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【四の地獄 蠱毒を育てる男達】
モメメを貪り喰う人々に吐き気を催しながら、このままでは今にもモメメの肉を口に突っ込まれそうなので、こっそりと僕はその場を後にした。
小学校を出ると、またさっき来た道を進む。
モメメの所為でまた道を訊きそびれ、仕方なく感に任せてとぼとぼと歩いた。とにかく道なりに進んでいるが、この方向に駅が無かったら、終わりである。——とはいえ、逆戻りしてやはり駅がこっち側だったら、それこそ無駄骨だ。そもそも、あの駄菓子屋や、神社の場所までもう戻りたくない。捕まるのが怖いんじゃない。もう終わった事にしてしまいたいのだ。それなら、自分を信じて突き進むしかない。どうせ、この街の駅で無くとも、隣町まで出てしまえば隣町にも駅はあるだろう。そうだ。そうに違いない。
暫く行くと、男が3人集まって地面の上の何かを、じっと見詰めていた。
見詰めていたのは——。それは一つの、口の広い、青い大きな壺だった。
壺は半分位なぜか地中に埋まっていた。
男達はその壺の中に向かい何かを叫んでいる。
「頑張れっ!」とか「ヤレッ!ヤレッ!」とか「そこだっ! 行けっ!」とか「殺せっ!」なんていう物騒な物まで聞える。
まるでスポーツか格闘技の応援でもしているようだった。
周りには人の気配はない。道を聞くならこの男達しか居ないのだが、どうにも話を聞き辛い雰囲気を醸し出していた。どう見ても、カタギの雰囲気ではないのだ。テキ屋か、それかもっと危険な裏稼業の者かという空気を醸し出していた。
だが仕方がない
「——あの、すいません?」 僕は今度こそ、この男達に駅までの道を訊こうと、勇気を振り絞り声を掛けた。
だが男達は僕を無視した。
男達は壺の中に夢中で、まるで僕の声が耳に入っていないようだ。僕の声も小さかったが、それ以上に壺の中身が男達を魅了していた。壺の中を見る3人の目がらんらんと輝き、闇の中で黄色く輝いている。
壺の中には、一体何が入っているんだ? 気になるが、壺を囲む男達が邪魔で、隙間から覗こうにも見えない。
この男達は何者なのか、正体を掴む為に辺りを見る。すると、家の脇に立て掛けられた看板に 『上等な蠱毒(こどく)あります』 と汚い字で墨で書いてあった。手書きの看板だ。 ——蠱毒? なんだ? 虫か? それが、この壺の中に居るのか?
「すいません、蠱毒とはなんですかっ!?」
僕はさっきより、ずっと声を張って訊いた。
「——あっ?」 と一人の男が振り返り、不機嫌そうに僕をグッと押し付けるような目で睨み言った。
その男の肩を別の男が叩き、お前は引っ込んでろと首を振ってジェスチャーした。
そして僕に
「俺達は由緒正しき大陸の呪い屋さ。蠱毒とは、中国4000年の秘術。我ら李一族特製の一匹必中必殺絶対最強最凶の成功率を持つ呪の蟲さ。この壺の中を見てごらん」
と優しい撫で回すような声で答えた。
李一族と言うからには、彼らは兄弟なのだろうか? 李? 中国人? まあそんな事より、——壺の中だ。やっと、彼らが夢中で見ていた壺の中が観れる。
多少、心がワクワクとざわめいた。
僕は言われた通りに壺の中を覗いた。中では見た事も無い、足が沢山ある蟲と、足が二本しか無い蟲が、死闘を繰り広げていた。この蟲が暴れるから、倒れ無いように、壺が半分埋められているのか。また変な中国人が、日本でおかしな商売をしているようだ。都会では変な商売をしている変な中国人を良く見るが、こんな田舎でまで変な中国人は、おかしな商売をしているんだな。
