【二の地獄 駄菓子屋の老婆】 

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【二の地獄 駄菓子屋の老婆】 

とにかく帰らねばと、駅を目指し彷徨っていると、知らぬ街での心細さから、自然と結子の事が思い出された。 結子は拒食症でもあった。いや、低俗な医者がそう言っているだけで、実際はもっと崇高な意思の下の断食行為だった。生前結子は言っていた。調理という行為がいかに残酷かを——。自分が生きる為に、他の生き物を殺して食べるだけでも悪い事なのに、それを綺麗に切り刻み加工し、味を付けて煮て焼いて、生きる為だけではなく娯楽にまで昇華させる吐き気のするような行為なのだと。 さらに芸術とか言い始める美食家などと言われる連中は最もおぞましく、殺した上に遺体を執拗に損壊する異常殺人鬼と変わらないとさえ嫌悪して言っていた。 もし肉を食べるなら、自ら殺した獣を、自らの歯で食い千切り、血や内臓、臓物の中の糞尿まで残さず平らげるような、肉食獣のような食べ方こそ一番真っ当な食べ方で、そういう風に私は食べる事が出来ないからと、結子は本当にもうどうしようもなくなるまで水だけを飲み、果実などを少し食べた。植物の実は、食べられる為にあるから、食べる事は問題が無いそうだ。その植物の果実が食べられる事で、種を遠くに運ぶのだそうだ。なので、結子は果実を食べて残った種を庭に蒔いた。そんな物が生えるものかと思っていたが、結子の捨てた種が小さな木になった。色々蒔いたから何の種子が芽を出したのか良く分からなかったが、結子が調べた所によると、その木は蜜柑の木らしい。だがまだ一度も実は生っていない。スイカは何回か収穫までいった。それを僕も食べた事がある。普通に美味しいスイカだった。 僕はそんな優しく健気な結子に隠れて、普通に肉を喰らい、美味い物は何でも食べたいと思ったし実際食べていた。その事は当然結子には言わなかった。責められるのは嫌だったし、嫌われたく無かったのだ。結子は気付いていたのかもしれないけど、何も言わなかった。お酒も沢山飲んだが、結子もお酒は果実から作られるからと、果実酒やワインを少し飲んだ。結子とお酒を飲むのは楽しかった。結子は独自の特別な世界を持っていて、その中に何人も立ち入らせず、静かに用心深く生きて来た。酔うとその世界に、少しだけ招き入れてくれるのが嬉しかった。 それにしても、駅に近付いている気配がまったく無い。 むしろどんどん迷っているようにさえ感じる。少年の家から、迷路のような細い路地をずっと歩いているが、大きな通りに全く出ない。来た道を帰れば良いだけなのだが、来た道が分からない。どこをどう通って、此処まできたのだろう。あの少年に、駅までの道を訊けば良かったと後悔した。彼の父を殺してしまったが、それくらいの事は許されるだろう。 誰かが通れば訊けるが、まず回りには人の気配が無い。冷たい風が吹き、知らぬ街で心細さだけが募る。 その時、不意に黒い物が視界に飛び込んだ。 まるで巨大な黒い人魂のような。——いや違う。 それは薄暗い道の角を、駆け足で曲がろうとする少女の長い髪だった。黒髪がなびいている。 あの少女だと思った。僕が最初に路地で出会った不思議な少女、僕にナイフを渡したあの少女だ。   僕は走り出し、少女が曲がった角を急いで曲がった。すると、また別の角を曲がろうとする少女の姿が見えた。今度は確実に姿が見えた。確かにあの少女だ。赤いスカートに白いシャツ。頭にも赤いリボンを付けている。僕はその後を急いで追った。あの少女に訊けば駅までの道が分かるだろう。だが、少女には全く追いつけない。 「おいっ! 待ってくれっ!!」 と思わず声を上げて、手を伸ばし、呼び止めるが、少女は一向に止まろうとしない。それどころか、少し振り返って笑って見せたりする。少女は追い駆けっこでもしているような気なんだろう。 少女を追っている内に、車が一台通れる程の、今までよりは広い道に出た。——と同時に少女の姿を見失った。