【結子の地獄、——開演。】

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【結子の地獄、——開演。】

——親しい友人が亡くなった。 僕は長い間、彼女に寄り添って来た。愛して来た。人生の大半を、彼女の為だけに費やしてきた。 それしか、生きている意味が無かったのだ。——僕の全て。完璧な存在意義だった。 葬儀に参列して、一通り挨拶を済ませ、今帰路に着いた。 美しい彼女の最後にしては、呆気なく詰まらないセレモニーだった。僅かばかりの香典と引き換えに、引き出物を貰った。引き出物をぶらぶらさせながら、僕は鈍色の冬空の下をトボトボと歩いた。引き出物という言い方は、祝いの時の物なので、本当はこれを引き出物とは言わないらしい。厳密にはなんと言うかは知らない。そんな事、生きている人間には、どうでも良い事なのだ。骨身に染みる入る寒さに、肩をすぼめ、コートの襟首を、きゅっと手で上げる。外気が僅かにでも入って来ないように。そして、鼻を啜った。意識して歩くスピードを上げて、体温を上げようとしたが、まるで意味が無かった。温まる以上に、向かいから来る風で体が冷やされた。式場も凍えるほど寒かった。暖房を焚いてくれていたが、気休め程度にもなっていなかった。 分厚い鋼鉄をニキニキと力尽くで引き裂くように、鈍色の空が割れて、そこから解放された薄紫の淡い光が街に射す。黄昏時の路地は薄明るく、ほの暗く、矛盾していた。地面が歪んで見えた。ゆらゆらとアスファルトが波打っているようで、上手く歩けない気がする。——気分が悪いのは、悲しみからか? 世の中は普通に流れているのに、自分は別の世界に陥ってしまったような、不思議で恐ろしい感覚に包まれていた。全身に黒い闇が纏わり付いている様だ。その黒い闇は、死だろう。結子に訪れた死が、今度は僕にも纏わり付いている。まるで悪い夢の中に閉じ込められてしまったかのようだ。いや、これが全て悪夢だったなら、どんなに良いか……。人、一人が世界から消えるという死という神秘は、そういう事なのだろう。 死という物を、頭と、知識と、宗教では、そこそこ理解しているつもりなのだが、その物自体を実感として僕はあまりに知らないのだ。例えば僕が、死に割りと近い職業である医師や葬儀屋、もしく兵士などであったとしても、他人の死を多くは知っていたとしても、身内の死はやはり今の僕と同じく多く知る事は無いだろう。どんなに酷い死でも、赤の他人の死と、安らかな老衰であっても、身内の死は一切全てが違うのだ。 死にも種類が在る。それはランクではなく、自分を中心とした時に、死した相手との関係性の中で生まれる物で、それは誰かの死が、僕に与える影響力の差のような物と言えば良いだろう。例えば、僕は太陽のような物だ。いや、僕だけでなく人は皆太陽のような物で、一人一人の周りに沢山の人が、惑星のように各々距離を決め回って、小さな銀河系を作っているのだ。死とはその銀河の中の、惑星の一つを失う事で。同時に自分が死ねば、ビーズを繋ぐ糸が切れるように、自分が作っていた小さな銀河系も一つ消える。結子が死んだ事で、僕という銀河の中の結子惑星が一つ消滅し。結子系という銀河も同時に一つ消えたのだ。 死とはこの様に、二つの、大きな耐え難い喪失があるのだ。 此処で言う身内というのは、何も血を分けた者の事を言うばかりではない。良く知る親しい人を失うと、身を裂かれる思いなどという人が居るが、なんと言うか自分自身を構成していた肉を、無理やり引き千切り取られるような感覚が確かに僕にも在った。刃物の切られた様な冷たい痛みと、抉り取られるような喪失感。自分を造っているのは、自分個人だけではない。自分と他人との関係性の中で、自分という人間が築かれているのが、他人の死を通して実感として良く分かる。自分を少し失った気がする。少しといったって、どのくらいなのかと言えば、例えば肉体の少しだとしたら、指一本くらいだろうか。たった指一本だが、死ぬ事はなくとも、大きな損失だ。失う指の種類によっても違うが、かなり今後の実生活で困るだろう。指や手や足と同じように、心もこういう事故により喪失する事があるのだ。 こういう事故というのは、死した相手にとってではなく、僕にとっての事故という意味だ。つい数日前まで一緒に居た、結子(ゆいこ)が自らの意思で命を絶った事だ。 小さく可愛い結子は、いつもニコニコして笑っていた。良く歌うし、おしゃべりが好きな子だった。結子は良く喋るが、声が小鳥のように小さいので、耳を澄ませて聞いてやらねばならなかった。聞き損じると結子は機嫌を悪くするから——。 結子はとても歌が好きな子だった。そして同じくらい、死に取り憑かれていた。取り憑くという表現が最も正しい。死に魅了されていたわけではないのだ。結子は死にたくないと強く思っていたのに、辛い事があると、衝動的に死のうとした。それは病的で、本当に取り憑かれていたとしか言いようの無い物だった。