「こうやって色んな毒虫を戦わせて、喰い殺させて、最後に生き残った物が蠱毒になるのさ。人はコイツを差し向けられると、心を蝕まれて必ず死んでしまう。今まで我ら李一族の蠱毒で殺せなかった者は居ない」
男は自信たっぷりに言った。
「それって殺人じゃないんですか? 犯罪じゃないんですか?」
「ああ、それは大丈夫だ。日本は、呪いで人を殺しても罪にはならないって法律が有るのさ。そういうのを不能犯と言うんだ。為になるだろ? 我々みたいな者には天国のような国だ。中国じゃ死刑になる可能性もある。だから海外からも、お客さんが沢山来るよ。円安だしね。我々は古代日本にも蠱毒を伝えたけど、本場はやはり違うよ。秘伝があるからね」
男は笑った。
なんとも嘘臭い話だ。そもそも呪いなんて、この世に存在するのだろうか? この男は自らを李一族と言っているけど、この悠長な日本語は本当に中国人なのだろうか? と疑ってしまう。
「すいません。参考までに、ちなみに1匹いくらなんですか? 蠱毒は?」 僕は訊いた。
「安いよ。1匹3千円でいいよ」 男は気軽にそう答えた。
「そんなに安いんですか? 人を殺すんですよね!?」
「人の命なんてそんなもんだ。3千円なんて、むしろ高いくらだ。蠱毒は罪にもならないから、殺すリスクが無い。人を殺すのに大金が掛かるのは、人の命の値段じゃなく、その罪を犯すリスクの値段だ。蠱毒は蟲を捕まえる労力以外は、秘伝さえ知っていればそれほどコストも掛からないし、そんなもんだ。1匹の値段が安くとも、人を殺したい人間は星の数ほど居る。薄利多売だよ。強弱あれど、誰かを殺したいと思った事の無い人間なんて、生まれて直ぐ死んだ赤ん坊くらいだろう。それに殺したいのは恨みだけじゃ無い、介護問題、ニートの息子、保険金の為。自分を殺したい奴だって居る。生きてる奴は皆、人殺し予備軍だ。潜在的に、皆ウチの良いお客様さ。——まあ、蠱毒にもランクはあるけどね。一番安いのが3千円だ」
「ランク?」
「そうだ。中には蠱毒を知ってる奴も居て、蟲避けのまじないなんかをしているのが居る。そういう奴を殺すには、蟲除けのまじないの効かない、より強い蠱毒が必要になる。強い蠱毒を造るには、当然より強い蟲が必要になるから、その蟲を捕まえる労力が掛かってくるわけだ。強い蟲って言ったって、そういう種類の蟲がいるわけじゃないんだ。まあ、普通は生まれ持った体で強さは決まるが、そうじゃないのがごくたまに居る。小さくとも、劣勢でも、勝つ蟲がいる。そういう蟲がヤバイのさ。そういう蟲は、どの蟲よりも生きたいと願う思いが強い。そういう強い生への執着を持った蟲は、外観ではなかなか分からない。戦わせてみて初めて分かる。だから、見つけるのが大変になる。もしかしたら、その辺の蟻んこが、その1匹かも知れないんだ」
「へー、そういう物なんですね」
「ああ。でも中には、目で見てそういう強さが分かるのも居るんだ。そういう奴が一番恐ろしい。人間でも居るだろ、存在が生まれ持って狂ってるような奴が。そういうのは、そいつの周りを覆う空気で分かるのさ。そういう蟲で造った蠱毒は、値段の桁がまるで違う。3千円と言うわけにはいかない。そういう蟲で造られた蠱毒は、1匹で国さえも滅ぼす力があるからな。でもまあそういうのは、万匹や億匹——、いや兆匹、那由多匹に1匹。千年、万年億年兆年那由多年に一匹現れるかくらいだがな。俺もそこまでの蠱毒は見た事が無い」 男は言ってから、少し黙り 「ところで、それはなんだい?」
と訊いた。
男の目は、僕のコートのポケットの膨らみを見ていた。
ポケットの中に有ったのは、あの老婆に貰った、不気味な芋虫の入った瓶だった。
「さっきから、君のポケットの中から、得体の知れない不気味な物を感じるんだが? 禍々とね——」
