④  @一宮 美幸

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④  @一宮 美幸

 予想通り少年は誰にも犯されてはいなかった。少年が気を失っている時に医者に診せたから確実な話だ。  今までもこういう経験はなかったようで、今回の抵抗による身体のあちこちについた打撲痕以外は綺麗なものだった。  俺はあの時咄嗟に「すまない」という言葉と共にこの少年の項を噛んでしまった。それは何に対する謝罪か――、勿論勝手に噛んでしまった事は当然だが愛を求めて震えるこの少年にこれから俺がつく『嘘』についての謝罪だった。  行為もなく項を噛んでみたところでただ噛み跡が傷として残り、いずれは消えてしまう。  幼い頃から母と同じように財界の頂点に立つ事だけを考え、ひとつを除き無駄な物は全て切り捨ててきた俺の人生の中で、合理的じゃなく何の意味もない行為だった。  無理矢理意味を持たせるとしたら――それは母に対する反抗心。  求める事すら許されなかった母の愛。  愛なんてなくてもいいと全ての物を切り捨ててきた母の生き方。  俺はそんな母の姿に憧れると同時にどうしようもなく寂しく――憎かった。  俺はαであるのにΩである母より劣る人間で、母のように強くはなれない、本当は愛が欲しくて堪らなかった。  だが何も言えないまま、今の今まできてしまった。  母に失望されてしまう事が怖かったのだ。  俺が今まで全てを捨ててきた中で、ひとつだけどうしても手放せなかった赤い瞳(ぬいぐるみ)、この少年の瞳の色も同じく赤だった。  赤い瞳に何故こんなにも惹かれてしまうのか俺自身にも分からない。だが、あの時俺はどうしようもなくこの少年の赤く、濡れた瞳に心惹かれた。  この少年がどういう理由であの場にいて、何故あんな絶望的な状況下にいても愛を欲したのか……、普通ならきっともう全てを諦めてしまっていただろう。逆らわなければこの少年の身体に残る痕も少なく済んだはずだ。  この身体に残る痕は少年の『強さ』。  だとしたら弱い俺を救ってくれるだろうか?  この少年が傍にいてくれれば俺は強くなれるだろうか?  俺が少年を利用する事を許して欲しい。  その代わり俺の愛をあげるから、どうか――。  真っ白な顔でベッドに横たわる少年の、あの時ちらりと見えたまるでルビーのような美しく光る赤い瞳をもう一度見たくて、少年が目覚めるのを傍で黙って見ていた。  結局目覚めた少年は俺が傍にいる事に気づかないままひどく怯えた様子を見せた。だから俺はとっさに子どものフリをする事にしたのだ。 *****  突然得体の知れないΩを番だと連れてきて、子どものように振舞う俺を母はどう思うだろうか。呆れる? 嘆く? 今度こそ見捨てる?  あれ程恐れていた事なのに、今となってはそれはそう意味もない事のように思えた。それよりももっと重要な事があったからだ。  番であれば、あの時のように簡単に取り上げる事も捨てる事もできないはず――、この見ず知らずの少年を奪われてしまう事だけが怖かった。  偽物の番、俺の――――()()兎。
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