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「――揶揄ってる、のか?」 「揶揄う? 僕はそんな事しないよ。僕はお兄ちゃんと仲良くなりたいだけなんだ。ねぇお名前は?」  名前……俺に名前があるのかないのか、それすらも分からない。誰も俺の名前を呼ぶ人はいなかったから分からないのだ。「ちょっと」とかたまに揶揄い交じりに「坊ちゃん」なんて呼ばれた事はあったけど、ただの一度も俺の事を名前で呼ぶ事はなかった。外の世界を教えてくれた最初のメイドたちでさえ名前を呼んだりはしなかった。年齢だけは二次性判定の時に知った。  黙って俯く俺をどう思ったのか男は、 「白兎(はくと)……お兄ちゃんって呼んでもいい?」 「はくと……」  ぽつりと呟く。俺の――名前……。  少しだけ口角が上がる。まるで大切な人へのプレゼントを貰った気分だ。 「嫌だ? お兄ちゃんは兎さんみたいに髪の毛は白くておめめは赤いから、白い兎って書いてハクトって読むの。お兄ちゃんの本当のお名前知りたいけど……今はいいや。もっと仲良くなったら教えてもらうね。白兎お兄ちゃん」  そう言って何が嬉しいのかふわりと笑う男。  俺は無言で小さく頷いて応えた。  誰かに名前で呼ばれる事が嬉しかった。けれど男が俺に手を伸ばした事であの時の記憶が蘇る。 「ひっ!!」  未だ身体のあちこちに残る嫌な感触と生々しく残る恐怖がフラッシュバックする。  笑いながら人をいたぶる異常者たち! 「いやぁああああっ!」  叫び声を上げ美幸からできるだけ離れ、胎児のように丸まった。誰も助けてはくれない。自分で自分の身を護らなくてはと必死になって両手で自分を抱きしめる。  しばらくして男は、その場から動く事はなく震える俺に優しく語り掛けた。 「大丈夫だよ。ここは怖い事なんてひとつもない。白兎お兄ちゃん、僕が傍にいるからね。何があっても何が来ても大丈夫。『番』の僕が守ってあげる」  本当ならこんな得体の知れない相手に何を言われたって怖く、嫌悪感を抱くはずなのに段々落ち着いていくのが不思議だ。  それでも目の前の子どものフリをする男の事を完全に信じる事はできなくて、聞かずにはいられなかった。 「お前は――誰だ!? 何故俺はここにいる? アイ……アイツら、はっ」 「僕は僕だよ。一宮 美幸。あのね、僕たちは『番』というやつなんだよ。だから僕たちは一緒にいるの。他の人の事なんて知らないし関係ないよ。僕と白兎お兄ちゃんが番で、ずーっとずーっと一緒にいるって事だけが大事なんだ。白兎お兄ちゃん、大好きだよ」  そう言って男は瞳を三日月にさせて微笑んだ。  だけど俺は番という言葉にギクリとなる。  俺は今さっきどうにかしてここから逃げ出そうと考えていた。  こんな事故にしろ無理矢理にしろ番ってしまった奴から愛情なんて貰えるとは思えない。それなら番なんて要らない。  それに――――。 「はっ。お前が十歳だと言うなら俺と番えるわけがないじゃないか。アレは大人にならないとできないはずだろう?」  実際この男は大人なのだから番になる事は可能だろう。だけど本人が十歳だと言って譲らないのでつい意地悪を言ってしまう。番はΩがヒート中にαの精を身体の奥に受けて項を噛まれなくてはいけない。子どもだというなら精通もまだなはずで、たとえ項を噛まれたのだとしても番関係は成立しない。この知識は「絶対に忘れないで下さい」と最初のメイドに何度も教えられた事だから確かなはずだ。 「うーん。僕も良く分からないけど、でも僕と白兎お兄ちゃんが番なのは間違いないんだよ。僕が白兎お兄ちゃんのαで、白兎お兄ちゃんが僕のΩだって事なんじゃない? だから年齢なんて気にしないでいいと思うんだ、ね?」  男に両手を握られ思わず手を引こうとしたけど、思いのほか強く握られていてそれは叶わなかった。  男に握られた手は少しも痛くなく、さっきみたいに怖くもない。温かくさえ感じる。 「僕の事は『美幸』って呼んでね。これからは何だって一緒だよ」  男……美幸の言葉と笑顔にドキドキと鼓動が早まる。  ずっと夢見た事だった。ずっと求めたモノだった。それをくれると言うの?  とはいえこんな状況、少しも納得も理解もできないし信用だってできない。  だけど美幸の温もりを両手に感じながら、なぜかその手を振り払う事ができなかったんだ。  どっちみち俺には行くあてなんてひとつもない。俺に危険が及ばないというのならしばらくはここにいてもいいかなと思った。  ――――俺の『番』……。
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