僕は瓶をポケットから出して男に見せた。
「これは、どこでっ!?」
男は瓶の中を覗きながら、目を丸くし驚き訊いた。
明らかに、彼の眼の色が変わったのが分かった。客人を迎える目から、金を求める、守銭奴の目に変わった。
そんな事より、僕は答えに困った。
なぜなら、この芋虫をくれた老婆を僕は殺してしまったからだ。あまり、あの老婆と生前に関わりが有った事を知られたくない。警察なり消防なりが調べて、あの老婆の死因が単純な焼死ではないと分かった時に、関わりが知れれば僕が必ず疑われるだろう。あの少年の事は、誰も知らない筈だし。知っている者も言う事はない。知っている者は、彼を買ったお客だけだ。だから言えないのだ。あの老婆との関わりを知られる訳には行かないのだ。
暫く考えたが、良い言い訳も浮かばずに、沈黙してしまった。
このままずっと黙っていては、変に勘ぐられるだろうと思い——。
「いや、なんか見た事も無い蟲だったので、珍しい蟲かと思って捕まえたんですけど——」
僕は苦し紛れに、白々しい稚拙な嘘を吐いた。これでは逆に変に思われそうだ。言った後でしまったと後悔した。
だが「ほう、なるほど……。」
男はそうは言うものの、芋虫の出所には余り興味がないようだった。
実際、何所で捕まえたのか? とか、どう捕まえたのか? とか、男はそういう事は一切訊こうとはしなかった。訊かれた時の言い訳を適当に考えていたが無駄になった。
そんな事よりも、男は芋虫その物に関心があるようだった。瓶に顔を近付け、じっと芋虫の動きを観察していた。自分の顎の下を、親指と人差し指で摩りながら、瓶の中で収縮して側面を登ろうとする芋虫をじっと見ている。多分、男は先ほど、強い蟲に種類は関係なく、実際戦わせて見なけりゃ分からないと言っていたから、何所で捕まえたとか、芋虫の素性は興味が無いのだろう。
男は暫く、瓶の中でうねくり伸び縮みする芋虫を見ていて 「うーん。これは、まったく素晴らしい。君はこの虫を見て何も感じないのか?」 と専門家の様に言った(まあ、実際男はこういうモノの専門家なのだろうが)。
「……見た事もない、不気味な虫だとは思いますが、虫には全く詳しくないもので」
僕は答えた。
「ほら、見てみろ? コイツの禍々しさを——。只者じゃない。コイツはこれからサナギになって、見た事も無いおぞましい蟲に羽化するだろうな。芋虫とはそういう物だ。それはきっと呪われてるよ。人類が宗教作ったり、平和と言う言葉を作っても、結局はみんな殺し合う性のように、コイツは呪われてる。素晴らしい。コイツはまるで——」 と男は溜めてから、言った。「コイツは、まるで人間だ。赤ん坊になる前の人間の元だよ。ゾッとするな? 君は良くこんな物をずっとポケットに入れていたね? さっき言った生まれ持って狂ってるような蟲とは、まさにコイツみたいなのを言うんだよ。コイツはきっと強い!」
男は鼻息を荒くして言う。
「……はぁ。」 と僕は応えたものの、興奮している男の言っている言葉の意味はさっぱり分からなかった。
さして、専門的な事を言ってる訳では無いが、そういう次元ではなく、常識と照らし合わせて考えて、意味が分からなかった。所謂、妄言と言うやつだ。これは——。頭のおかしい人種の言葉は、理解が出来ない。
「コイツを戦わせてみたいな。ダメかい? 俺達の虫と戦わせてみたい。もし君の虫が勝てば、その度に10万円払おうじゃないか? 君の蟲に勝てばその分、俺の蟲が強くなるし。君の蟲が勝てば君が儲かる。悪くない話だろう?」
男は瞳をキラキラさせながら言った。
僕は10万円という金額を聞き、急に怖くなって
「いや、僕はそういうのは…」
と断った。
