【序章】

1/1
前へ
/11ページ
次へ

 【序章】

——はじまり、それは警察への一通の電話からだった。    知り合いが連続殺人に関わっている。——という、とある殺人鬼に関する密告であった。 密告者は一切名前はおろか、素性を語らなかった。そして、自分もそいつに殺されるかも知れないと、電話の向こうで男は声を震わせ言った。物騒な話なので担当を捜査一課の者に替わり、詳しく内容を訊いてみるが、どうにも男の話は、化物がどうのこうのなどと、意味が分からない部分が多く、警察の訪問も要らないという事だったので悪戯として処理された。 だが男は数日空けて、また電話して来た。 何度かそんなやり取りをして、さすがにこれは業務妨害だと厳しく口頭で注意した。それから暫くは男からの電話は無くなったが、忘れた頃にまた電話があった。だが今度は、連続殺人犯だという男の名前と年齢を言った。そして、いいから来てくれ、そうすれば分かる、と場所も指定して言って来た。そこには男の話を裏付ける、決定的な物があるというのだ。それが何か明確に言わなかったが、そこまで言われると、業務上一応は確認に行かねばならず、新宿署生活安全課の制服警官達が言われた場所にとにかく向かった。   (その連続殺人犯だと言われる男をAと呼ぶ事にする。なぜAなのか? 理由の一つは、彼が19歳のまだ未成年だという事であり、現段階ではそんな事件を起こした確証が無いからである。それと共に、Aという人間の存在する信憑性自体も疑われていたからだ。そんな少年は、実際は居ないのかも知れない。) 教えられた新宿某所に在る築34年の安アパートに、管轄の制服警官2名が着く。 そこは繁華街からだいぶ離れ、新宿のイメージとは程遠い、古い住宅が立ち並んでいた。 そんな中に在った。元々は白かったのであろう木造2階建てのアパートの壁は、経年劣化でねずみ色にくすんでいた。歩くとカンカンなる錆びた赤い鉄板の階段を上ると教えられた部屋があった。部屋の鍵は開いていて、部屋のドアを開けると、すぐに警官逹の目に入ったのは、倒れている人間の足だった。 ドアを開けてすぐにキッチンがあり、そこを突っ切った向こうに部屋がある。その部屋の入り口から人の膝から下が見えた。仰向けに倒れているようだ。 とにかく急いで部屋に入ると、首にベルトを巻かれた男が倒れていた。男はその場で死亡が確認された。今まで半信半疑でやる気の見えなかった警官達だが、それを見て急に血相を変える。すぐさま応援が呼ばれた。殺人事件とあって、新宿署の捜査一課の刑事2名が鑑識官達と共にやって来た。 鑑識によると、死後数時間というところだった。遺体はまだ僅かに温かった。そして警官達は、現場で死体以外に驚くべきものを発見していた。それは美しい少女だった。痩せた小学生くらいの小さな少女が一人、昏睡状態で倒れていたのだ。その為に、Aに付いては一旦保留にされ、急いで西新宿中央病院にその少女が運ばれた。そしてそのまま、集中治療室に入れられる事になった。少女には誰かと争ったような擦過傷が僅かにあったが、倒れていた直接の原因は外傷による物ではなかった。医師の診断では、症状からすると何らかの薬物が飲まされている可能性が高く、すぐ胃の洗浄が行われた。少女は、まるで人形のように美しく軽く小さかった。倒れて死んでいた男がAかと思われたが、見た目が聞かされていた年齢より随分と上に見えた。少なくとも、とうに成人は迎えているだろう。 部屋は——、まだ確証は無いもののAの物だとすると、聞かされているような連続殺人鬼の部屋とは思えない様子であった。