右を見ても、左を見ても、少女の姿はその場から消えたように無かった。 僕は息を整えながら、少女を追う事を止めて、右に行くか左に行くか迷って、直感を信じて右に向った。 道には同じ街灯が、一定置きに並んでいた。街灯は古くてチカチカした体に悪そうな明かりを放つ。  暫く行くと、駄菓子屋の軒先に置かれた長椅子に、腰を下ろしている老婆が見えた。 老婆の頭の上から、電柱に付けられた傘の付いた裸電球の光が、まるで芝居のピンスポットライトのように射している。何とも、面白い光景に思えた。 僕は老婆に近付いた。古い長椅子の、樹脂製の緑の天板は紫外線による劣化で白濁して、性が抜けて欠けている。とにかく助かったと思った。これで駅への道が訊ける。 近付くと老婆は、憔悴しきった顔でうな垂れ、途方に暮れているように見えた。 道を訊こうとすると、先に此方を向いた老婆に 「——お兄さん、頼まれていくれるかい?」 と先手を打つように言われた。 老婆の眼の周りに溜まった黄色い目ヤニが、粘っこい糸を引いていた。 汚い老婆だった。垢まみれの着物を着て、アンモニアの臭いが全身からしてる。一応、髪は頭の天辺で団子にまとめられているが、白髪が多く混じり、ボサボサと藁葺き屋根から生えた雑草みたいに毛が飛び出していた。 「何をですか?」僕は尋ねた。   「これを捕っておくれ」 と老婆は自分の着物をはだけさせ、背中を大きく開いて中を見せた。 その斑らに黒く染まった表皮は、カサカサに乾燥してシワがよっていた。垢がこびりついて弾力を失いシワが寄っているのか、老いによりシワが寄っているのか分からなかったが、とにかく不潔さと不気味さを感じた。背中の真ん中を、ボコボコと背骨の突起が気色悪く下から表皮を押し上げている。まるでミイラが動いているようだ。 老婆はうな垂れたまま振り返らずに、そっと背中越しに何かを差し出した。 それは細く加工された鯨の髭の先に、碇型の釣り針が取り付けてある物だった。 鯨の髭は、古くから日本では和竿の先に使用される伝統的な素材だ。細く加工し、先端を尖らせて、竿の穂先にするのだ。今では高級品になり、グラス材に取って代わられた。 老婆は、また何かを差し出した。それは紫蘇酢漬けにされた駄菓子の赤いイカゲソだった。びらびらとしなびて曲がりくねった沢山のゲソに、ぶつぶつと細かい虫のような吸盤がついている。 「その針に、ゲソを付けて、蟲を捕っておくれ。痒くて痒くて堪らないんだよぉ」 と老婆は懇願し身をよじり言った。 訳も分からずにしていると、老婆が「早く!」とその姿に似合わぬ大きな声を上げ急かした。 余程、取って欲しいのだろう。それにしても、こんなものでどの虫を取れと言うのだ? そもそも虫は何処にいる? 肌をはだけさせたい気味の悪い老婆は、こちらを恨めしそうな顔で上目遣いに睨んだ。   そんな顔で睨まれるゆわれは無いぞ? まったく。 僕は何も理解できぬまま、とにかく渡された針の先に、ゲソを一本千切って引っ掛けた。 「それを背中に近づけるんだよっ!」 と老婆が壊れた蓄音機みたいなしゃがれた声で、命令するように言った。  何様のつもりだ? まったく。 でもまあ、これで機嫌を取れば道は訊き易いだろう。仕方がない。   「はいはい。分かりましたよ。言う通りにしますから——」 随分と失礼な言い方だなと思いながらも、仕方なく言う通りにする。 鯨の髭の先の針についたイカゲソを老婆の背中に近付ける。 鯨の先は釣竿の穂先のようになっているので、チロチロと細かく揺れた。 それはまるで、提灯アンコウの額のそれである。ゲソはまるでミミズかゴカイだ。——と。突然、老婆の背中の皮が盛り上がり、盛り上がった皮の中心にクゥッと小さな穴が開き、直ぐさま僕の人差し指と親指をく付けて輪を作ったくらいの大きさになった。穴はそれだけで独立した生き物のように、不気味に伸縮している。まるで深く呼吸をしている肛門のようだ。老婆の背中に開いた穴の奥は、一体どうなっているのだ。中を覗くが暗くて見えない。かなり深く見える。こんな穴が開いていて、人は生きていられるものなのだろうか? 