すると突然、他の2人の男達が僕を挟むようにして立った。逃がさないぞ! と態度で訴える。
「兄ちゃん、おかしいよ? こんな凄い蟲を持った奴が、たまたま此処を通り掛かると思うかい?」
「コイツ、他の呪い屋のスパイかもしれない?」
「このまま返しちゃダメだよ!」 2人の男は口々に言った。
「いや、スパイなんかじゃない無いです。誤解です!」 僕は必死に弁解した。
「コイツはスパイだよ」
「違いない。絶対にスパイに決まってる」
それでも男達は訊く耳を一切持たなかった。
「そうだ。それなら、この芋虫をあげます! それで良いでしょう」 僕は芋虫の入った瓶を差し出し言った。
「ダメだ! スパイなら逃がしちゃダメだっ!!」
「コイツを逃がすな!」
男達は興奮し、今にも襲い掛かって来そうだった。
もう絶体絶命というの状況の中、兄ちゃんと呼ばれている男が 「——まあ、待てっ!」 と叫び男達を諭した。
それにより、騒いでいた男達が飼いならされた犬みたいにすっと静まった。
兄は
「よし、じゃあ君の蟲が俺達の蟲に勝ったら、此処から無事に帰してあげよう。勿論、勝った分の金も払う。さっき言った額を払う。でも勝てなきゃ……。いいね?」
と言った。
優しい口調であったが、ついさっきまで喋っていた時と、兄の目付きが違うのが分かった。その瞳には怪しい光が宿っている。それは、もう完全にお客に対する眼では無かった。さっきの守銭奴の目とも違う。これから、命を掛けて一勝負やろうとする男の目だ。
「——でも、兄さん!」 男の一人が言った。
「うるせえっ! オヤジが居ない時は、全部俺が決めるんだ! お前らは黙ってろ!」
兄は怒鳴って男を黙らせてから、僕の方を向き、じっと目の奥を見た。
勝負しなけりゃ、僕を此処でブチのめすと目で語っていた。
どうやら僕が帰るには、この男とどうしても勝負するしか無さそうだ。
「……分かりました。やりましょう」 僕は覚悟を決めて了承した。
それを聞き 「では、奥へ行こうか——」 兄は満足そうに笑い言った。
僕は呪い屋の屋敷の中に通された。
屋敷とは言うものの、朽ちかけたベニヤと錆びたトタンで作られた、所謂バラック小屋だ。床もそのまま地面むき出しの土間であった。室内なのに場所によりクチャクチャとぬかるんでいる。真っ暗な家の奥深くに進むと、男が部屋の隅のスイッチを入れ、裸電球を点ける。
裸電球の真下、部屋の中心が闘犬場とか闘鶏場のように、柵で囲まれた八角形の檻のようになっていた。
「此処は?」 僕は訊いた。
「此処は、言うなれば蟲のメジャーリーグだ。外にあった壷は、予選会場みたいなもんだ。君の蟲は予選無しの、スーパーシードさ。本当に強い蟲しか此処には入れない。この八角の檻の壁全てに特殊な高等呪術が施されている。素材自体はただの木であるが、呪術を施され、それが八枚連なり輪となる事で強力な結界となる。蟲が戦いの中で、急に蠱毒に変化した時に逃さないようにする為だ。蠱毒を自らの配下に置く前に逃がしたら、偉い事になるからな」
兄が答えた。
僕と兄は向かい合う様に、檻を挟み立つ。
男達が両手で持てるくらいの籠を持って来て、その中身を檻の中に放った。
人に似た顔をした巨大なゴキブリのような蟲だった。両手を合わせて擦りながら、皺くちゃの中年男のような顔が、しかめたり笑ったり表情を変える。
僕も瓶の蓋を開けて、檻の中に芋虫を放した。
——そして、蟲同士の死闘が始まった。
兄の言う通り、老婆の芋虫は強かった。
檻の中で、男達が持って来た蟲を簡単に殺した。最初は巨大ゴキブリの素早い動き翻弄されたが、攻撃の為に近付いて来た瞬間、何かを口から巨大ゴキブリ目掛けて吐き掛けた。すると巨大ゴキブリはひっくり返り、足をくの字に曲げると、お湯でも掛けられたようにピクピクと痙攣し、暫くして動かなくなった。 そして芋虫はその体からは想像も出来ない大口を開けて、蛇のように巨大ゴキブリを丸呑みにした。