築34年の朽ち始めたアパートの外観とは裏腹に、1Kの小さな部屋は質素ではあるが綺麗に整頓され、磨き抜かれた風呂とキッチン、可愛いカラフルな食器、明るい空色のカーテン、銀河鉄道の夜の文庫本と聖書が1冊ずつ、ゴミはきちんと分別され、資源ゴミのトレーはそこまでする必要がないだろうと思う程すべて綺麗に洗われていた。回収する相手への気遣いだろう。そしてどこかで掘ってきたのか、一輪のたんぽぽの花が、大事そうに鉢植えにされ窓辺に置かれていた。殺人犯の血生臭さなど一切無い、それはまるで清潔感に溢れた少女の部屋そのものであった。少女らしい、少女の為の部屋だ。男の臭いは一切無い。食器類も数から彼女の物だけだろう。数が少ない。服もそうだ。あの昏睡状態の少女の為に作られた部屋なのだろうか? 少女に、倒れていた男が数々の品を買い与えて作らせた部屋なのか? それともAか——?  そうなると少なくとも、誘拐して来て無理やり監禁して、少女が男の部屋に一緒に住まわされていたのとは、少し事情が変わって来る。彼女1人で暮らしていたとなると、金銭面だけ養われていたのか? 子供が1人で部屋を借り、住むなんて事は絶対にない。必ず大人のバックアップがなければ無理だ。部屋だって、大人が代理で借りなくては借りられない。どういう状況だ? まあその辺は、調べれば直ぐに分かるだろうが——。  それ以外にも、何かこの部屋に、刑事の1人は違和感を感じていた。 この部屋は、何処と無く現実味を欠いている気がする、そう感じていた。 今回事件を担当する警部の清村は、顎を親指と人差し指で挟むように摩りながら、首を傾げる。 清村正は交番勤務から、叩き上げでここまで来た。白髪の多い頭や、多少出っ張った腹からは、想像も出来ない修羅場を潜って来た。だから色々な現場は見て来たが、今回は簡単には状況を理解出来なかった。何処と無く、不思議な感覚を覚えていた。 まるで、映画かドラマのセットの様な、意図して作られた様などこか不自然な違和感のある部屋だった。だが、どこがどうおかしいのか? と考えると、それは良く分からないのだった。これに関しても、調べて行けば判明するだろう。 「何なんスカねぇ?」 そう照れ笑いのように顔を歪ませるのは、清村の相棒である飯田晴矢だった。 その笑いの意図は、さっぱり分からないという事だ。ただ、清村の分からないとは意味が違った。色々考察した上で分からないのではなく、一から分からないのだ。何から手を付けたら良いか分からないのだ。困り顔というわけだ。 だが仕方ない、飯田は警部補ではあるが、今年大学を卒業して試験を受けて合格し刑事になった。所謂キャリア組というやつだ。キャリア組の始まりは、警部補からだ。ノンキャリより2階級上からの出発になるが、逆を言えば、2階級分の経験をすっ飛ばしてからのスタートになる。それは考え物でもある。飯田は頭は悪くないが、多少良い意味で人格に難があった。刑事よりは、接客業の方が向いていそうだ。それが清村の、飯田への対する最初の印象だ。本人にも、会ったその日にそう告げた。 部屋で見付かった男の遺体の身元は、清村達の捜査で所持品などからすぐに判明した。 聞かされていたAではなかった。吉田富夫28歳、職業不詳ではあるが、宗教関係の詐欺まがいの商売を手伝っていた。所謂新興宗教詐欺だ。吉田の携帯の通話記録などを調べると、警察に電話をしていたのは、どうやら吉田のようだ。 遺体の状況から吉田の死因は、絞殺による殺人の可能性が高いと思われたので、すぐに殺人事件の容疑者として、本格的にAの捜査が開始しされたが、どんなに捜査しても吉田の周りにAなどという男の影は無かった。そして、Aの部屋と思われた部屋は吉田本人が借りた物だった。 そもそも本当にAなんて人物は存在するのか? 清村達は、そんな疑問がずっと拭えずにいた。吉田が少女に薬を飲ませ、自ら自殺をした可能性も在る。