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【一の地獄、神社での事】
僕は少女の後を駆け足で追い掛けたが、途中で見失ってしまった。
——僕はふと気付く。
此処は結子の生まれた東北の街。僕は此処を知らない。
なのに、この道を曲がると、確か神社が在る筈だ、と思った。
確かに道を曲がると、その先に神社の真っ赤な鳥居が見えた。僕はこの予知夢のような現象に驚いた。不思議だ。こういうのを既視感というのだろうか?
だが特に悩む事も無く、直ぐにその疑問に対する答えは、自分の中で出た。
きっと此処は誰の心の中にでも在る、幼少期見た日本の原風景なんだろう、と思った。
この街自体は知らないが、この街と似たような風景は、嘗ての日本には何処にでも在ったのだ。だから知っているかのような気がするのだろう。経験の中で、潜在的に脳裏にインプットされている景色なのだ。でも不思議な事に、こういう風景は、こんな風景を全く知らない都会育ちの人間の目にも懐かしいと映り、さらに最近知った事だが外国人にも懐かしく映るらしいのだ。不思議だ。経験してない事を懐かしいと感じる。しかも外国人にいたっては、まるで文化の違う異国の風景を懐かしいと思うのだ。不思議だ。そうなると最初に出た答えでは、しっくり来なくなる。
なぜそんな現象が起きるのだろう? それはきっと——。いや、そんな筈はない。でも。……前世。まさか? アホくさい推測だ。僕は自嘲して首を振る。人は死したら、そこで終わりである。
ふと神社の本殿の方を見ると、階段を駆け上がる少女の背中が見えた。
きっと、さっき見失ったあの少女だ。僕はその後を、急いで追った。
急いで少女の後を追い、階段を駆け上がり、境内に着くと、一人の中年男が小さな少年に馬乗りになって首を絞めていた。
ぜぇぜぇと細くなった喉の隙間から、息を必死にしていた少年の赤い顔は、すぐ赤黒く変色して、男の手を必死に除けようとしていた手からは、力が抜けていくのが見ていても分かった。
僕は予期せぬ展開に、どうすべきか、狼狽えながらも必死に考えた。
もし飛び出して行って男を蹴飛ばし払い退けても、僕の細い手足では、あの野蛮な男に返り討ちにされるかもしれない。きっと一緒に殺される。そう思うと怖くて足がすくんでしまう。
見捨てて逃げるにも逃げられず、パニックになり掛けていると、誰かが袖を引いた。
それは、さっきのあの少女だった。少女は無言で、一本のジャックナイフを僕に差し出した。
これがあれば、あの少年を救えるかも知れない。少女は顎をちょっと上げて、早く取れという。
僕は恐る恐るナイフを受け取った。折りたたまれたジャックナイフを開く。ナイフのブレードは、境内の外灯のチラチラとした光を受けてギラリと輝いた。その光は、何故か僕を興奮させるモノがあった。これで、ちょっと脅してやれば良い。その時は、そう思ったのだ。
僕は男に駆け寄り、肩口を掴み、やめろっ! と力一杯叫んだ。
男は僕に気付き、鬼の形相で掴み掛かって来た。凄い力だった。体が右へ左へと振り回される。コートが千切れそうだ。
力では到底勝てないと思った。僕は無我夢中で、思い切り男の首に、持っていたジャックナイフを突き立てていた。その後は覚えていなかった。夢中だったのだ。気付くと、男が道で引かれた野良猫のように、力無くだらんと仰向けに体を投げ出して、口から血の泡を吹き倒れていた。男の顔も体も、溢れ出す血に染まっていた。……殺すつもりなんて無かった。だがそれとは裏腹に、内から感じた事もないとびきりの力が溢れ出てくる気がしたのだ。達成感。征服感。この高揚感はなんだ? ——いや、とにかくまずは少年だ。
僕は倒れている少年の頬を、ピシャリピシャリと平手で打った。
少年はげほっげほっと苦しそうに咳込みして、目を覚ました。どうやら生きてはいるようだ。
僕はその後、少年に手伝わせて男の死体を神社の縁の下に隠して埋めた。明日に、どうしても出席せねばならない、大事な会議があったのだ。だから、僕は警察に行く事をせずに、少年に助けてやった恩を着せ口止めして、一緒に遺体を埋めさせた。と言っても恫喝するような事はしてない。優しく、頭を下げて心を込めて頼んだのだ。ただその時に、嫌らしく助けてやった事を、それとなく強調しただけだ。勿論彼が拒めば、手伝わせる気なんて一切僕には無かった。
それでも死体遺棄を手伝わせるなんて、幼い彼の心に傷を作ってしまったかもしれない。でも、きっと時が経てばまだ未熟な彼にとっては、小さな記憶の一片になり、夢か現か分からなくなるだろう。きっとそうに違いない。幼い頃の思い出など、大体が大げさに目には映るモノなのだから。他愛もない蛇が大蛇に見えたり、とかそんな感じだ。彼にとってこれは、遠い夢の中の出来事になるのだ。
返り血を浴びたコートは、どうすべきかと悩んだ。適当に捨てて帰っても、今の警察の技術ならコートから僕の身元が判明しそうだし、まずコート無しでこの寒空の下に居たのでは凍えてしまう。考えたが、コート自体が黒に近い焦げ茶色で、陽も落ち始めている為に、浴びた男の血も目立たなかった。なので、コートはこのまま我慢して着て帰る事にした。多少は気持ちが悪いが、仕方がない。