男達はさらにもっと強いという蟲を持って来て檻に入れた。
だがそれも入れるなり、芋虫に頭から喰い付かれて、あれよあれよと言う間に、丸呑みにされた。一瞬の出来事だった。力を隠していたのか、それとも、強くなったのかは分からないが、芋虫はさっきよりずっと強くなっている気がした。
芋虫はその後も、見た目にそぐわぬ戦いっぷりで、他の蟲を殺しまくった。
何度か負けそうになるも、その度狂ったように暴れ逆転した。毒を吐き、時に相手の蟲に襲い掛かり喰い千切り殺した。勝金はすでに100万を超えていた。あの死の損ない老婆の肉を喰らっていたのに、どうしてこれほどまでの力がだせるのだろうか? と思った。息絶える寸前の、もがき苦しむあの時の老婆の姿が目に浮かんだ。老婆が言葉通りの死に物狂いで、僕の腕に付けた爪痕を見た。皮を剥ぎ、肉まで削いだ、老婆の爪。苦しかったからなのか? 生きたかったからなのか? その両方なのか? あの老婆の怨念を芋虫の戦い様の中に感じた。 ——執念。 その言葉が、この芋虫には一番合っている。まさに生きる為の、執念で戦っていた。
「凄い強いじゃない? お金、たくさん儲かったわね?」 唐突に、この場に不釣り合いな明るい声がする。弾む様な少女の声だ。
辺りを見回すと、向かいの男らの合間から顔を出していたのは、あの不思議な少女だった。いつの間にかに、あの少女が僕らの中に紛れていた。髪の長い、赤いスカートの、不思議な少女。
男達は少女には、一切お構いなしという感じだった。それは気にして無いと言うより、むしろ不思議な事に、少女の存在自体に気付いていないようだった。そして、男達が自分達の蟲に大声で声援を送っているのに随分と少女の声は通って聞こえた。
少女は、僕の顔を下から覗き込むように見て笑った。暗がりの中で、少女の顔だけが電気に照らされて、まるで生首が浮かんでいる様に見る。少女は男達の間から、顔を引っ込めると、男達の後ろを通り、僕の側にやって来た。
少女はまた僕の顔を見上げる。
「君こんな所で何してるんだい!?」
僕は男達に気付かれないように声を殺し言う。
「私欲しい物があるの、ヴィトンのバック」 と、そんな僕の態度は御構い無しに、冗談交じりに少女は言った。
「何言ってるんだよ! 僕は今命懸けなんだ。ふざけた事を言わないでくれ!?」
「あら、別にあなたが戦ってるわけじゃないじゃない? 死に物狂いで戦ってるのは、檻の中のあの気持ちの悪い芋虫でしょ?」
少女は言った。
僕はそう言われ、なんだか分からない苛立ちが、腹の底から沸いた。だが、その気持ちを、上手く言葉にして返せずに黙った。
少女はそれを見て、僕の心を見抜くように、クスクス笑っていた。
僕は少女を無視した。
その後も芋虫は勝ち続け、最強の一匹だと男達が言う蟲まで倒してしまった。
これで帰れると思った時に
「凄いじゃないか。俺の蟲と戦わせてみようか?」
僕の背後から声がした。
振り返ると、そこにはまた別の男が立っていた。
その男は、今までは居なかった。様子からすると、今来たという感じだった。
歳のいった男で、浅黒い肌で、木彫りの面のような顔には、深いシワが刻み込まれている。
向かいにいる男達は、その男に「父ちゃん!」と言った。
言葉だけを信じるなら、どうやらこの男は彼らの父親であるらしい。
——ふと気付く。父親の横に居るスカーフを被った小さな女性は誰だろう?
母という感じじゃない、随分と若く感じる。顔は見えないが、たどたどしい身のこなしから幼さを感じる。彼らの妹だろうか?
