星の下で

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「なかなか入れる場所、無いね」 「新宿は人がよく飛び降りるからね。夜だと難しいのかも」  確かにニュースでも歌舞伎町では定期的に人が落ちる。一時の話題にはなれどすぐに忘れ去られていくことを思い出して憂鬱になった。別に語り継がれられたい訳ではないけれど、迷惑だの可哀想だのとニュースになってその後あっけなく忘れ去られることまで含めて「死を選ぶ」ということなのだと、諦めの感情が湧いた。この世から居なくなるということは、ごく一部の人間を除いてきっとそんなものなのだ。家族でも、遺影として飾られいつかは受け入れられる。ずっとずっと悲しみに浸っていてくれる人なんてのはきっと本当に極僅かだ。  だからそれを求めるのは、甘えであって無理難題だった。それなら、楠太朗とふたりどこかから飛び降りて、すぐに忘れ去られてしまう方がずっといい。誰も覚えてくれなくていい、忘れてしまって欲しい。母への復讐だけが少しでも出来ればもう後はどうでもいい。 「伊世、今日はもう遅いからまた明日にしよう。どこかで探されてて見つかっても面倒だよ」 「うん」  私はこの時心底ほっとした。まだ、まだなんだと思って喜んでしまった。良かった、まだ楠太朗と一緒にいられる、そう思って頬が緩んだ。それとは反対に楠太朗は少し難しい顔をしたまま空を見上げていた。  少し傾いた星のせいで一番星は見えなくなって、新宿のネオンの明るさに隠れてしまう小さな星ばかりになっていた。この人混みで迷子にならないようにと楠太朗に手を引かれラーメン屋からそう遠くないラブホテルに入った。  見た目が幼い私たちふたりを若干怪しみながらもスムーズに受付をしてくれた受付のおばちゃんに新宿らしさを感じる。取ったのは無難な二階の部屋。ビジネスホテルとそう変わらない内装、置かれている小物、ベッド。ビジネスホテルと違うのは隣の部屋から嬌声が微かに聞こえてくるということだけ。そんな声に少しも揺さぶられないまま私たちは一人ずつシャワーを浴びた。一緒に入るのは恥ずかしかったから、一人ずつ。  恋人同士というよりも寄りかかっているだけ、そんな関係の私たちはセックスをすることはあっても、ただやり場の無い気持ちを押し付け合う行為が形になっているだけでお互いを求め合ってしていた訳ではなかった。それが少し寂しくもあり、ちょうど良い距離感でもあった。 「伊世」  楠太朗のシャワーを待ちながら考え込んでいたところに突然名前を呼ばれ焦ってしまった。口篭りながら返事をすると、楠太朗は身体を拭きながらベッドの隣に並び真正面を見たまま、壁と話すようにして私に話しかけた。 「本当に死にたい?」  いつかは聞かれるだろうと思っていたその言葉に覚悟は一切無かった。黙り込む私に楠太朗は続ける。 「伊世が嫌なら辞めてもいいんだよ。生きたいなら、それならどうにかして生きられるように考えるから」  やさしく諭すような言い方、私の全てを知っているかのような図星な言葉、それら全てが私を落ち着かせない。耳を塞ぎパニックになる私を楠太朗は優しく撫でた。頭は嫌だと私が言えば背中を、それさえ嫌だと言えば触れずに待っていてくれる。  楠太朗はどこまでもやさしかった。だからこそ今この場所から逃げてしまいたかった。そんなやさしさにまで縋って「もしかしたら」と甘えていた自分が恥ずかしかった。最初から自分で「生きたい」と言うべきだった。でも言えなかった。死にたいと言い出したのは私だから。私が楠太朗を巻き込んだから。  「伊世!」  部屋を飛び出しエレベーターへ向かった私は一階へ降りてフロントを無視して外へ飛び出た。財布もスマホも持たずに身一つで飛び出た新宿の街はとても大きくて、広かった。数秒立ち止まった後、とにかくどこへでもいいからと逃げるためにただ走った。  知らない路地裏、知らない店、知らない人たち。私が泣きながら走る光景を見ても少しも驚かない新宿の人たちに安心しながらも、この後どうすればいいのかを必死に考えていた。楠太朗が居なくなったら、母に見つかったら、もし警察が探していてあの家に戻されたら。走ってどこまでも逃げ切れるような体力なんてものは私に無くて、しばらく走った先にあったコンビニの小さな看板に隠れるようにしてしゃがみ込んだ。