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ハカハカしたときは誰かと心をとけ合わせる
月に一度の通院日。今回は検査もあり、採尿用のカップを持って女子トイレへ。狭い通路と、二つの個室。手前はロックされていて、モソモソと使用中の気配。
私は奥の個室へ入り、さっさと尿を採った。十年以上もやっているから慣れたものである。お隣さんはまだモソモソやっているようだから、衣服を整え、先に個室から出た。
その直後。お隣さんのドアも開き、中からゆっくりと、――じいさんが出てきた。
びっ くりした。
じいさんである。じいさん。
男。女子トイレに男。
もさぁ、もさぁ、とゆっくり歩を進めて、私のすぐそばにある採尿カップ置き場へ自分のカップを置くじいさん。
私、完全にフリーズ。だけど頭の中ではエヴァのMAGIの如く、三人のちっちゃい和珪ちゃんが緊急会議。
正義和珪
「ここ女子トイレですよって言おうか」
穏やか和珪
「今さらじゃない? 用足す前ならともかく。多分、女子トイレだって気づかずに入ったんでしょ。あるいは自分ち感覚。あと見た目はじいさんだけど、中身は乙女って可能性もあるよね。いずれにせよ、わざわざ傷つけることしなくてもいいでしょ」
怖がり和珪
「傷ついてるのはこっちだよ! それにこのじいさん、よく見たら私(167cm)より大きいし重そうだよ。変に刺激するのナシナシ! 急に機敏になって反撃してきたらどうするの。私がいるの最奥だし、通路狭いし、下手したら逃げられないかもしれない。……あ、どうしよ、怖くなってきた」
再び正義和珪
「わかった。じゃあ、このじいさんには何も言わない。だけどもし襲ってきた場合は大声出すこと。あとパンチは手を骨折するから掌底でアゴ狙って、遠慮なく股間を蹴り上げてから逃げろって、昔元カレが言ってた」
再び怖がり和珪
「無理だよ! 中学の頃に車の中で股間見せる人に遭ったじゃん! あのときだって怖くて声なんか出なかったじゃん!」
再び穏やか和珪
「ここはとりあえず、野性のクマにでも遭遇したと思って、立ち去るのを待ちましょうよ」
緊急会議の結果、私は壁になった。
息をひそめ、カップを持ったまま個室のドアに張りついて直立不動。しかし目はまっすぐクマじいさんを見つめる。抗議と観察と防御を込めて。
幸い私のことは目に入っていないらしく、クマじいさんはマイペースにゆっくりと女子トイレを出て行った。
ドアが閉まってから数秒おいて、ようやく私の壁モードは解除された。採尿カップを、クマじいさんのと少し離して置く。全身を駆けめぐる恐怖やら緊張やらで、鼓動は激しく、手も震えている。岩手の言葉で言うと、ハカハカして治まらない。
*
ハカハカしたまま次の採血へ。なんとクマじいさんにまた遭遇。検査の流れ上しょうがないにしても、よりによってクマじいさんの隣の席で採血されることに。だけどこっちは毎回たっぷり5本も抜かれるから、その間にクマじいさんの方は終わり、部屋を出ていった。
困ったことに、私のハカハカはまったく治まる気配を見せない。このままでは今日一日ハカハカし、「あのときこう言ってやれば良かった」などと長々と苦悩した挙句に余計な不健康を招くことになる。
これはもう、なんとしてもこの場で気持ちの浄化をしなければならない。私は採血してくれた看護師さんに話しかけた。
「あのおじいさん、さっき女子トイレで採尿してたんですよ」
「え……! あらぁ……やだねぇ」
「びっっっくりしました。私も採尿してから鉢合わせしたから、フリーズしちゃいました」
「ねー、びっくりするよねー。文字見えなかったのかもねー」
こういう浄化目的のときに心がけるのは、誰かと心を通わせる、とけ合わせる、ということ。病院側に報告してやろうとか、あまり正義感や攻撃色を多めに出すのは、結局のところ私にとって良くない。気持ちがトゲトゲしくなって浄化にならず、またハカハカすることになる。
母に昔、「和珪ちゃんはケンカできない体なのよ」と言われたことがある。あながち違うとは言い切れない。
「なので、あのおじいさんのカップは女子トイレにありますから」
「はーい、ありがとうね」
この会話のあと、ハカハカはピタリと治まった。コントロール成功である。看護師さん、こちらこそありがとう。
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