「ううーん。これは、長年蠱毒を専門に扱っている俺さえも見た事も無い気味の悪い蟲だな。そして、とてつもなく強い。こんな強い蟲見た事が無い。これだけ戦って、まだ蠱毒に変化していない。——という事は、まだこいつは成虫じゃないということだ。成虫になれば更に、もっともっと何倍も強くなるだろう」
父親はいたく感心したように、僕の横に立ち芋虫を見ながら言った。
そんな父親に、男達の1人がやって来て、代表して今までの経緯を話した。
それを聞いて
「よし分かった! では今度はやはりワシの番だな。ウチのガキ供の蟲が全部負けたとあっちゃあ。コイツに勝てば帰してやろう。今日、捕れたてのスペシャルな蟲だ」
と父親は威勢良く言って、小さな小箱を取り出した。
掌に収まるほどの、小さな白桐の小箱だ。
どうやら僕の芋虫は、まだ戦わなきゃいけないらしい。
父親が小箱を開けると、小さな小指の先ほどの芋虫が入っていた。僕の芋虫に良く似ている。
それを見て男達が、おおーっ! と歓声のような声を上げた。
よほど凄い蟲なのかと僕は思ったが、
「とうとう、忌々しい蟲を取ったのかっ!?」
「今日は赤飯がいるな!」
「なんとも可愛い芋虫だ」 などと口々に言った。
想像していた言葉と随分と違う。
「どうだ。やっと本物の女になって? 女になった顔を見せろ——」
兄が走り寄って来て、女のスカーフを無理やりに取った。
女は恥ずかしそうに顔伏せて、赤らめていた。
見れば、女というよりは、それはまだ幼い少女だった。
その顔には見覚えがあった。さっき老婆から救った、あの少年にそっくりではないか? いや、あの少年だ。違いない。だが、先ほどの少年よりいくらか歳が上に見える。あの少年の兄弟だろうか? となると、あの少年とこの男達も? いや、まるで違う。あの少年に、こんなガサツで得体の知れない嫌な感じは無かった。どんな育ちをしていても、優れた人間は雰囲気でわかるものだ。この男達とあの子ではまるで違う。血は繋がってはいないに決まっている。となると、この子も違うに決まっているのだ。この子とあの子は、同じ感じがするのだから。
証拠は無いが、僕にはなぜかその考えに偉く自信があった。
僕の頭に嫌な想像が浮かぶ。
まさか彼も、此処で男娼のような事をさせられているのか? では、あの小箱の中の小さな芋虫は——。僕はハッ!? とした。去勢された少年のペニスか——。
「君は——」 と僕は思わず彼に声を掛けていた。
少年は「はい?」 と言い、何も知らぬという顔できょとんとして僕を見た。
見れば見るほど、本当に良く似ていた。やはり本人では無いかと思うほどだが、男達の会話からしても、この子は此処へ来て大分経っているという感じだった。あの少年はさっき僕と会うまで、あの老婆に育てられていたのだ。身長はあの少年とほとんど変わらないか、僅かに高い程度だが、顔が少し大人びてしっかりしているような気がする。でも雰囲気こそ多少違うが、本当に良く似ている。他人の空似と言うやつだろうか? やはり、あの少年と兄弟ではないのか? そう思わずに居られないほど、本当に良く似ているのだ。そして、となると最初にあった足の悪い少年にも似ている事になる。これは、どういう事だ? 三兄弟か? 確かめるには実際に本人に訊いてみるしかないが、この男達とも複雑な事情が有りそうなだけに、今此処で少年に根掘り葉掘り直接は訊くわけにもいかないだろう。
「さあ、では始めようではないか! これが本当に最後の戦いだ!」
と父親が両手を掲げ、声を上げた。
僕は少年に詳しく訊けぬまま、最後の勝負に望む事となった。
父親に渡された小箱から、兄はピンセットで小さな芋虫を取り出す。そして、檻の中に投げ込んだ。
小さな芋虫は、怯えたように小さい体を更に小さくして縮こまっていた。
父親は、こんな蟲で僕の芋虫に本気で勝てる気なのか? 僕には彼らが何を考えているのか、まるで分からなかった。こんな小さな芋虫では、簡単に八つ裂きにされてしまうだろう。悲惨な末路は容易に想像できる。予想通り僕の芋虫は、小さな芋虫に、自分には害はないよとでも言い聞かせるようにゆっくり忍び寄ると、突然襲い掛かり丸呑みした。小さな芋虫は呑まれながら、もがきはしたが特に攻撃という攻撃は何も出来ないまま食べられてしまった。
これで全て終わったと安堵した瞬間、僕の芋虫は急速に変化し始めたのだ。
「——蠱毒になるぞ!」
父親が突然嬉々として叫んだ。