僕が老婆の穴を、目を丸くしてそんな事を考えながら見ていると、いきなりその穴の底から、何かが飛び出してきてゲソに勢いよく喰らい付いた。  ——と、同時に 「喰いついたら、思いっきり引っ張るんだよっ!」 老婆が発狂した蟹ように、口から唾の白い泡球をぶくぶく飛ばしながら叫んだ。 僕は針が付いた鯨の髭を思い切り引っ張った。 すると、喰いついた何かは、再び穴の奥に逃げ込もうと素早く引っ込んだ。ズシッと手に重みが掛かる。鯨の髭は弓なりにしなり、ブルブル震えた。片手では持ちきれず、両手でしっかりと握り鯨の髭を立てた。まさに魚釣りの要領である。しばらく格闘するも、じきに穴から何かがニュルリと出て来た。 見ると針の先に、ちょうど大人の男のイチモツみたいな、見た事も無い巨大な芋虫が引っ掛かってまだのたうっていた。鯨の髭がしなり、ビクンッビクンッと、まるで本当に魚を釣った時のような躍動を感じた。 「良くやったよ! あんた上手いね? こうは簡単に普通捕れないよ」 とさっきまでの憔悴しきった姿が嘘だったように、打って変わり老婆は顔を綻ばせ感心して言った。  「——これは!?」 思わず、今までよりさらに目を丸くして僕は呟いた。  「渦蟲(うずむし)だよ。本当は何と言うか知らないけどね。アタシ達は渦蟲とそれを呼んでるよ」  「渦蟲?」 こんなモノ都会では見た事が無い。所謂風土病とでも言うモノだろうか? 風土病というのは、その地域のみにしか存在し無い独特の病気だ。日本という狭い島国にも、風土病なるものは存在している。その中でも有名なのは、日本住血吸虫症だ。宮入貝という貝を中間宿主に、水辺で感染する恐ろしい寄生虫症である。感染すると腹に腹水が溜まり、じきに死に至る。——恐ろしい病だが、今はもう根絶されたと聞くが。他にも、こんなモノが日本には存在してるんだな。信じられない事だが、実際今この目で見ているんだから、信じざるを得無い。 老婆は長椅子の下から、蓋の付いた瓶を出して、それに今獲った芋虫を入れると 「これは高く売れる、お金になるから——」 と僕にくれた。 僕はコートのポケットに、それを仕舞った。気味が悪かったが、下手に拒絶したりしてこの老婆の機嫌を害したくない。道を聞かねばならないのだ。この喜びようからすると、きっと、快く、詳しく、教えてくれる筈。期待に胸が膨らむ。 「良かったよ上手く獲れて、これがアタシの体の中でくたばって、敗血症でも起したらお陀仏だったよ。でも、それより何よりも痒くて堪らないんだよ。痒くて痒くて、夜も寝れないほど穴の縁が痒いんだよ」 と老婆は興奮と安堵の入り混じった声で、自分の身体を抱くようにして身をよじり悶えさせ言った。 老婆の感謝の気持ちはまだ余るらしく、もっと礼がしたいと駄菓子屋の中へ手招きされ招かれた。早く道を聞きたかったが、老人の心は移り気だ。気を損ねてはすべたが台無しになる。今はぐっと我慢した。 小さな駄菓子屋の中は薄暗く、色取り取りの着色料まみれの駄菓子が並んでいた。 青色のチューブに入ったゼリー。懐かしい。どんな状況だったか忘れたが、これは東南アジアの虫から着色料を作っていると子供の時に聞いて、震え上がったのを覚えている。虫の体液だなんて——、そう思った。思わず、ポケットの中のさっきの芋虫の入った瓶の蓋を握った。 老婆が裸電球を点けると、オレンジ色の弱い光が黒い闇を照らした。 そして、老婆は一人店の奥に進み、僕にも店の奥の座敷に来るようにと笑って手招いた。老婆のクイクイと動く手首が、まるでうらめしやとやる幽霊のように見えた。 先に進むと、座敷にはコタツがあり、お好み焼きが焼けるように天板が鉄板になっていた。 お好み焼きでもご馳走してくれるのか? この駄菓子屋で作られた物を口に含むのは勇気がいる。そもそも保健所はちゃんと承認を出しているのか? ——ん? なんだ? 何か鉄板の上を動いている。僕は暗い中、目を凝らす、そして鉄板の上を動く物を見てギョッとする。天板に残ったカスをネズミが喰らっていた。不衛生極まりない。この家の食べ物は、やはり御免被りたい。 