血で汚れた顔や手は、神社の井戸で良く洗った。井戸の脇からぬっと生えた凍えた蛇口を捻る。禿げたメッキの下に、くすんだ真鍮の金色が見えていた。
蛇口から出る水は、切れるほど冷たく、殺人の興奮でのぼせた頭がシャキッとした。僕はすべて終えた後、気を静める為にタバコを一服呑むと、少年を家に送る事にした。水の冷たさの所為か、タバコを持つ2本の指先が小刻みに震えていた。 僕はタバコを地面に投げ捨てて踏み消すと、その手を、ポケットにぐっと突っ込み温めた。震えは止まらなかった。
「君はあの男とどういう関係なんだい?」と僕は歩きながら少年に訊いた。
もう既に指先の震えは消えていた。ポケットにずっと突っ込んでいたから、十分温まったのだろう。 きっとそうに決まってる。
「父です」 と少年は俯きながら、多少寂しそうに応えた。
僕はその言葉に愕然とした。てっきり変質者だとばかり思っていたが、僕は少年の父を理由はともかく殺してしまったのだ。その上、少年に父親の死体遺棄まで手伝わせたのだ。恐ろしい事をしたと此処へ来て初めて思った。自分は、なんたる外道だ。ハッと声を出しそうになり、口を塞ごうとした時に自分の指先に気付く。まだ爪の中に、土が詰まっていた。あの男を埋めた時の土だ。神社を出る前に、2人して井戸の水で良く洗った筈なのに、まるで何か悪い物のように、黒い土が指先を染めていた。思わず少年の手も見た。だが自分の指先とは違い、まるで少女の指ように細く白く美しいままだった。
僕はなんだか怖くなり右手の爪を使い、左手の爪の中の土をほじくり出した。全部綺麗にしてしまいたかった。
その時——、
「ああ、でも一緒に暮らした事はないんです」
と少年は僕を気遣うように明るく言った。
僕は爪をいじくるの止めて、そう言った少年を見た。そして、彼が片足を引きずっているのが分かった。左足だ。
「足、さっき怪我をしたのかい?」
「いえ、生れ付きです。きっと病気なんです」
僕はそれを聞いてなんだか気まずい気がして、それ以上は足の事は訊かなかった。何も聞かなかったように、そのままやり過ごし少年を家に送った。 気付かれぬように彼を横目に見ながら、僕は歩いた。小さく細い華奢な体。悪い足。着ている物も、この冬空の中、半ズボンに薄汚れた白いシャツだけだった。良く見れば、大人物のシャツだ。あの男の物だろうか? いや、彼は父親とは暮らした事はないと言っていた。僕は着ていたコートを脱ぎ彼に掛けた。暖かい、あなたの温もりを感じます。そう少年は言って笑った。僕はなんだか少し安心した。具体的にどう安心したかは分からない。ただ笑顔という行為は、人を安心させるモノだ。それが子供の物なら、なお更だ。
細い入組んだ路地を通り、着いた少年の家は、小さく奇妙に歪んでいた。
何かしらの力が外から加わり、家が歪んでしまったというのではなく、元々使っている材木が粗悪で、これではどう組んでも歪んでしまうだろう。家と言うより小屋という感じだ。まるで戦後のバラックだ。小さな窓があるが、中は暗く見えなかった。青いトタン屋根の端が、赤く錆付いて浮いていた。トタン自体にも腐食で穴が空いている。貧乏なのが分かった。質素というより、見窄らしい。それも簡単な金銭のみの貧乏ではない、もっとあらゆる不幸がこの子の上にはある気がした。でも、この子はその事に気付いていないのも分かった。社会を知らない子供は、比べる物が無いから、自分の現状を客観視する事は出来ない。この子を、僕はとても不憫に思った。だが、僕にはどうする事も出来ないのだ。抱きしめてやるにしても、彼にはその理由を理解する事は出来ないだろう。ただ、さっき知り合った素性も知らぬ男に抱きしめられているとだけ思うだけだろう。
——しかも、自分の父を殺した。
「良かったら、ご飯でも食べていきませんか?」
少年が言ったが、僕は電車の時間があるのからと断った。
それも事実だが、この貧乏で不幸な少年にご馳走になるのは人として気が引けたのだ。
「そうですか…」 少年は残念そうに言って、着ていた僕のコートを脱いで軽く畳むと返した。
僕はゴメンとだけ応え、逃げるようにその場を後にした。
僕は振り返らずに歩いた。後から引き戸を開ける音がした。ギギギィ……、と歪む扉が抵抗しながら開く音がする。ただいま、という少年の声の後に、お帰り、という声が聞こえ、またギギギィ……、と戸が閉まる音がした。女性の声だった。彼には、まだ家族が居るのだと思った。父とは暮らした事が無いと言っていたが、母親だろうか? そんな事を思ったが、それを確かめるすべも無い。僕は彼の父親を殺すという、彼の人生において重大な罪を犯したのに、もう彼に永遠に会う事は無いだろう。彼は実の父を殺した僕を責めなかった。きっと2人には、深い——。いや、もう考えるのはやめよう。考えた所で、今更どうにもならない事だ。
さて、僕はこれから駅へ向わねばならない。早くしないと、今日中に東京まで帰れなくなる。会議に出ねばならないのだ。
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