背を割り脱皮をすると、どうやって芋虫の中に入っていたんだと思う様な、巨大なサナギが姿を現した。それは、まるで茶色いジャンボ餃子みたいだった。
「これは、素晴らしい完璧な蠱毒じゃないか! ワシの経験からすると、このサナギの形からして、羽があるんじゃないか? 見ろ、すぐにでもコイツは羽化するぞ! 成長を待つ事すら無いんだ。ワシの思った通りだ。あの小さな芋虫が、蠱毒への変態の大きな切っ掛けになった! 完全体になるぞ!」
父親が叫ぶ。
父親が言い終わると同時に、サナギの背がパリパリと割れて、中からまばゆい七色の光が漏れる。そして、ゆっくりと何かが出て来た。
それは蝶か蛾のような大人の背丈ほどもある巨大な蟲だった。
くしゃくしゃにサナギの中で折り畳まれていた羽が広がり、ぴんと張った美しい羽となった。羽は薄暗い部屋の中で、自ら七色に発光していた。あの醜い芋虫がこのように美しい蝶に化けるとは——。男達も羽化した蠱毒に皆目を奪われていた。
僕はその隙を突き、檻を蹴飛ばして壊した。蠱毒にとっては強力な結界でも、想像した通り、人間にとっては物理的に破壊できる単なる木枠にしか過ぎない。
蠱毒となった芋虫は、檻から飛び出て、鱗粉を振り撒きながら羽をばたつかせ、男の一人に襲い掛かり、丸まったストローみたいな口を伸ばし頭に突き刺した。刺された男は、脳髄を吸われみるみるミイラのようになった。
「絶対に逃がすな! こいつは凄いっ! こんな蠱毒は不可思議不可説転巡り合えん!」
父親が叫ぶと、土間の端に立て掛けられた大きな虫取り網などを各々男達が持って、死んだ男は放ったらかしで蠱毒を必死に捕らえようとしたが、まるで実態が無いかのように、網に入ったかと思うとするっと蠱毒はすり抜けた。
僕は蠱毒に襲われぬように、父親の隙をつき少年の手を引いて土間の端に逃げ身を屈めた。1人の男の網が裸電球に当たり、パリンッ! と音を立てて割れ暗闇に包まれた。暗闇の中で蠱毒だけが輝き舞っている。僕はしめたとこのパニックに乗じて、少年を連れて逃げ出した。
男達も父親も蠱毒を捕まえるのに夢中で、僕らにはまるで気付いていないようだった。
僕らは逃げた。とにかく、男達から遠くに離れようとした。 だが気付くと、手を引き、後を走っていた筈の少年の重みが無い。手はちゃんと握っている。 おかしいと思い、振り返ろうとした。その時——。
「お兄さん助けて! お兄さん助けて!」
僕より上の場所から、助けを呼ぶ少年の声がした。
振り返り見ると、蠱毒が少年を抱えて飛んでいる。いつの間にかに、追い付かれていた。男達はどうなったんだ?
少年は右手を伸ばす。繋がれているのは僕の右手と少年の左手——。僕は左手を伸ばした。
僕は伸ばされた少年の右手を握ろうとしたが、蠱毒は急に舞い上がり、僕は繋がれた手を離してしまった。みるみる少年と蠱毒は上昇して行った。
キラキラと降り注ぐ七色の鱗粉の向こうから
「助けてお兄さん! 助けてお兄さん!」
と嘆く少年の声が虚しく響く。
蠱毒はそのまま少年を抱え、高く高く舞い上がり、空の彼方に消えた。それは瞬く間の出来事だった。
連れ去られる瞬間の少年の顔が、脳裏に焼き付いていた。何が自分の身に起きているか理解できず、不安と絶望に彩られた恐怖の顔だった。
少年を追う視線を少し下にずらすと、遠くの空を黒い闇が覆っているのが見えた。
それは、さっき駄菓子屋の老婆の家から逃げていた時に見た、あのあやしい闇だった。
たぶん、あの下は呪い屋親子の家の辺りだろう。あの禍々しい闇は一体なんなんだ? そしてこの町は一体なんなんだ? それに、あの少年だ。あんなに似た人間に、日に二度出会うだけでもかなり稀な出来事なのに、日に三度、こんな小さな町で、しかもあんな状況で偶然に出会うなどという事が普通あるだろうか? なんだか分からないが、とんでもなく異常な事が今起きている。とにかく早く駅に着いて、此処から直ぐにでも立ち去ろう。良く分からないが、このまま此処に居ては、さらにもっと悪い事が起きる気がする。現に今までとんでもない事が何度も起きている。その上、僕は成り行きとはいえ人を2人も殺してしまったのだ……。どんなに正当性があろうが、それは法の上では許されない行為だ。とにかく、急いで此処を出なければいけない。それだけは確かだ。
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