  料理が届くまでの間、私たちは一言も言葉を交わさなかった。相手が何を考えているのか分かればいいのに、私はそんなことばかりを考えていた。もしかしたら楠太朗も迷っているかもしれない、もしかしたら言えないだけかもしれない、もしかしたら私と同じかもしれない。すっかり生きることへと揺らぎが大きく傾いてしまっていた私は、これを最後の晩餐にできる気がしなかった。ただ美味しいねって食べたら、またどこかへフラフラとふたりで向かう、それで良かった。けれどもう戻れない。水族館やプラネタリウムで見た楠太朗はきっともう覚悟を決めていたから。言い出しっぺでここまで振りまわしてきた私が今更、やっぱりだなんて言えるわけがなかった。 「いただきます」 「いただきます」  美味しかった。何もかもが今までで一番。これが最後なのだと一気に実感が押し寄せて湯気に涙を隠して泣いた。全然隠せてなくてもいいから隠したかった。美味しいから泣いたってことにしたかった。だから何度も何度も「美味しいね」と口にした。それが嘘ではないくらいに本当に美味しかった。  口に入れるもの、それは本当ならこれからの生きていく糧になる、それを私たちは今から断つのだ。だというのに、こんなに罰当たりな食事はないのに、それでも美味しくて仕方がなかった。向かい側に座る楠太朗を見ればそれは楠太朗も同じようで、何かが途切れてしまわないように必死にかきこんでいた。この店内で私たちだけがこんなに必死で、それを怪しげな目で見る人も不思議そうに覗く人もおらず、新宿のど真ん中で食べるラーメンの安心感が私と楠太朗をやさしく抱きしめていた。 「美味しかったね」  先に食べ終わっていた楠太朗からからあげをひとつ貰って食べていた私が箸を置くと楠太朗がそう口にした。私が「うん」と答えると、遅れて出されたデザートのようにまた静寂がテーブルに並べられる。これからすることはもう分かりきっているからこそ、このあたたかくてやさしい場所からなかなか出られない。  何杯目か分からないお冷を飲み干して私たちはようやく冷たい風吹く外へと出た。上を見上げる。見渡す限りビルばかりで、今日訪れた場所の中で一番狭い空。そんな空の中にもきちんと一番星はあって強く固く光っていた。さっきまで見ていた満天の星空よりもずっと星の数は少ないのに、それでも私はこっちの方が好きだった。
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