だが老婆は、「ささ、そこじゃないよ。もっと良い物があるよ」 と嬉しそうに言って、さらに奥へ手招いた。 この駄菓子屋で作られた物を食う事はどうやら免れたらしいが、老婆の眼には、怪しい光が浮かんでいた。何かもったいぶったような、企んでいるような、なんとも言えない危うさをその光に感じ、気を緩めてはいけないと思った。何だかとてつもなく嫌な予感がする。 老婆の後に付いて、細く急な真っ暗な階段を上り、二階へと上がる。 一歩上る度に、ギィギィと階段が重みで辛そうに鳴く。 上で待っていた老婆が開けた襖の奥に布団が見えた。 布団の上には、赤い着物をゆるく纏った少女が女座りで座り、うつろな目で此方をじっと見詰めていた。 老婆少女に近付きの着物の帯を乱暴に取り、裾を捲った。そして、髪の毛を鷲掴みにして、引っ張り上げて立たせた。 すると、さっき老婆の背中から獲ったを芋虫をずっと小さくしたような、小さな芋虫が少女の股の間に見えた。 それは小さなペニスだった。 この子は少女ではない、少年なんだと僕はその時やっと気付いた。 「面白いだろう? コイツは産まれながらのオカマなんだよ。出来損ないの蝶になれない芋虫なんだ。ずっと気持ちの悪い芋虫のまま死んで行くんだよ。いつもは金を取るが、あんたはアタシの命の恩人だからタダでいいよ」 老婆がニチャッと笑って言った。 口を開くと老婆に歯は殆ど無かった。奥歯は知らないが、前歯は一本くらいしか見えない。老婆の容姿と不釣り合いな程に赤い歯茎の中に、朽ちた木のような黒ずんだ歯が一本生えている。そして、ネバネバと唾液は糸を引いてた。   「何を言ってるんだ、アンタはっ! こんな子に何をさせているんだ! 今の世の法律じゃ、こんな事は犯罪なんだよ! 悪い事だ! 許されない事だ!!」 僕はいきり立って正義をまま言った。   「何を言ってるんだい! 偉そうに! アタシが飯を喰わせて、服を買ってやって、僅かな駄菓子屋の稼ぎで此処まで育ててやったんだ。何をさせようが、他人のアンタにとやかく言われる筋合いはないよ。何様のつもりだい! 偉そうに!! この出来損ないを育てるのにどんだけ、アタシが苦労したか。この位して返して貰ってもバチは当らないよ! 国や他人が同情でコイツの面倒を見てくれるのかい! 善人ぶりやがって、アンタそんな事を言いながら、内心じゃ興奮してんだろう! 知ってるんだよ! 変態野郎がっ! アタシには、全部お見通しなのさ!! 恥ずかしい変態が!」 老婆は狂人さながらに唾を吐きながらまくしたてた。 僕はその言葉に怯むどころか、カッと頭に血が上った。なんというババアだ。僕は老婆に飛び掛ると、少年の着物の帯で、これでもかというほど老婆の首を締め上げた。暴れる老婆の着物がはだけて、気味悪く垂れ下がった皺くちゃの乳房が、まるで二匹の巨大な芋虫のようにブルルブルルとのたうった。それが腕に当たる度に、背中に悪寒が走った。目を剥く老婆の爪が、腕に食い込み血が流れた。このか細い干からびた老婆の腕に、これほどの力が何処から出るのか? と思った。——これは、命への執着だ。死にたくないという思いの強さが、もう寿命も残り少ないだろう死に掛けの老婆に、これほどの力を生むのだと思うと、なんだか神秘的な感じがした。僕はふっと気が遠くなる気がした。まるで、別の世界からこの惨劇を見ているような感じだったが、気が付くと老婆が帯にぶら下がるように息絶えていた。 僕は汚い物でも扱うように、老婆の死体をその辺に投げ捨てた。死んだ老婆は、本当にゴミその物だった。そして、側の箪笥を開けた。少年に逃げる為に、何かまともな服を着替えさせようと思ったのだ。今の遊女のような赤い着物のままでは目立つ。だが、どの段にも、なぜか女物の洋服しか入っていなかった。仕方が無いので少年にその中の服を適当に投げて、中から着れそうな物を着るように言った。 少年は素直に服を探し、着替え始めた。 その間に僕は下へ行き、家捜しし老婆の蓄えた小銭をかき集めた。畳みが一枚、踏むと僅かに浮いているのが分かった。軋む。