実際吉田の首に巻かれたベルトは吉田の物で、吉田の指紋しか無かったのだ。吉田のスラックスに、ベルトが無かった事から、当日吉田が巻いた物だろうと思われた。やる気になれば、人は自分で自分の首を紐などで絞めて、自殺する事も出来る。実際、そんな事例もある。あるリンチ殺人を犯したグループの主犯の女は、獄中でシーツを切り裂き作った紐で、布団の中で自分で自分の首を絞めて自殺をした。 なら吉田が、無理心中を他殺に見せようとしたのかというと、それもそうする動機が分からなかった。きっと少女の身元が分かれば、その辺も見えて来るのだろうが、少女は依然意識不明のままだった。所持品からも、身元が分かるものは無かった。 ——また 、あの少女が吉田を殺し、自殺した可能性も一応は考えたが、それらは後の検死結果ですべて覆された。吉田の首の骨が、ぽっきりと完全に折れていたのだ。吉田の死因は窒息死ではなく首の骨折による頚椎損傷であった。首の骨の一部なら、自分で絞めた場合でも、多少は折れる事はあるかもしれないが、自分で絞めていれば首の骨が完全に折れる前に意識を失うだろう。頸髄は首の骨の中にあり、完全な骨折や脱臼でもしない限り傷つく事はない。吉田の自殺の可能性は無くなった。完全な他殺である。また、大人の男の首の骨をああいう風に完全に折るのは、同じ成人男性でも至難の業であるそうで、そんな事は到底あの少女の力では無理であった。これがAの犯行であったなら——。もし本当にAが存在するなら、その並外れた腕力からも、Aという人物が如何に危険で凶暴な人物かが窺い知れる。人に襲い掛かり首の骨をへし折るなんて、常人に出来る芸当ではないのだ。 そして部屋の中から、吉田名義の薬袋が大量に見つかった。それは吉田が、精神科で処方してもらっていた眠剤や精神安定剤だった。かなりの量が溜まっていた。洗浄した少女の胃の内容物の検査が行われ、その結果から少女が飲んだ薬は、その薬の中の数種類である可能性が高い事が分かった。薬の呑み合わせが悪く、また少女の体が小さかった為に、副作用で昏睡状態にまで至ってしまったらしい。遺書も無く、その薬を少女が自ら呑んだのか、吉田や他の誰かに飲まされたのかはまだ分かってはいない。 Aには吉田富夫殺人の容疑が掛けられていたが、先にも言った年齢の問題と、身元不明の未成年の少女が絡んでいるという事も有り、厳重な報道規制が敷かれていた為に、世間はこれが連続殺人の一環である可能性がある事を知らなかった。 Aが一体何をしたのか? 最初の吉田の通報では、最低でも肉親を含み6人は殺害したという事だったが、実際にはもっと多いだろうとも語っていた。 吉田は一つ一つの殺人について詳しくは話さなかったが、○×ルームというレンタルコンテナの1つに、自分の証言を裏付ける証拠が有るとも最後の電話で言っていた。 清村達が、教えられたレンタルコンテナの管理業者に向かい調べると、教えられたコンテナは吉田の所属していた新興宗教団体の先輩信者の借りている物だった。その先輩という男に連絡を取ろうとしたが、レンタルコンテナの管理業者に登録されている携帯の番号では通じず、記載された住所のマンジョンにも出向くが不在で遭った。たまたま帰宅した隣の部屋の住人に聞くと、もう大分帰っていないようだと教えられた。 仕方なく管理業者の立ち会いのもと、強制的に開けさせる事となった。 コンテナを開けた途端、ブブブーンッ! と閉じ込められた大量のハエ達が羽音を立てて飛び立ち、清村は今までの捜査経験の中で、何度か嗅いだ事のある、この世で一番不快な臭いを嗅ぐ事になった。魚の内臓を沢山集め腐らせた臭いを、さらに何十倍も濃縮したような、目眩がするほどの吐き気を催す酷い臭い。——それは死体の腐敗した臭いだった。