見れば少し先に酔い潰れて寝ている人がいる。その人も私も、誰もが見向きもせずに街は流れていた。 「はぁ……はぁ……」  思考を整えたいのにまず息が整わない。高校を卒業して専門に入ってからロクな運動なんてしていないから、こんなちょっとの距離を走っただけでこのザマだ。  ポケットにかろうじて入っていた煙草に火をつけしゃがんだまま息を吸う。吐き出す白い息ともに独特な香りの煙が空へと消えていった。少し落ち着いた頭で考える。さて、どうしよう。もういよいよ私には何も無い。帰る場所も、居場所も何も無い。作る気力だって。短くなった煙草を八つ当たりのように地面に押し付け、火を消した。 「伊世」  どこかで、呼ばれると分かっていた自分の名前。また私は甘えている。見つけてくれると思っていた。涙が溢れる。飛び出してきた手前素直には帰れない。引っ張られる腕を振り回して振りほどこうとするけれどそれを楠太朗は許してはくれない。とことんやさしい、大馬鹿者。わっ、とさらに強く泣き出した私を抱きしめた楠太朗は何をするでもなく話し出した。 「伊世を追いかけながらキャッチの間を通り抜けてきたんだけどさ、あの間を走るのってちょっと楽しくてさ、でもさ、こんな自由で広い街の中で伊世を見つけられる気がしなかったから、良かったよ。見つけられて」 「怒ればいいのに」 「怒らないよ。怒れるわけないでしょ、たくさん考えてたはずだし」 「お人好し」 「伊世好しだよ。伊世だけ」 「馬鹿じゃないの。馬鹿だよ、馬鹿」 「そうだね」  気づけば涙は止まり、荒くなっていた呼吸も落ち着いていた。少しずつ冷静になってきた頭で考える。そして言葉にしようと胸の中を必死に引っ掻き回した。言葉の準備は出来てる、後は言うだけ。なのにそれが上手くいかないままぐちゃぐちゃになる。息を吸う、息を吐く。 「楠太朗」 「ん〜?」 「生きたい」 ゆっくりとした瞬きだった。ザワザワ、ガヤガヤと賑わい流れる街の中で一等ゆっくりな動きだった。時が一瞬止まったみたいに目を閉じた楠太朗は、またゆっくりと目を開き私をいつになく真っ直ぐと見つめた。 「うん」  それだけで充分だった。これからの道筋を決めるにはこれ以上の言葉は必要無かった。楠太朗が立つのを手伝ってくれてようやく元の目線に戻ることが出来る。行く場所も居場所もなくただ地面と空しか見ていなかった私は、立ち上がって目を合わせたネオンたちに立ちくらみしそうになった。軽くふらついた私を楠太朗は片手で支えて優しく微笑んだ。 「無茶なことするから」 「ごめん」  散々泣いて喚いた私の喉はカラカラで、謝る声もガサガサだった。それを聞いた楠太朗はアハハと声に出して笑い出し、照れ隠しをしながら私も笑った。今日、ふたりが出した声の中で一番大きな声だった。ひとしきり笑って数秒の沈黙が私たちをそれぞれに整えた後、さっきまで私が隠れ蓑にしていた看板のコンビニに入って飲み物を選んだ。店内は外とは違って静かで、客も何組かは居たが店員はのんびりとしていて暇そうだった。いつでもどこにでもあって、大抵は同じ品揃えのコンビニがこんなにも安心するなんて知らなかった。少しは変わってもいいのに、なんて思っていたときもあるくらいなのに。  変わらないものがどこかに必ず在ってくれるというのは、こんなにも心強い。いつも選ぶ乳酸飲料を手に取り、これもまたいつも通りにミルクティーを選ぶ楠太朗を見ては安心が重なっていく。もう大丈夫、これからはふたりでどうにかしていける。きっと大丈夫。  コンビニからラブホに戻るとこちらの顔を見るなり静かな声でフロントのおばちゃんに怒られた。それもそうだ。料金は前払い制だったとはいえ急にふたりしてホテルを飛び出してきたのだから。驚くのも怒るのも当たり前だった。しかしおばちゃんはそれでもどこか慣れている様子で、軽く口頭で注意するだけで終わらせてくれた。そんなおばちゃんの態度にまた安心して、自分たちのような人間がこの辺にはきっとまだたくさん居て、今日もどこかで生きているのだと、そう思えた。  おばちゃんにふたりで頭を下げて謝り、私と楠太朗は部屋へ戻った。
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