だから僕はずっと、ソレらから結子を護って来たのだ。それが僕の使命であり、生まれ堕ちた宿命でもあった。それくらいに僕は結子を思って来た。  「……。」 などと、結子の死について、頭の中で思いつく限りの色々な理屈を並べてみたが、だからと言って何か自分を納得させられるもがある訳でも無かった。ただ、死とはこんなものでした。——と、経験を通して感じた事を、自分自身に語っただけだった。虚しくなるだけだ。下らない。つまらない。浅い。分かっていない。と、今度は存分に自己否定する。結子を死なせてしまった不甲斐なさに、自己嫌悪と自己否定の泥のような念が心の底から湧いて来る。気が滅入る。そう言えば、結子の葬儀で驚く事があった。その事を、ふと思い出した。 結子の葬儀を始める前に、式場のロビーで幼児が激しく泣いていた。やっと立ってヨチヨチ歩きを始めたくらいの子で、まだ赤ん坊といった方がいいかも知れないくらいの子だ。必死に母親にすがり、まだ乳を欲しがっていた。母親は前掛けのような物を鞄から出して、それで胸元を隠して子供に乳をやった。その母親の側で、夫らしき男が母親の名前を呼んだ。その名前を聞いて、彼女の顔を見て、僕はハッとした。彼女は幼い頃に、良く遊んでいた子だった。少し年上で、とても優しい子だった。そう、まるで本当の姉のように——。なぜ彼女が此処(結子の葬儀)に居るのだ? あり得ないような偶然だが、確かにあの子だ。間違いない。生前の結子と、どんな関係があったのか? 僕はまったく知らない。彼女の素性が分かった途端、彼女の名を呼んだ男が、夫ではない事も直ぐに分かった。僕は遠い昔の記憶を思い出した。彼は夫ではない、彼女の弟である。彼を最後に見たのは、彼が小学校に上がったばかりくらいの時だったろうか? いや、もっと幼かったかもしれない。とにかく、幼かったのだけを覚えていた。 2人の姉弟に、また別の男が話し掛けた。彼が本当の、彼女の夫なのが会話から分かった。僕は彼らと同じ時間を生きていた筈なのに、彼らとの間に在る、何だか分からない分厚い超えられない壁のようなものを感じだ。彼らが現実の道を歩んでいる間に、僕は夢現の世界で遊んでいて出られなくなってしまったような奇妙な疎外感を感じた。知らぬ間に彼らだけきちんとした大人になってしまい、気付けば、自分はずっとあの時遊んでいた時のままなのがはっきりと分かって、僕の中に言い知れぬ恐怖や失望感、喪失感などを含むネガティブな絶望的感情が湧き上がって来た。僕は彼らに近寄る事も無く、自分の素性も話さなかった。——いや、話せなかったのだ。それどころか、気付かれぬように、ロビーの端で怯えたように身を縮めていた。早く式が終わり、この場から逃げたい、とさえ思った。そう思っていると、乳を貰い機嫌をなおした子供が、頼りない足取りで急に走り出して、僕の方に向かって来た。——どうしようっ!? と僕は焦った。すかさず母親は子供を抱き上げ、あぶないでしょと叱った。彼女は僕にまるで気付いていないようだった。僕の見た目も、幼い時から、大分変わったのだろう。僕はホッと一安心したが、少し落胆もした。情けなくも、内心どこかで懐かしそうに声を掛けられる事を期待していたのだ。久しぶりね? とか、元気だった? とか、そんな風に他愛も無い言葉を——。その事に、ふと気付いてしまった。結子を失い、少し人の温もりに飢えていたのかも知れない。 人を失うという非日常的な最悪の悪夢の中で、僕は自分の人生もまた一つの夢の中であった事を知ったのだ。彼らを見て、僕の人生の中に居た結子の死も、またえらく現実感の無い物のように感じられた。まるで、これは劇中のワンシーンである、というように感じられた。彼らに比べたら、なぜか結子の葬式は随分と嘘臭いしらけた物のように見えた。遺影も、飾られたお花も、良く見れば全部上手に作られた芝居の小道具に見える。泣いている親族や親しい友人さえ、配役された役者達に見える。遺影の結子顔なんか、何処と無く結子に似せて女装させた男にすら見えてくるから酷い。まるで、滑稽な田舎芝居の一幕のようだ。 僕は結子の死が夢なら良いなと思いながら、同時に僕の今までの人生は夢のようだったと深く絶望していた。 そうだ、この演目の名前は——、 『結子の地獄』だ。 結子の終わりの物語なのだ。 あの時、僕は葬儀場のロビーの隅っこで、一人密かにそう思ったのだ。  その時、——突然、暗い路地の影から、一人の少女が僕の前に飛び出して来て、闇夜で車のライトに照らされた黒猫のような瞳をして前に立った。僕の意識は強制的に現実に戻される。 そして、少女は僕に微笑み掛けて、手招きをした。来いというのだ。だから僕が近付くと、——少女は突然走り出した。僕はそれを見て止まった。すると少女は少し先で振り返り、また手招きした。やはり、僕に付いて来いと言うのだ。だから、僕はその不思議な少女の後を追った。
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