コンテナの中には何重にも巻かれた半透明のゴミ袋に入った、切断された死体があった。 バラバラだったが、持ち帰り検視官が調べると、どうやら遺体は1人の物のようだった。 初夏の陽気で、酷く腐敗が進んでいた。 遺体の体液が、ビニール袋の結び目から漏れ、どこからか入ったか、元々入っていたか、ハエが体液の漏れた場所に卵を産み、ウジが湧き、その体液を啜りながらウジが成長して羽化してハエが大量に発生していた。指紋も分からない状態だった。遺体は土中にあるより、地上にある方が腐敗が早い。理由は温度と、空気に多く触れる為だ。夏ならば、さらに腐敗の速度を加速させる。 頭部も無かった為に指紋だけではなく、歯形の照合も出来ず、身元の確認には手間取りそうだったが、男性なのは性器が何とか確認できた為に分かった。年齢的には20代から50代。腐敗が酷くて、頭部もないので、かなりアバウトな年齢鑑定になった。頭部があれば、歯からは身元が、頭蓋骨の縫合の癒着具合から年齢の判別が出来た。だが鎖骨や大腿骨の形状から、確実に成人(25歳以上)ではあった。 なのでそういう事からも、この遺体はAでは無いとされた。Aは未成年だ。 そして——。決定的なのは、コンテナの中で、赤ん坊の時のAの物と思われる古い母子手帳が、遺体回収の後で発見された事だ。吉田富夫に教えられた名前と、年齢も重なる。 バラバラ死体の推定年齢より遥かに下であった。 そんなことから、警察は多分遺体の主は、今行方不明になっている吉田の先輩信者で、このコンテナの借主の男ではないかと推測した。年齢も鑑定範囲内に収まる。すぐに連絡の取れない男の、捜索を開始しする事になった。 ただこれでAという人物が、殺人に関わっているかはともかくとしても、確かに存在する事は分かった。 母子手帳を元に調べると、Aには2人の、一緒に暮らしてはいない実の姉弟が居るのが分かった。姉からAの捜索願が出ていたのだ。 姉弟に直接会って訊くと、幼い頃以来Aとは暮らした事は無く、養父母の話からも、その事について嘘は言っていないようだった。 姉弟は幼い頃に自分逹を引き取った実父が失踪し、他に身寄りも無かった為に、施設に預けられて、そこから姉弟一緒に養子に出され今の養父母に育てられていた。養父母との関係は良好で、まだ学生の弟は今も養父母と暮らしているが、姉は結婚し嫁いで子供も1人居た。姉弟のAの捜索には、養父母も協力的であった。姉弟を養子に迎えてから直ぐに、姉が成人するまでは、養父母が捜索願を継続的に出していた。成人後は、姉が捜索願いを出している。養父母への気遣いからだろう。Aが殺人事件に関わっている可能性を聞き、姉は酷くショックを受けていた。Aの人生には不明な点が多かった。両親の離婚後は、姉の話ではAは一時期母方の祖母と暮らしていたという事は分かっているが、そこから今まで、どうやって生きて来たのか全く分から無かった。——まあ、現在は生死すら分からない状況なので、どうやって生きて来たかという言い方は微妙ではあるが。実母に関しては、男を作り出て行ったので、姉弟共に離婚後の行方は分からないという事だった。 Aの姉弟が、身元不明のあの少女について何かを知っている可能性を考えて、姉弟に病院に足を運んで貰った。少女は以前昏睡状態ではあったが、容態は安定していたので、面会くらいは医師も認めた。Aと今までまったく会った事の無い姉弟に訊いても、何か分かる可能性はあまり期待出来なかったが、まったくAの足取りが掴めず、どんな小さな情報でも清村逹は欲していた。 そんな刑事達の焦りも知らずに、姉は赤ん坊を連れ、何か協力出来ればとわざわざ出向いてくれた。姉を労わり、赤ん坊をあやす弟の姿から、とても仲が良い姉弟なのが見ていても分かった。