それを退けると、床板に丸い指が一本入るほどの穴を開けて取手にし、上手い事外れるようになっていた。床板の下には小さなカメが有り、それを出してひっくり返すと、中から沢山の札が出て来た。駄菓子屋の売り上げでこんなに溜まるとは思えない、上の少年を売った金だろう。僕はその札も含め、見つけた金を部屋の中にあった巾着に全部詰め二階へ戻った。1日に2人の人間を殺したのに、階段を上っている僕の心は、もう大分落ち着きを取り戻していた。僕は自分という人間を疑った。これほどまでに僕という人間は冷淡だったのか。 着替え終えた少年は、まるで本物の少女のようだった。それにしても、あの老婆の服にしては随分と若い服だ。 「良く似合う」僕は思わず言った。   「これは僕の服ですから」 少年は答えた。 良く見ればサイズも丁度良い。彼の為の彼の服なのか? 少年は声変わりしていないのか、声までも少女のようだった。じっくり見るとさっき神社で会った少年と良く似ている気がしたが、この少年の方が身長が少し高いし、そもそも同じ訳が無いのだ。 「これから、君は此処から逃げて自分の人生を歩みなさい」 僕はそう言って、金の入った巾着を渡した。 「これは?」 「それは、全部君の金だ。君の為に全部使いなさい」 少年は巾着を見詰めて少し黙り、顔を上げて 「なぜお婆さんを殺したのですか?」 と訊いた。 「君にこんな悪い事をさせていたからだよ」 「僕は悪い事をしていたのですか?」少年は頼りない声で言う。 「君は悪くない。嫌々君はやらされていたのだ。そうだろう?」   「……はい、そうですが」 「——そうですが?」 「そうですが、もう良く分からないのです。最初は嫌だったし、ずっと嫌だったのに、いつからか気持ち良いと思う自分も心の中に居ました。オジサン達に体を好きにされていて嫌なのに、人の肌の温もりを感じると、その時だけなんだか心が休まるような気がしていたのです」 「それは、肉体的な問題だよ。そういう風に体が出来ているんだ。心が辛いと思っているなら、それは嫌なんだよ。君はずっと嫌だったんだよ。そうに決まっているじゃないか? バカな事を言うもんじゃないよ?」 「……そうでしょうか?」 「そうだよ!」   「……。僕は、此処から逃げて一人で生きていけるでしょうか?」 少年はそう訊いて、少し考えてから、顔を上げて不安に満ちた表情を見せた。 「大丈夫。君が誰かを傷つけたりしなければ、きっと君にも幸せが訪れるよ」 僕がそう答えると、少年の顔から不安が消え、笑顔を浮かべた。 僕は少年を部屋から逃がすと、下からストーブの灯油缶を見つけて来て、老婆の死体やそこら中に灯油を掛けて持っていたマッチを擦ると火を放った。 一気に火は広がり老婆諸共、部屋全体を炎が包んだ。 火が十分点いたのを確認して、それから騒ぎが起きる前に逃げ出す事にした。あの少年が此処に居た事は、きっと誰も知らないだろうし、もしあの少年の存在を知っていた者が居ても、それはあの少年を買った奴だろうから、あの少年について何かを喋る事も無いだろう。僕は振り返り、階段へ向かおうとした。 その時——。 「——待てぇっ!」 殺した筈の老婆が起き上がり、飛び掛かって来た。  老婆は気を失っていただけだったのだ。 僕は炎に包まれた半裸の老婆を、まだ中身が多少残っている灯油缶を取り殴り飛ばした。老婆はうつ伏せに倒れたが、再び起き上がろうと、畳に手を付き、体を持ち上げる。僕は後ろから灯油缶で、何度も何度も老婆の頭を殴りつけた。今度は生き返らない様に、まるで毒ヘビでも殺す時のように、入念に頭を殴り潰した。形が変形した灯油缶を僕は投げ捨てて、額から落ちる汗を拭い、大きく肩で荒い息をする。もう生き返る事は無いだろう。老婆の頭は、まるで潰れたザクロのようだった。割れた頭蓋骨から脳髄が見えて、目玉は片方は飛び出していた。   「汚らわしいっ!」 思わず僕は汚い物を口から吐き捨てるように言った。
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