姉の夫も、仕事を休み態々付いて来た。連続殺人事件などというこの殺伐としたこの状況の中では、赤ん坊の笑い声は清村逹にとって一服の清涼剤となった。 眠る少女と面会させたが、2人はまったく知らないという事だった。 その表情からは、嘘は言っていそうに無かった。姉弟から得られる情報は、これ以上特に無さそうに思えた。 ——吉田の話では、Aは自らの両親を殺している。つまり、この姉弟の実父や実母を殺した事になるが、その事は刑事逹はまだ話さなかった。話の裏もまだ取れておらず、今此処で話せる様な内容では無かった。だが、母親は今どうなっているのか分からないが、姉弟の話では実父は失踪している……。 まだAの幼い頃の写真すら、手に入れられていない。このままAを逃がしてしまったとしたら(もう既に、この世に居ないかもしれないが)、警察の捜査方法に落ち度は無いと確信しているが、すぐに確認に向わず、通報してきた吉田を殺されてしまっている事実があるので、マスコミに初動ミスを指摘される可能性も大いにあった。警察組織は表には出さないが、内輪では内心焦っていた。   少女は姉弟の訪問の数日後、目を覚ました。まだ話の出来る状態では無かったものの、絶え間ない医師達の努力により、回復の兆しを見せた為に一般病棟に移された。 Aがやって来る事も考え、少女の病室には警官が交代で常に1人着いていた。 普通なら、もう心配が無くなるくらいなのだが、少女が痩せ過ぎている為に、予断を許さない状況は変わらなかった。まだ意識がはっきりしない中ではあったが、少女に医師による簡単な検査が行われた。それは、今の病状についてのものでは無かった。治療中に、少女に虐待を受けていた形跡がいくつか発見されたのだ。そこで、少女が過去に受けたであろう、吐き気のするような虐待を知る事となった。 ——これもAによる物なのか? 医師に呼ばれてやって来た清村は話を聞き絶句する。  その虐待の異常さは、子供の人格を破壊するには十分な物であった事が、医師の説明など無くとも清村達にも容易に想像出来た。 医師は一通り説明すると、清村達を待たせ、少女の容態を見に診察室にまた戻った。もし問題がなければ、今日これからもう少し踏み込んだ検査をする予定だ。 清村は説明を一通り聞くと、気分を落ち着かせる為と考察の為に、1人廊下に飯田を残して喫煙所に向かった。飯田も一緒に行けば良いのだが、生憎飯田はタバコは吸わなかった。世代の違いを感じる。 喫煙所に行く途中で、待合室に飾られた巨大なステンドグラスに目を奪われた。 玄関と直結した総合受付の側の待合所の他にも、病院内には各科で待合所が大なり小なり在った。その待合所の1つに、明かり取り用兼装飾として、ステンドグラスが壁にはめ込まれていた。ステンドグラスを通し射し込む柔らかい外光、待合室に並べられた長椅子には診察を待つ患者達が座る。皆、体調が悪くて項垂れているのだろうが、それがお祈りをしている様に見えた。その待合室の雰囲気は、厳かで一種協会の様にも見えた。 「綺麗ですよね?」 清村が廊下に突っ立ってステンドグラスに見とれていると、若い女性看護師がニコニコと微笑みながら声を掛けて来た。診察を待っている患者か、その付き添いと間違えたのだろう。 「ええ」と答えた清村に、看護師は説明した。 「ヒエロムニス・ボッシュのAscent of the Blessedです。理事長が好きな絵画だそうで、本物は買えないからステンドグラスにしたんです。それでも、うん百万とかするんでしょうけど——」 「アセ? アセント——オブ?」 「アセント オブ ザ ブレストです。意味は——、なんだったかな? 先生に聞いたんだけど忘れちゃいました」  看護師は照れて笑った。 「はあ? 自分もこういう物はさっぱりです。ただこれは、ちと病院には合わなくないですかね?」 「え?」 「綺麗ですが、画の内容が——」 「そうですね。ちょっと、合わないかもしれませんね?」 看護師は笑ってそう答えた。 そのステンドグラスには、天使か悪魔の様な者達と、多分3人の人間が描かれていた。そして、彼らの頭上には巨大な穴がぽっかりと空いているのだった。空に空いた巨大な穴だ。ヘンテコな不思議な絵だった。だがなんと無く、意味は伝わった。人が死して別の世界に召されようとしているのだろう。美しい画だが、病院にはどうだろうか? 清村は思わず首を傾げる。   清村は喫煙所でタバコ1本吸ってみたが、なんの考察も出来なかった。むしろ1人タバコなど吹かしていると、逆におかしな焦りが出て来て、急いで飯田の元に帰った。考えるにしても、もう少し情報が必要だった。その為に、次に何をすべきか、2人で話し合う必要があった。 飯田の元に戻ると、診察室の看護師に行き先を告げて、1階ロビーの一角にある休憩所に2人で向かった。診察の終了をそこで待ちながら、今後の捜査を話し合う事にした。 休憩所に向かう途中——。 「ああ、さっきの——。先生に訊きましたよ?」 廊下を歩く清村達に、そう声を掛けたのは、さっきステンググラスの側で会った若い看護師だった。清村達の事情も分からずに、また明るく声を掛けて来た。 「何がですか? あの子の検査に付いてですか?」事情を知らない飯田は、訳が分からずにそう訊き返す。 当然看護師の方も清村達の事情など知らないから「え?」と不思議な顔をした。 「違うよ。さっき、俺が喫煙所に行く途中で会った看護師さんだよ」 清村は飯田にそう説明した。 「ああ、そうなんすか。——で、何の話すか?」 看護師はニコニコしながら言う。 「画の名前、cent of the Blessed——。直訳すると祝福された者の上昇ですが、画の和名は『楽園・祝福された者の楽園への上昇』ですって。『地獄・呪われた者の堕落』と言う画と対で描かれた物なんだそうです」 看護師はそうとだけ告げると、嬉しそうに足早に去っていった。 その頃、診察室では——。 少女の意識はまだはっきりしてない状態は続いていたが、少女の容態は安定していると判断されたので、虐待に関して医師の更なる踏み込んだ検査が行われていた。それは、暴力以外にも性的虐待を受けていた場合、妊娠の可能性や感染症の可能性があるからで、妊娠していた場合には早くの処置が必要なるからだ。少女の体と成れば、中絶するにしても、胎児が生長すると肉体への負担はどんどん大きくなる。この少女自体がかなり痩せているので、さらに危険度が高まるだろう。少女は酷い事に、同年代の女児の平均体重よりも、10キロ以上も軽かった。 内診台に乗せて、少女の股を開く。少女は恥じる事も無く、虚ろに天井を見つめていた。まだ意識が朦朧としているのかも知れない。 検査を進めて行くと、医師は少女の体に加えられた恐ろしい異常に気付いた。 そして急いで清村逹を呼ぶように看護師に言った。 清村達が来るのを待っている間に、少女の容態が急変し、また昏睡状態に陥った。 医師は急いで少女を集中治療室に運ばせた。   看護師に連れられ、集中治療室の前にやって来た清村達に、救命処置をする医師と交代し、外で待っていた検査をしていた医師から少女の今の容態が告げられた。 厳しい状態にあり、予断を許さない状況にあると——。そして、ある恐ろしい可能性が告げられた。 それを聞き、清村は急いで捜査本部に電話を入れ、すぐAの姉弟の下に向うように言った。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

18人が本棚に入れています
本棚に追加